生首
それは、ふ、と、私に向かって微笑んだのだ。
私が小学生の頃だ。
このように暑い日だったか、それとも当時は今ほどの暑さはない時代だったのか、しかしながら私はひっきりなしに流れ落ちる汗を拭いながら、その長い石段を登っていた。
祖母の家は、その長い石段を登りきったところにあった。 なんの用事があったのか、それともなんの用事がなくとも遊びに行くような場所だったのか、今の私には思い出せない。したっていた、ということも、母の言葉として思い出すだけで、実際祖母と私の関係がどうだったのかは、薄情ながら覚えていないのだ。
ともかく、その日、幼かった私は、その石段を登っていた。
その時だ。
上から、何かが転がってきた。何か、ということは見た瞬間に分かっていたのだが、私の脳はそれをすぐには認めなかった。
その何か、は、祖父の首だった。
首、というには正式にはおかしい、耳の付け根から切り取られたようなそれは、頭部だった。
ごろん、ごろん、と、それは顎を下に、頭頂部を下に、軽快なリズムで転がってきた。私は悲鳴をあげたんだったか、それは、私の前で止まって、
「ああ、五月蝿い」
と、舌打ちをした。
「お前の声は、キンキンするんだ、もう少し静かに喋るようにしてくれ」
あれも、たまに耳をおさえている、
祖父の首は、そう言った。
祖父は、祖母のことを、生前にも「あれ」と言っていた。
「あれって、おばあちゃん?」
私もまた、祖父の生前の頃のように、決まりきった質問を返した。
おばあちゃんのことを、あれ、と呼ぶなんて良くない。
それは私の、子供じみた正義感からの、いつもの返し文句だったのだ。
頭だけの祖父は、私を見上げて、
「…すまん、この癖は、抜けきらんかった」
と、やけに澄んだ目で素直に私に謝罪した。
周りに生えていた、背の高い竹が、一斉にザザザと音を立てる。
「線香と、饅頭を供えてくれー」
祖父は、やけに間延びした声でそう言うと、またごろんごろんと転がりだした。
呆然と立ち尽くす私を置き去りにして、祖父は、石段の下に消えていった。
私はその後、どうしたのだったか。
ちゃんと、線香と饅頭を祖父の位牌の前に届けたのだったか。
今はもう思い出せないが、祖父に会ったのは、祖父が 死んで以来、それが一度きりのことだった。 あれは、確か、祖父の初盆が明ける日のことだった。
今日は、暑い。きっと、あの日よりも暑い。
石段を登ってくる、私の孫は、あの日の私よりも沢山の汗をかいているように見える。
あの日より、ずいぶんと身軽になった私は、ようし、と勢いをつける。
どうやっても驚かすのだ、いっそ思いきって転がるに限る。
私は何を言うのだろうか、孫に、何を伝え、何をせがむのだろうか。
もくもくとした、入道雲。
…まぁ、いい。転がりながら、考えよう。
竹林の切り払われたそこから見えるのは、やけに青い空ばかりで。
ごろんごろん。
しかし、暑い。
ああ、そうだ、
ビールと枝豆を、あいつに頼もう。