京の夜
時計を見るとちょうど19時。夏の京都の夜が始まった。
空腹感はないが、旅館に戻って夕飯を食べることにしよう。ゆっくりと鴨川沿いを歩きながら、旅館に電話して、夕御飯の用意をお願いした。女将さんが美味しい豆腐があると言っていたので楽しみだ。
旅館に戻ると、玄関先で女将さんが出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。夕飯のご用意はすぐできますが、いかがいたしますか?お部屋でも一階の奥にあります広間のどちらでもお好きな方でご用意いたしますので」
「1人部屋で食べるのも何なので、広間で頂きます」
案内してくれた広間は、30畳ほどの広さに、テーブルが8卓ほど設けられ、すでに家族連れやカップルの数組が食事をしている。
お1人様向きではなかったかと僅かばかりの後悔が頭を過ぎったが、そのまま案内された席についた。テーブルに置かれたお品書きを見ると、「京の」が枕詞の料理が書き並べられている。さっきまで感じなかった空腹感も湧き、皆で一緒に食べていると思えば良いかと1人言い聞かせる。
「楓様、もう少々お待ちくださいね。京ちゃんにも手伝ってもらって美味しい料理を準備してますんで」
「いえいえ、大丈夫です。ん?京ちゃんって、あの、藤井京子さんですか?カフェの?」
「ええ、そうです。楓様の宿泊を勝手に予約してしまったから気になって、とか言って、楓様が外出されてる時に来たんです。それで、先ほどご夕食をこちらでお召し上がられるとお電話もらいましたので、京ちゃんに手伝ってもらうことにしたんです。やっぱり京ちゃんに気に入られたんですね、ムフフフ」
「えっ、いや、その、気に入られたといわれましても、カフェで豆腐ハンバーグ食べただけですし」
「分からないものですよ、人の気持ちなんて。あっ、ご飯の用意ができたようです。いきなりのお願いで申し訳ないのですが、京ちゃんと夕飯ご一緒して頂きたいんです。あの子、ご両親が遅くまでカフェで働いてますんで、いっつも夕飯は1人らしいので。おふたりで食べたらきっと、楽しいですよ」
ピンクのエプロン姿でカフェと同じくポニーテールの藤井さんが、お膳を運んで来た。席に着く前にエプロンを外す姿を眺めながら、こんな子と結婚できたら良いだろうな、なんて思う。
「お待たせいたしました。楓さん、こちらの旅館はいかがですか?女将さんはおしゃべりですけど、良いところでしょう?女将さんとお母さんは学生時代からの友達なんですけど、女将さんには小さい頃から可愛がってもらってー。料理の勉強にもなるし、たまに手伝わさせてもらってるんですー。でも、カフェのメニューと違って料理の難易度が高いから、まだまだ修行しなあかんのですけどー」
いきなりよく話す藤井さんの顔がどこかはにかんでいるようで、それがまた可愛い。
ここの旅館は1泊1万円だと聞いているが、宿泊料金に含まれるコストの大半が夕御飯に費やされているのではないかと思うほど、料理の見た目が鮮やかで豪華だ。京都に来てよかった。
「おいしそうでしょう?実際本当に美味しいですよー。京都人の私ですら、こんなにおいしい京都の料理はここ以外知りません。うちのお店の豆腐ハンバーグは自信ありますけどねー。じゃあ、いただきましょうー」
藤井さんのテンションは依然として高い。
「わざわざ夕御飯の準備をしてくれたんですってね。ありがとうございます。今日の宿も見つけてくたことも感謝してます。おかげで京都を満喫できています」
「いえいえ、どういたしまして。そんなよそよそしい話し方しなくてもいいですよー。京子で、京子でいいですよ。楓さんは二十代後半ぐらいですか?私は今年21の年下なんですし、気を使わないでくださいね。あっ、何飲まれますか?ビール?日本酒は結構揃ってますよ」
「飲み物はお茶でいいです。僕お酒弱くて。フラフラになってしまったら、せっかくの料理の味も分からなくなるのでもったいないですし。藤井さんはお酒強いですか?好きなもの飲んでください」
「藤井さんじゃなくて、京子です!あははは、楓さんには気楽に話ができて、何だか失礼ですね。実は私もお酒苦手なんですー。一滴も飲めないってわけじゃないんですけど、すぐに眠たくなってしまって。楽しい時間を覚えてないのも勿体無いですしー」
「じゃ、じゃあ京子ちゃんで。じゃあ、烏龍茶とコーラでももらおうかな」
「じゃあお待ちくださいねー。取ってきます」
京子ちゃんががお盆に烏龍茶が入ったグラスと昔ながらの瓶入りコーラを持ってきてから、ご飯を一緒に食べながら色々な話をした。
大学生活のこと。就職は両親の働くカフェですると決めていること。でも反対されていること。趣味は小学校低学年から習っているというピアノで、ジャズピアノの練習を頑張っているということ。
一つ一つの話に、冗談を交えて話せるところが関西人だなと感心しながら、彼女の話に耳を傾け続けた。言葉だけでなく、身振り手振り付きで楽しそうに語る彼女といると、不思議と気持ちが穏やかになる気がする。
僕からは、仕事のこと、彼女がまだ行ったことのないという東京のことを話した。一応広告マンである僕の仕事をカッコイイと言われたが、思わず愚痴が溢れてしまいそうで、「そうかな」とだけ答えた。
「楓さん、ご飯食べたら、夜の鴨川ツアーに行きませんか?」
「夜の鴨川ツアー?」
突然の提案に、聞き返すしか出来ずにいると、「そうです、夜の鴨川ツアーです」と京子ちゃんも繰り返した。
「夕方に鴨川をふらふらと散歩してきたけど、何か違うの?」
夕御飯の間にタメ口で話せるようにはなった。
「行ってみれば分かりますよー。東京から来た人からすれば、驚くこと間違いない、です」
夜の鴨川は何が違うのか。夜景が見えるような立地ではないし、それこそ夜景であれば都会の方が良い。分からない。
「ねっ、おばさん、夜の鴨川は昼間と全然違うよね?」近くのテーブルのお膳を片付けていた女将さんに話かけた。
「あら、おふたりで行かれるの?良いわね。ええ、楓さん、夜の鴨川はお昼間と比べると全然違って見えますよ。そうそう、京ちゃんが心を込めて準備したお料理のお味はいかがでした?」
「絶品でした。これだけで京都に来て良かったと思いました。あのー、夜の鴨川ってそんなに違うのですか?」
「ええ、夜の鴨川はそんなに違うんですよ」女将さんまで同じ言葉を繰り返す。
女将さんは何だかニヤニヤと意地悪な目をしながら僕の傍まで来て、小声で耳打ちした。
「若いっていいですね、羨ましい。ムフフフ」と意味深なことを言った。
「じゃあ、お気を付けていってらっしゃいませ。蚊がいるから、京ちゃん、玄関にある虫除けスプレーかけてから行くのよ」
「はーい、了解しましたー。じゃあ、行きますかー」
玄関先の長椅子に揃ってスニーカーを履き、先に紐を結び終えた僕は京子ちゃんの手先を目で追った。先程までポニーテールだった京子ちゃんは、胸元あたりまである長い髪を下ろしている。毛先を目で追っていただけで、まさに不可抗力と言えるが、偶然にも視線の先にあった胸を眺めてしまい、思わず目を逸らした。
玄関先で虫除けスプレーをふりかけてから旅館を出た。夜9時をまわり、夜の鴨川ツアーが始まった。
京子ちゃんと2人揃って夜の鴨川沿いの川端通を行く。
「楓さん、改め力也さん、市役所行きました?」急に呼び名を改められたことに思わず吹き出してしまった。
「いや、行ってないよ。市役所って観光スポット?」
「いや、違います。でも、面白いものがあるかも知れないので見に行きましょう。市役所を見るって言うより、市役所に集まってる人を見に行くって感じかな」
それから西に向かって橋を渡り、そのまま真っ直ぐ行くと、西洋建築様式を取り入れましたと主張する石造りの大きな建物が右手に見えてきた。あれが京都の市役所らしい。大正・昭和初期の建築物に共通する、重厚で、精細な造りに、「すごい」と率直な感想が漏れる。
「力也さん、いたー!」
突然大きな声で叫ぶ京子ちゃんに「何が?」と聞こうとした瞬間、その何かを見つけた。
夏だというのに、革ジャンに革パンで漫画でしか見たことがないレベルのリーゼントの集団が、京都市役所前の広場でロックンロールに合わせてツイストダンスをしている。中年のおじさん達が無心で踊る姿が目を惹く。
5分後、最初は遠くから眺めていただけなのに、いつの間にかツイストの輪にいた。
京子ちゃんがやってみたいと僕の手を引いて、ツイスト集団まで引っ張っていかれてしまったのだ。
いきなり集団の1人に「やりたいです」と声をかけたかと思うと、リーゼント頭のイカツイ40前後の男性が親指を立てながら「いいぜ」と応じた。
最初は訳も分からず、見よう見まねでツイストダンスをしていたが、いつの間にか楽しくなってきてしまった。
「兄ちゃん、ツイストは初めてか?兄ちゃんもなかなかやけど、あのお嬢ちゃん上手いな」
「えっ、そう、そうですか、ありがとうございます!初めてですけど、楽しいですね!」
流れる音楽のボリュームが大きいため、声を張らなければ会話ができない。
「あのお嬢ちゃんは兄ちゃんの彼女か?。どこでもいつでも楽しそうにいられる女は大事にせなあかんで。いるだけで誰かを幸せにできるのは才能や」
彼女かどうかについては「ええ、まあそのー」と曖昧に返した。京子ちゃんはというと、満面の笑みでツイストダンスに没頭している。
2曲ほどツイストダンスに興じたが、それが限界だった。息も上がり、ツイストの輪から離脱してそのまま地べたに座り込んで休憩を取る。
「あれー、力也さん、お疲れーッ?あははは!」
京子ちゃんはエンジン全開だ。このまま夜通し踊り続けるのではないかと思っていると、突然「はい、終了!ありがとうございました!」と大声で告げ、僕のところまで駆け寄ってきて、両膝を抱きかかえるようにして向かいにしゃがんだ。
「楽しかったですねー。前から気になってたんですけどー、遂に念願のツイストダンス達成ですー。怖いオジサン達かと思ってたけどー、ナイスミドルの集いでしたねー」
それから少しの間、訳もなく大爆笑した。突然のダンスタイムの興奮の余韻を残しながら、こんな時間が続けば良いのになと思った。
「じゃあ行きますか、鴨川」
「そうだね、何かすでに夜の京都を満喫した感あるけどね」
「まだまだですよー。これから、これから」
「よいしょ」と掛け声と共に京子ちゃんは立ち上がり、「はいッ」と言いながら右手を僕に差し出した。京子ちゃんの手を左手で掴みながら、僕も「よいしょ」と立ち上がる。
これまで幾度となくそうしてきたかのように、ごく自然に手を繋ぎながら僕らは歩き出した。
夏の夜。少し汗をかいたためか、やや涼しい。
先ほどまでの興奮状態から覚めるにつれて、繋いだ手に神経が集中していく。京子ちゃんはどう思っているのだろうか。この状況を。
異性と手を繋ぐなんて数年ぶりだ。冷静になればなるほど心臓の鼓動は高まる。
僕は今、高瀬川という小川沿いを歩いている。京都らしい情緒と飲み屋街が放つ独特の賑やかな雰囲気を併せ持つ不思議な場所だ。
ダンス楽しかったね、とか、やけにテンションが高い酔っ払いを見つけては、テンション高いね、とか、見たものをそのまま言ってみたりして、何かしら会話を続けてはいる。しかし、僕の真左にいる京子ちゃんの顔を見ることができない。僕の目はひたすら進行方向をロックオンしている。
僕の、30にして初恋のような、懐かしく恥ずかしい緊張した表情を見られたくない。いや、本当は、京子ちゃんがこの状況にあっても、平然とした顔をしているかもしれないと思うと、怖くて見ることができない。楽しい夢から現実に引き戻されるような気がして。
しかし、心の期待感が、僕の勘違いかもしれないと思う恐怖心をやや上回り、思い切って京子ちゃんの顔をチラッと見てみた。
そこで僕は不思議な光景を目撃した。僕が京子ちゃんの顔へと視線を移した時、京子ちゃんも同じく僕の方へと振り向いた。しかし、目が合うとすぐ、京子ちゃんは視線を逸らすかのように再び進行方向に向き直った。
何だったんだろう今のは。青春ドラマなんかで見かけるシーンではある。それに、僕も一応恋愛経験のある大人だ。あれはこれから恋が始まる、そんな心躍るひと時にしかないトキメキというやつではないか?
高瀬川から途中左に曲がり、再び三条大橋へと到着した。橋の袂にあるコンビニから、ビールが大量に入ったビニール袋を両手にさげた大学生らしい男が、「イエーイ」と奇声を上げながら河原へと小走りで下っていく。川からはトランスのような4つ打ちのビートが聞こえてくる。
昼間カップルが占拠していた河原へと行くと、相変わらずカップルはいるが、昼間と全く違う。花見のように宴会に興じる集団、スピーカーから流れるトランスに合わせて踊る男女の集団、極めつけはファイヤーダンサーがいることだ。まるでここは日本ではなく東南アジアの、しかも若者しか訪れない小島のリゾート地のような雰囲気を醸し出している。
川沿いに北に歩き、耳に残る喧騒が耐えうるレベルまで小さくなったところで、等間隔に並ぶカップルに習い、横並びに座った。
「ね、夜の鴨川は違うでしょー。なんか自由―!って感じでしょ」
「うん、想像以上だよ。日本じゃないみたい。大学生の時に、タイにある島に行ったことがあって、そこの雰囲気に似てる。みんな酔っ払って、音楽に合わせて踊り狂ってて。非日常ってこういうことなんだなあって思ったけど、まさか日本で似た光景を目にするとはね」
「へえー、いいなあー。タイのその島行ってみたい。非日常と言えばそうかもしれないけど、ちゃんとお巡りさんが来てみんなを日常に引き戻してるから、やっぱりここは日本なのだー」
いつの間にか京子ちゃんもタメ口になっている。
「それでも、やっぱりここは異色だよ。僕が知る現実の世界と目の前に広がる光景はまるで別世界だと思う。学生時代は東京で過ごしたから、こういう都会にない世界に少し憧れるかな」
「京都は大好きだけど、大都会東京で遊ぶのにも憧れるけどなー、私は」
「東京はね、日頃は気づかないけど、ふとした瞬間に気づくことがあるんだ。都会で、都会人らしくエンジョイしてる、いや、エンジョイしているんだ!って自分自身に思い込ませようとしている自分に。遊ぶところは山ほどあるし、街ごとにそこにいる人も雰囲気も違うし楽しい。でもね、それまでなんだ」
「なんだか難しい話になってきたねー。都会人は贅沢な悩みをしよる。実はね、私、東京に行きたいなーって思ってる。大学を卒業したら両親のカフェで働くって決めてるけど、都会に出てやりたいこと、あるんだ」
「やりたいことって何?」
「誰にもまだ言ってないから、言うべきか、言わぬべきか」
「えー、そのフリをした以上、言うでしょうー」
少しの間、沈黙が続いた。そして、京子ちゃんはつぶやくように言った。
「歌、やりたいなって。バカ売れする歌手になりたいっていうわけじゃないけど、私の歌をたくさんの人に聞いてもらいたいなって」
「歌、か。歌手を目指しているのか」
気の利いた言葉も浮かばず、再び沈黙の時間が始まった。素直に「すごいね、応援しているから」と言えたら良かったのかもしれない。京子ちゃんの歌を聞いたこともないまま夢は叶うなんて言葉を言えるほど、もはや若くもなく、都会で働くうちに現実的な思考が身に付いた、いわゆる大人になっていたようだ。
お互いが目の前を流れる鴨川を見つめていた。川の穏やかなせせらぎに乗せるかのように、静かに京子ちゃんは歌いだした。
悲しい恋の歌だ。
長い間、男女の壁を超えて親友関係を続けていた2人が、それぞれの人生で恋愛を重ねていた。遊園地、カフェ、映画館、自宅、どこにいても不満はなく幸せだが、恋人にどこか物足りなさを感じている。偶然、お互いが恋人と同時期に結婚を決めた。式の日取りもだいたい同じ。結婚前のお祝いと称して2人でレストランに出かけた。何事も隠し事をしない親友関係の2人は、お互いの恋人の物足りないことを言い合った。すると、お互いが親友こそが人生の伴侶となるべき理想の人だったことに気づいた。でも、それを口にすれば、結婚を約束した恋人を傷つけることになる。2人は、これまで通りの親友関係には戻れないことを理解した。お互いの存在の大きさを遠ざけるように、最後に「お幸せに」と告げた。心の中で、「さようなら、大好きな親友」と呟きながら。
いつからだろうか。京子ちゃんの歌を聞きながら目を閉じていた。穏やかで、透き通るような歌声は時に力強く、心に直接訴え掛ける。悲しい歌が鮮明なイメージとして、頭の中に浮かび上がった。
涙が頬を伝う。これほどまでに歌に心打たれたことは過去にない。京子ちゃんの歌は、単に上手いと片付けてしまえるようなものではなかった。まるで歌という名の魔法のようだ。
「どう?私の歌は聞ける代物だったでしょうかー?」
陽気な京子ちゃんがそこにいた。
「えっ?うん、すごく上手かった。本当に感動したよ。すごく悲しい歌だけどね」暗がりで良かった。さり気なく涙を拭う。
「良かったー!私が作った最新作なのだー!愛は相手を思いやることだっていうからね、恋愛心が愛に変わる瞬間を曲にしようと思ってたら、知らず知らず悲しい歌になっちゃったのだー!」
「オリジナルなんだ!すごいね。ほんとに。歌手になるって聞いたとき、正直に言うと簡単に歌手になんてなれないよって思ってた。でも、今ならね、思うよ。京子ちゃんの歌をもっと聞いてみたいって。歌手のなり方は知らないけど、京子ちゃんの歌なら、皆に伝わるって思うよ」
「あー、ひどいー。そんなことを思ってたのかー。でも、ありがとう!じゃあ、力也さんは私のファン第1号に認定してあげましょうー。CDはお店にあるだけ買い占めてね、あはは」
もう、京子ちゃんに恋をしてしまいそうなぐらい、一緒にいる時間が心地いい。普通はこういう状況ならキスの1つや2つできてしまうんだろうが、この期に及んでも冷静で慎重な自分を呪いたい。
「京子ちゃん、あのね、僕って今年で30なんだ。年齢的に京子ちゃんぐらいの年頃の子達から見たら、オジサン初級編ぐらいだと思うんだ。今日1日カフェに行った時から本当に良くしてくれて感謝してる。けど、僕と一緒に遊んでて楽しい?」
「力也さんはどうなの?私は楽しいよ。カフェにね、来てくれた時にね、何でって聞かれても分からないけど、優しい人なんだなって思った。1人で京都にふらっと来たって話を聞いたし、1人でご飯を食べてる姿を見て、いつも1人で行動しているんだなって分かった。飲食店でね、ご飯を食べてくれてるたくさんの人達を毎日見てるとね、その人達の普段の生活が見える時がある。せっかく京都に来てくれたんやし、良い思い出にしてほしいなって思った。だから一緒に遊んであげようって決めたのだー。私ね、1人っ子だし、ずっとお兄ちゃんがいたら良いのになーって思ってた。だから年齢はむしろ適正。それに力也さん、イケメンだしねー、あはは」
「好きだ!」って叫んだ、何回も何回も、うん、心の中で。。。
お互いが、恐らく相手が自分に好意を持っていると知りながら、手探りでゆっくりと距離を詰めていく緊張感。僕は、恋愛の駆け引きから長らく遠ざかっていた間に、打算的な大人になってしまっていた。京都と東京。出会ったばかりの20代前半の女の子。お互いの事をまだよく知らない。このような状況で恋愛関係を維持できるのだろうか。理想と現実の狭間で僕の思考は立ち往生している。昔、「冷静と情熱のあいだ」という映画があったが、まさにそのタイトルが言い得て妙だ。
手近にあった小石をひょいっと鴨川に投げ入れる。ちゃぽんという音が小さく聞こえた。
「京子ちゃん、ありがとう。本当に京都に来て良かった。京子ちゃんに会えて良かった。今日会ったばかりだけど、僕に親切にしてくれる京子ちゃんに、僕は惹きつけられている。30の良い大人だけど、どうしようもなく惹きつけられている。だけど、意気地なしだと思われるかもしれないけど、それ以上は望まない。京都と東京の距離を簡単に飛び越えていけるほどの勇気が僕にはないんだ」
僕は卑怯だと分かっている。結論を出さず相手の決断に任せてしまうような卑怯な行為だと。
話し声を止めると相変わらず遠くから笑い声やトランス音楽が聞こえる。遊歩道を歩く誰も彼もが楽しげで、僕の緊張した気持ちをいっその事笑い飛ばしてほしい。
僕の横にいる京子ちゃんの表情は、穏やかで遠い記憶をぼんやりと思い返しているかのようだ。年下の女の子であるはずの京子ちゃんが、やけに大人の雰囲気を帯びていて、物理的な距離はこんなに近いのに、繋がりかけた心を遠ざけられたような気がした。
蒸し暑い京都に吹く穏やかな風に揺れる髪をすっと耳にかけた。その自然な仕草に僕のまたも鼓動が早くなる。
「京都ってホンマに良いところ。都会のようなスタイリッシュさはないんやけど、このいつまでも変わらない、ほっと一息つきたくなるような瞬間が大好きやねん。私は京都でしか住んだことがないし、他の所はよく知らないねん。この風景、このひと時は私にとっては日常のことやねん。でも、京都に来てくれる人達を見て、皆が京都について話していることを聞いて、私の日常では知ることのなかった京都を知ることも多い。でね、力也さんはね、私にとって非日常の贈り物みたいな人。大体同じような毎日が、ホンマは、大切で、貴重で、楽しくて、今日をエンジョイしなくちゃって思わせてくれた。それでいいんだ、うん、それでいい。今日が楽しかったから明日もきっと楽しい。そう思えるだけで幸せやん」
「ねっ?」と言いながら僕の方へと振り向く京子ちゃんは、最初にカフェであった時と同じ愛嬌のある笑顔で、少し安堵した。そして、絶対にいけると信じて疑わなかった告白をしてあっさりふられた僕は、大人として許されるのであれば大声で泣き叫びたい、逃げ去りたい、そして「全部冗談だったんだ」と言って何とか大人として体面を保ちたい。
京子ちゃんへ気持ちを告白するとき、大人ぶって予防線を張った言い方をした自分が情けない。物理的な距離も、生活環境も、年齢も、何もかも超えて、ただ1度好きだと伝えられるチャンスを逃した自分自身が情けない。
「さて、では少し歩きますかね」
立ち上がった京子ちゃんは、「ほれ」と言いながら右手を差し出す。市役所にいた時と同じく、京子ちゃんの手を掴みながら立ち上がった僕は、ただ一言、「ありがとう」とだけ言った。
手を繋ぎながら歩き出した僕たちは、喧騒を遠ざけるように北へと向かった。遊歩道を少し歩くと、公園らしきひらけた場所に着いた。
力強くサックスを吹く青年がいた。ゆったりとしたテンポのメロディが夜の鴨川に響いている。月の明かりがまるでスポットライトのように彼を照らす。すでに観客が数名いる。僕らも辺りにしげる芝生に腰を下ろした。夏場のミュージックフェスのように、自由な空気が僕らを包む。それから僕らは15分程、ゆっくりと左右に体を揺らしながら、月夜のステージに耳を傾けた。
「あっ、あの人、やがみななっぽい」
僕は目を閉じて、サックスの音色に聴き入っていた。再び、「やっぱり、やがみななだって」と興奮しながら言う京子ちゃんに肩を連打される。仕方なく「やがみななって誰?」と尋ねた。
「やがみななを知らないの?」
驚きながら京子ちゃんは言う。まるで、日本人でサザエさんやドラえもんを知らない人を見つけた時ぐらいにしかできないぐらい「信じられない」と直球で訴えかけている。
「最近は見なくなったけど、トップモデルでテレビも出まくってたのに」
そう言って、僕でも聞いたことがある女性ファッション誌の名前を列挙した。複数の雑誌の表紙を飾る人気モデルだったらしい。
そのやがみななは、僕らサックスコンサートの観客から少し離れたところから、一眼レフを構えて写真を撮っている。確かに絵になる。サックスを吹く彼も、写真を撮る彼女も。
一見しただけで、昼間鴨川で会った彼女だと分かった。新幹線で隣の席に座っていたアンバランス女子だ。彼女はやはり地味すぎる装いだが、彼女がメイクを施し、華やかなランウェイを歩く姿は容易に想像できる。昼間出くわした素の彼女は美しかった。完成系でなかったからこそ、モデルとしての彼女を眩しく思い浮かべられる。
「よく分かったね、全然モデルっぽくないけど」
「私、有名人を街で見つけるの得意なんだ。京都に旅行に来てる芸能人って結構いるんやけど、大体変装してる。でも私には見つかってしまうのだよー!」
「そっ、そうなんだ。それはすごい特技だね」
「でしょー。ねっ、話かけに行こっか?」
「えっ、いやダメでしょ。ほら、プライベートで京都旅行に来ていたら迷惑じゃん?」
「そうかなー。良い写真撮れましたかー?って普通に聞けば話してくれるかもよー?」
その作戦はすでに1度試して、一応の成果を上げていた。しかし、同じ人間に同じ質問で話しかけられたら状況的にも不審がられるのは必至だろう。それに、彼女は過去の自分を知る人を避けようとしていた。
京子ちゃんに声をかけるのを止めようと告げようとした瞬間、彼女はさっと立ち上がり小走りでアンバランス女子の方へと駆けていった。仕方なく僕も立ち上がり、逃げ去りたい衝動を抑えながら京子ちゃんの後を追った。
「良い写真撮れましたかー?」と無邪気に問いかける京子ちゃん。まるで僕は粗相をした子どもに代わり謝罪する親のように、「突然すみません」と言いながらアンバランス女子との再会を果たした。アンバランス女子は軽く会釈しただけで、再び現れた僕をどう思っているのかは掴めない。京子ちゃんは、市役所前でツイストダンスに興じていたリーゼント集団の和に飛び込んで行った時と同じく、易易と相手の懐へと飛び込む。眼レフのデジカメの画面をやがみななと一緒に覗き込みながら、「お姉さん、上手」とか「この写真大好き」とか、大絶賛の嵐。
僕と会話していた時は、感情の起伏を欠いていたアンバランス女子、やがみななは、京子ちゃんには優しげな笑顔で接している。そこにいるだけで人を笑顔にする才能。もはや敬服に値する。
「力也さん、ほらこれ見てよ、この鴨川の写真素敵じゃない?」
ぽつねんと会話に入れず立ちすくす僕に声を掛け、自然とその和に誘い込む。
チラッと僕の方へ目を向けるやがみななの視線からは相変わらず感情を読み取れない。僕と京子ちゃんに対する態度がまさにアンバランスだ。
「お姉さん、1人で来たの?私結構良い撮影スポット知ってるから教えてあげます~」
「ありがとう。でも今回は京都の日常にある何気ない一瞬を撮影しに来たから、ほら、鴨川でサックス奏者の演奏に皆が聞き入ってる風景なんて、探してもないじゃない?こんな一期一会って言うのかな、そんなシーンに出会えるのも楽しみだし」
「へえー。カッコイイね、何だか憧れちゃう。私なんてカメラの才能絶対にないし」
「あはは、それは大丈夫、心配ない。最近のカメラは優秀だから、良い写真お願い、ってお願いすれば勝手にそれなりにちゃんとした写真が撮れるのよ。センスっていうならそれは何を撮るかであって、撮る技術じゃないと思うよ」
そこで2人の会話は一瞬途切れ、僕は意を決して会話に飛び込んだ。すでに昼間に会っていることを話題にするか否か。すでに会っていることには一切触れてないから、京子ちゃんが知ったらどんなリアクションをするだろうか。
「お昼間は鴨川の撮影されてましたよね?結構良い写真集まったんじゃないですか?」
やがみななが返答するよりも先に京子ちゃんが反応する。
「えっ?力也さんお姉さんにすでに会ってたの?」
「あー、うん、そう。昼間に鴨川を散歩している時に、偶然お会いしたんだ」
新幹線で隣同士だったことまでは言わない。
「ふーん、そうなんだ。ふーん」
京子ちゃんの表情は笑っているようで、目が笑っていない。ただ今このタイミングで話してしまったことは決して失敗ではないはずだ、と思う。京子ちゃんと出会い過ごした今日も、アンバランス女子と偶然にも2度遭遇したことも、涼しい顔で論理的に説明は不可能だ。限りなく作り話に近い、本当の話。ただ1つ分かるのは話を盛っても、省略してもまずい。必要とあらば、ただ起きたことを淡々と話せば良いはずだ。
「ええ、そうなの。昼間に少しお話したの」
やがみなながようやく口を開く。3人で会話をしているはずなのに、京子ちゃんを介してお互いが会話している。重要な交換手である京子ちゃんのテンションが戻らない限り、この場は非常に気まずく居づらい。
「へえ、そうなんだ。それはすごい偶然。力也さんは、私の知り合いの旅館に泊まってくれてるお客さんで、旅行ガイドブックには書いてない、面白い京都を紹介中なんです」
「そっ、そうなんです。市役所前でリーゼントの人たちとツイストダンスもやってきました」
すると、やがみななの表情が少し明るくなり、「楽しそう」と興味を示した。
「彼らの写真って、まだ撮れるかしら?市役所の外観も捉えながら、遠くから撮ってみたいな。その、何だろう、想像するだけでも違和感でいっぱいな絵が撮れたら楽しそう」
「じゃあ、行きますか、ね!」
そういうと、京子ちゃんはやがみななの手を掴み、引っ張るように歩き出した。手をつなぐ相手を失った僕は、自分だけに聞こえるようにため息を声に出してみた。そして、楽しげな声のする2人に、早歩きでついていく。
10分ほどで大通りを挟んで市役所まで戻ってきた。ツイスト集団は相変わらず広場でダンスに没頭している。歩行者も、車のドライバーも、彼らの放つ独特の違和感に魅せられ、目を離せれないでいる。信号が青になっても気づいていない。
やがみななは、首から下げた一眼レフを構え、街灯が照らす彼らを連写する。
京子ちゃんがカメラの液晶を覗き込む。興味のままに僕もその鑑賞に加わった。
10分ほど規則的に鳴り続くシャッター音をぼんやりと聞きながら、大通りを行くタクシーの台数を数えたりして過ごしていた。要は何もする事がなかった。
京子ちゃんはというと撮影を続けるやがみななに京都の観光スポットを教授しながら、控えめなツイストダンスをしていた。
「ありがとう。いい写真が撮れたと思う。満足だな」
カメラを胸のあたりで抱えながら振り向いたやがみななは、僕にうっすらと微笑みかけた。僕は吸い込んだ息を吐き出すことを忘れて瞬く静止してしまった。ものすごく貴重なものに不意に出会った時のように。
「どれどれ、撮れたての写真を拝見しますかね」京子ちゃんがカメラの液晶を覗き込む。興味のままに僕もその鑑賞に加わった。
「えー、何これすごい。何だろう、すごいというかすごい、ね、力也さんどう思う」
すごいしか言わない京子ちゃんに感想の言葉を振られ、にわかにハードルが上がった鑑賞会評論だが、僕に向けられた液晶をみた瞬間、まず「すごい」というひねりのない表現が口をついて出た。
どういう技術か分からないが、ツイスト集団をまるでスポットライトのような光が照らし、激しいダンスに興じる彼らの手足の残像が光の線となって静止画に躍動感を与えている。彼らの息遣いも、笑い声もその写真から伝わってくる。
「市役所の前でツイストダンスしている光景って、生で見ると最初はなんだあれって笑ってしまうよね、普通。でも、この写真をまず見たらきっと違うことを言うだろうね、かっこいいって。彼らは本気で楽しんでて、本当に踊ることなのが好きなんだなって感じる。京子ちゃんと同じで恐縮ですが、すごいって言葉しか出ない、です」
「2人ともありがとう。多くの言葉で評価されるより、そうやって感じるままの言葉で言ってくれる方が嬉しい。感じ方はみんなそれぞれ違うだろうし、これはこうだって定義したり、されたりって苦手だから」
やがみななはそう言って穏やかな笑みを2人に向けた。彼女の語る言葉には、目の前のことを言っているようで、何か別のことを思い返しているようなふしがある。
「ななさんは写真家になれると思うよ。だってこんなに良い写真撮れるんだもん」そう言った直後、京子ちゃんはしまったという表情をした。僕も思わずやがみななの表情を伺う。これまで京子ちゃんはやがみななをお姉さんと呼び、名前をまだ本人から聞いてはいなかった。
「バレてたか、やっぱり」そういう彼女には焦りを見せず、穏やかな眼差しを向ける。
「でもありがとう。普通に接してくれて。京子ちゃんだったらバレても良かったんだけどね」
泣いてしまうんじゃないかと思うほど落ち込んだ表情だった京子ちゃんは、嬉しいそうな表情で、でもやっぱり泣きそうだ。
「良かった。ななさんに嫌われたら私、嫌われる」そう意味不明な事を言ったあと、やがみななにしがみつく様に抱きついた。僕はというと、ただそれを眺めていた。
それから、不思議なことに京子ちゃんとななさんの距離がぐっと近づいたらしく、仲良く話す2人がまるで姉妹のようにうつる。傍から見れば僕の存在はどのように見えるのか。
「もう遅いから帰りますか?」とさりげなく提案してみる。
僕たちは時速500メートルほどで鴨川沿いをとぼとぼと下っていた。