第二十二話
身を切るような冷たい海水の中、呪われた歌が脳に充満して意識が飛ぶ前に、イワキリは自分の乗っていた杖が消えているのに気がついた。
「先輩も・・・やられたのか・・・」
攻撃の機会を魔物に与えてしまった自分の責任だ。
ああ俺は死ぬのか、グッバイ俺の人生。
朝の通勤ラッシュのように理性が身動きを取れなくなっている中、イワキリはそれでも、と口を動かした。
「他の2人は助けてくれ。」
相手に伝わったかどうか確認する前に、彼の意識は深い闇へと沈んでいった。
「もっとなぶればよかった。」
魔物はつまらなそうな顔をしながらつまらなそうな声で言った。
丁度、おいしいお菓子を口いっぱいに頬張って味わう前に飲み込んでしまったような気分である。
「ま、後二人いるし。」
愛おしそうにナイフを舐める魔物。
魔物は栄養を摂取しなくても死んだりしない。故に食事は嗜好の一つである。
それでも生き方が限定されている彼らにとってみれば重要だった。
だから楽しむことに集中してしまい、油断してしまったのも仕方ないと言える。
まずはどこから食べようかしら、と腕を伸ばした矢先である。
魔物は背中にデコピンされたようなかすかな痛みを感じた。
彼女は動きを止め、背中に手を回して原因を探ろうとしたが遅かった。
痛みを感じた部分がまるでブラックホールにでもなったかのように、体中の力という力が吸い込まれ始めた。
普通の人間ならば突然のことに反応できず取り乱す場面であるが、何百年と生きてきた魔物は
少し違った。
漠然とした滅亡の予感。
死にたい死にたいと前から思っていたのが、唐突に叶ってしまう戸惑い。そして死に瀕して初めて抱くもう少し生きたかったという矛盾した思い。
自分なりの結論を出す前に、魔物は事切れた。
「任務完了、と」
杖を構えながら呟く髑髏の麗人。
魔法を解くと同時に深い疲労が彼女を襲う。
気配を消す魔法は体に相当な負担を強いていた。
視界が揺れ、思わず手をついてしまいながら彼女はハンター3人のことを考えた。
あの時は3人が海に落ちた時点で死亡と判断したが、念を入れて生死を魔法で探るべきか・・・
天秤の一方では休息が、もう片方では任務続行が乗せられていた。
しかし彼女の精神力がこれ以上の任務を拒否し、休息の方をぐっと押し下げた。
彼女は帰り支度をしながら、若干言い訳じみたセリフを自分に言い聞かせる。
「魔物がホームグランドである海に落ちた獲物をすぐ殺さないはずないし。」
彼女の思考過程には「魔物が獲物をなぶるかもしれない」という事象が全く欠落していた。
イワキリは夢を見ていた。
前後左右上下が分からない真っ暗な空間で、彼はポツンと立っている。
ここがどこなのか、なぜここにいるのか、得てして夢ではそんな事に疑問を持つ人間は少ないのだが、イワキリも例外に漏れずそういった事柄には何も興味が無かった。
やがてぼんやりともやのようなものが浮かび上がり、それは人の形になった。
ベルフェゴールの姿だった。
「途中で諦めちゃうなんて、らしくありませんよイワキリさん。」
彼女は優しく、しかし真剣な顔で言った。
イワキリは返事をしようとしたが、まるで顎に枷でもはめられているかのように口は動かなかった。
焦燥感に駆られながら無理に舌を動かそうとしていると、やがて白い煙は鬼怒川の形になった。
「君みたいな気高さを持った人間が、あがこうとしないのは恥だ。」
部長らしい厳しい意見だ。そう思うとまた煙は変形した。
白と赤の派手派手なスーツににやけた顔。
脳の片隅に追いやられていたエウリノームだった。
「僕はね、最後まで向かってくるであろう相手としか戦わないんだ。」
挑発するような口調に猛然と反発したくなるが、やはり言葉は出ない。
煙は次にベラドンナになった。
「あなたの命の重みは、そんなもんなの?」
見下すような姿勢で言われたイワキリは掴みかかろうとして、突然体が水槽にでも放り込まれたように冷たくなった。
「な、なんだ!?」
イワキリはそこで夢から覚め、自分が海に漬かって凍えていることに気がついた。
同時に今までのことがフラッシュバックする。
慌てて辺りを見回すが、水面に立っていた魔物はどこにもいなかった。
白く立ち込めていた霧もどこかに消え去っていた。
自分は天国に来たのか?いや天国ならもう少し暖かいだろう、じゃあ地獄か・・・とイワキリは全然見当違いのことを考え始めるが、水面に浮かんでいる短剣が目に入り思考は中断された。
手に取り、確信を持つ。
「これ魔物が持ってた得物だよな・・・?」
つまり、全く考えにくいことだが、誰かが意識を失っている間に魔物を倒してくれた、ってことか・・・?
イワキリは最も可能性のある鬼怒川とベルフェゴールの事を思いつくが、すぐに有り得ないと打ち消す。
「・・・ま、いいか!」
魔物は死んで、この旅の目的である得物をゲットできたんだから、結果オーライだな。
イワキリの単純とも言える楽観主義の思考回路は決定を下した。
とその時、彼の耳に水音が聞こえた。
振り返るとこちらに向かって慎重に泳いできている2人の姿があった。
イワキリが口を開く前に、鬼怒川は唇の前に人差し指を立てて音を立てるな、という仕草をした。
身振りで耳を貸すように伝える。
「・・・魔物が倒されたのはおそらく、捕虜を殺したヒットマンの仕業だ。私達が死んだと思って撃ったんだろう。だからここからは船を捨てて泳いで行きたいと思う。うまくすればこれから先盗賊団の妨害を受けずに旅できるぞ。」
ひそひそ声でありながら、鬼怒川の声は珍しく興奮していた。
イワキリは再度周囲を見回した。
霧が晴れたためセラティエル海岸はよく見え、距離にしても3km程で泳いでいけない距離でもなかった。
しかし問題は・・・
イワキリは仕草でベルフェゴールに、大丈夫かと問いかける。
それに対しベルフェゴールは笑顔で大きく頷く。
3人は静かに、見晴らしの良くなった海で誰にも見つからないよう泳ぎ始めた。
同日、すっかり日が落ちてしまった頃、セラティエルの港町にて一人の少年が食事をしていた。
黒いマントを羽織ったままでいなければ誰もが惚れ惚れするような「上品さ」を彼はまとっていた。
伸びた背筋、完璧なテーブルマナー。
彼に近い席の女性客にちらちらと盗み見られるほどの美貌。
しかし彼はまるで病人のように青い顔をしていた。
程なくして食事が終わり、会計を済まそうと立ち上がったところで少年は新しく入ってきた客が目に入る。
ベージュのローブ、全身黒い服、青いワンピース。
少年は体の向きを変えるとトイレへと向かう。
個室に入り鍵をかけると彼は水晶玉を取り出し念じた。
程なくして髑髏の麗人の顔が映った。
「何ペヨーテ?あんたが連絡してくるなんて珍しいね。」
「おいローズ、セラティエルのアスラフィル港にいるんだがさっき例の3人を見たぞ。どういうこったよこれは。さっき始末したって連絡よこしたじゃないか。」
しばらく続く無言。いい加減ペヨーテが怒鳴ろうとした瞬間に、ああ、と気の抜けた答えが返ってきた。
「生きてたんだあいつら」
「生きてたんだじゃねー!お前どうして見逃したんだアホが!」
「んーとね、魔物に3人とも海に落とされたみたいだったから魔物を撃ったの。それでまあ死んでるか確認するのが億劫になったというか・・・」
ペヨーテはまるで眉間に糸がつけられ引っ張られているかのように皺を寄せながら、無理やり落ち着いた声にして言った。
「お前の狙撃術は体に負担がかかる。それは分かってる。だが魔物が3人にとどめを刺したのを確認してから撃っても遅くないよな。」
「そうだけど・・・なんていうか、3人が死んだって思った途端にこう、すぐに撃っちゃいたくなったっていうか」
そうだ、この女は発砲中毒なんだった・・・
こいつに同士討ちを待ってからもう一方を撃てと言うのは、躾けられていない犬にご馳走を出しておきながら「待て」をしているようなものだ。
深い深いため息をつきながら、目が合ったりしたらキレて水晶玉を割ってしまいそうだったので顔を伏せつつ、ペヨーテは言った。
「近くにいる仲間と組んであいつらは倒すよ。とりあえず魔物退治お疲れさん。」
「んーがんばってね。」
そこで通信は切れた。
「あの馬鹿が・・・」
ペヨーテはトイレを出ると、先程までの「紳士」を演じながらレジへと向かった。