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不穏な空気と明るい空へ  作者: ワイケー
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アンバランス女子

 平日のように目覚まし時計に眠りを妨害されることのない休日。にも関わらず、朝の七時に自然と目が覚めた。しかし、深夜まで先輩の有難いお話を拝聴していたため、体にはしっかりとダルさが残っている。

 これと言って予定もないので、2度寝しようと寝返りを打ってみても、なかなか眠れない。


 どうやら、昨夜の先輩との話が尾を引いているようだ。頭の中では、どうすれば彼女ができるのかと自問自答を繰り返す。彼女がほしいなんて、これまでは「まあ、そのうちに」と一蹴してこられたにも関わらず、なぜだ、無性に出会いを求める自分がいる。強烈な睡魔に襲われながら聞いた先輩の言葉が、もしかしてサブリミナル効果のように、僕の潜在意識に作用しているのだろうか。

 例え彼女作りに対する僕の意識がポジティブになり、先輩のようなモテ男のハウツーを実践したところで、何の成果も挙げられないことは目に見えている。

 30分ほどベッドの上で寝返りを繰り返し、彼女がいない理由を問い続ける。しかし、解がないからこそ、フリーランスなのだ。答えが出るはずもない。


 意を決して起き上がる。テレビのリモコンを手にスイッチを入れ、同時に目の前にあるテーブルを引き寄せ、その上のノートパソコンの電源をつける。これがいつもの休日の始まりの動作。いつも通りの予定のない休日に思わずため息が漏れる。

 テレビでは生放送の情報番組のキャスターが、絶好のお出かけ日和ですと強調する。どこか非難されたような気がして、OSが立ち上がったばかりのパソコンに思わず目を向ける。

 インターネットエクスプロラーのアイコンをダブルクリックし、日本で一番ユーザー数が多いというポータルサイトを開く。適当にニュースでも眺めようかと思ったところで、ふとデカデカと主張する大手旅行代理店のバナー広告に目が行く。

 嵐山の画像の上に、「そうだ、京都へ行こう」というキャチコピー。京都へは中学の修学旅行で一度行ったことがあるが、これと言って記憶に残っていない。

 バナー広告をぼんやりと眺めていると、どこからともなく京都に行きたいという淡い衝動が湧いてきた。断言しておくと、決して広告に感化された訳ではなく、日本が誇る歴史都市京都に興味があるだけだ。



 1時間半後、品川駅に到着した。強まり続ける京都に行きたいという衝動を抑えきれず、指定席に空席があれば行く、無ければそのまま映画館に行くと決め、自宅を出てきた。

 海の日を加えた3連休初日の土曜日、珍しく緑の窓口はガラガラだ。券売カウンターでは、窓側か通路側を自由に選択できた。しっかりと1泊分の荷物を詰め込んだバッグを持ってきておいて、「これだけ空席があれば仕方ないな」と自分自身に言い訳しつつチケットを買った。ぶらり一人旅、窓の外の景色でも眺めていくことにする。

 これまでであれば決して衝動的に旅行に出かけるようなことはしなかったが、何かが変わった自分に少し戸惑う。


 売店で、朝ご飯用のサンドイッチとお茶を買い、新幹線のホームへと向かった。普通の駅と違い、誰もが大きなバッグやトランクを手に構内を行きかっている。人々の流れに乗って歩いていると、自然と旅に出るんだという気分になってくるから不思議だ。

 エスカレーターでホームに上がって5分もしないうちに、僕が乗る新大阪行きの新幹線がやってきた。

 乗車して窓側で指定した座席まで行くと、始発駅から乗ってきたと思われる女性が通路側の席で爆睡している。胸のあたりまで真っ直ぐ伸びた髪が彼女の顔を覆い隠しているため寝顔まではうかがい知れないが、頭が落ち着く場所を探すように前に後ろに揺れている。

 かなり背が高いか足がかなり長い方なのだろう。のばされた足は前の座席下部に隠れており、僕の進路を塞いでいるので通れない。肩を叩き起こすべきか。意を決して彼女を跨いで自席に着地しようか。

 数秒考えた結果、肩を叩いて起こすことにした。


「すみません」と言いながら、5回ほど肩を叩いたところで、俯いたままの彼女が「はい」と小さく呟いた。

 僕が、「すいません、隣りが僕の席なんですが」と言うと、彼女はさっと足を引きギリギリ横切れるほどスペースを開けた。

「ありがとうございます」という僕の言葉に、「いえいえ」と返す彼女の声のトーンは低い。


 とりあえず無事に座席にたどり着き、ボストンバッグから文庫を取り出してから、バックは上の棚に置いた。そして、前の席の背面に設置されたテーブルを出し、先ほど購入したサンドイッチとお茶を置いた。富士山を眺めながら食べることにする。

 持参した文庫は、映画化されたベストセラーのミステリー小説だ。本屋で特設コーナーが設けられていたので買ってみた。休みのたびに読み進めてはいるが、ミステリーを解明するための布石を度忘れしているものだから、ページをめくり返さなければ理解できない。

 再び眠りについた右隣りの女性の頭がコックリ、コックリと前後に揺れ出した。文庫の活字を追い続けようにも、彼女の頭が気になって集中できないので、読書を一旦中止する。

 この子はよっぽど疲れているに違いない。何か暇つぶしがなければ間が持たない長距離移動において、睡眠はもっとも正しい方法ではあるに違いないが。

 ふと、揺れ続ける彼女を改めて見ると、なぜだか無性に違和感を覚える。なぜだ?


 この女性は、率直に言っておしゃれではないと思う。しかし一方で、「ダサい」と一言で一蹴することもできない、何とも不思議な気がするのだ。

 有名スポーツメーカーのスニーカーにインディコブルーのジーンズ。上はグレーの無地のTシャツ。お出かけスタイルというよりも、近所のコンビニに行ってきます、という地味な格好。

 失礼ながら、勝手にファッションチェックをし終えたところで、何気なく彼女の髪を見たとき、僕の感じていた違和感の原因がはっきりと分かった。

 胸までのばされた彼女のライトブラウンの髪がアンバランスなほどキレイなのだ。

 癖ひとつないストレートな髪はしなやかで、磨き抜かれた金属のように天井の照明を反射している。もし、僕が時間を止める能力を持っていたら、彼女の艶やかな髪を触ってみたいと思わせる。実際に触れば痴漢でお巡りさんに連行されるに違いないが。

 手足も長い。座高の高さは僕の方が上回るが、足の長さは負けているような気がする。

 ここまでくると、この女性の顔を見てみたいと思う。起きろ、起きろと念じてみるも、やはり彼女の眠りは相当深いらしい。

「ホットコーヒー1つ」と後方の座席から声がし、ハッと我に返った。社内販売のカートが接近していることに気付かないほど、無意識のうちに彼女を凝視していたのか。無性に恥ずかしさがこみ上げてくる。

 一つ深呼吸をして、もはや興味がなくなったミステリー小説を再び取り出し、活字を追う。しかし、脳の中で文字がイメージとして膨らまない。意識は完全にアンバランス女子に向いていたままだ。

 ため息一つ、窓の外に目を向けると、ちょうど富士山が綺麗に見える位置にある。予定通り、そそくさとサンドイッチの包みを取り、一口頬張る。正直味が良くわからない。

 名古屋駅を通過しあと20分ほどで京都に到着する。結局、彼女は目覚めることはなく時折ヘッドバンギングをしている。結局顔を拝まず終いだが、彼女との別れには少し寂しさを感じている自分がいる。同時に最後まで答えが分からないなぞなぞのように、モヤモヤ感が抜けない。

 2時間以上にも渡る僕の勝手な妄想で、現実の彼女と想像上の彼女が大きく乖離していれば、一方的にがっかりしてしまうだろうと思う。我ながら失礼な話だ。

 世間の流行りとは一線を画してゴーイング・マイ・ウェイを貫く女性、なのだろうか。彼女を知りたい。



 11時少し前に京都駅に降り立つ。これから本格的な夏を迎えるという7月の京都はすでに蒸し暑い。海の日を加えた連休初日の今日、大きな荷物を抱え、ひと目で旅行者だと分かる人々も多い。自分と同類の彼らを眺めながら、この1人旅の始まりを感じ、淡い興奮すら覚える。

 無計画な旅行だから、これからの行き先も決めていない。とりあえず金閣寺か銀閣寺に行くかで思案してみる。しかし、よくよく考えてみると京都で見るべき歴史的建造物が地理的にどこにあるのか知らない。

 売店で京都観光ガイドブックを買い、ホームのベンチで行き先をなんとなく決めることにした。どちらかというと、歴史的建造物を見て回るというよりも、京都という土地を体感できれば良い。金閣寺や銀閣寺も良いが、祇園をふらふらしてみようか。1人旅のスタート地点で時間を費やしても仕方がないから、まずは昼飯を食べよう。


 観光ガイドブックによると、京都最大という繁華街、四条にまずは繰り出すのが正解のようだ。

 無計画の旅で、行き当たりばったりで目的地を決める。スケジュールで縛られた日常から解き放たれて、自由気ままな時間を過ごす。これこそ休日の醍醐味ではないだろうか。きっとそうだと自分に言い聞かせ納得する。

 京都駅の一階に広がるロータリーで、タクシーに乗り、四条大橋へと告げる。電車やバスでも行けるらしいが、数多くあるバス乗り場を見て諦めた。どこに行けば良いのか分からない。旅行での無駄遣いも一興だ。


 タクシーの車窓から、流れる京都市内の風景を眺めていると、改めて歴史の街京都を感じる。寺や神社と民家や近代的なビル、行き先を告げる道路標識に歴史的な土地名。京都はただ古い街だと言えばそれまでだろうけど、人が溢れかえる都心部から地元に帰った時にほっと一息つきたくなる感覚に近いものを感じる。明日、来週、来月、来年と未来を志向して人は生きる。ただ、時々こうして過去を振り返れる場所に来ると、今は過去の積み重ねであることに気づかされるのだ。当たり前の話だが、そんなことも都会に身を置くと失念してしまう。

 そういえば、地元の連中と会うと、何年経っても過去の同じ話をして盛り上がれるのはなぜだろうか。中学時代3年間片思いだった女の子に、皆に乗せられて卒業式に思い切って告白した。そして華麗に玉砕したことを何年経っても茶化される。同じ話の展開とオチで爆笑を取れるのだからすごいの一言だ。


「お客さん観光ですか?どちらから?」

 タクシーの運転手さんに声をかけられた。

「はい、東京から、観光です。ぶらりと京都に一人旅です」

「ほう、それはええですね。ちょうど祇園祭に合わせて観光の人も多い時期ですよ。この3連休が祇園祭の「宵山」という時期でしてね、京都の人間は浴衣を着て街に繰り出すんですわ」

 そうだったのか。知らず知らず良い時期に京都にきたようだ。

「祇園祭を一度見てみたいと思って、「宵山」に合わせて来てみたんですよ、浴衣で伝統を体感する、風流ですねえ」と咄嗟に嘘をつく。

 スマホで「風流」の意味を検索し、用法が偶然にも正しかったことに安堵する。

 京都駅から20分ほどで、鴨川を併走する形で北上するルートに入った。ぼーっと進行方向とは逆に下流へと流れる川を眺めていると、信号待ちをする人で溢れる交差点が見えてきた。

 どうやらそれが目的地として告げた四条大橋らしい。人の往来が激しい。運転手さんが橋のどまん前では、停車できないというので、交差点を少し離れたところに停めてもらった。料金を支払い、クーラーの効いたタクシーの車外に出ると、むわっと蒸し暑さに包まれる。


 猛暑にしかめっ面で信号待ちをする人々の群れに合流し、鴨川をまたぐ四条大橋を渡り始める。ガイドブックいわく京都の夏の風物詩の一つである「鴨川納涼床」が鴨川の河原沿いに無数に設置されているのが見える。さすがに炎天下の日中には客1人いないが、気温が下がる夕方以降には満員御礼のはずだ。気温が下がるといえ、暑いことには変わりないはずだが、乙なビアガーデンと思えば気分は盛り上がるはずだ。

 橋の真ん中あたりでは、行き交う人ごみの隙間から一瞬見える京都の景色を写真に収めようとする観光客が何人もいる。首からぶら下げた一眼レフで満面の笑みでピースサインをする彼女を撮影する彼氏。予期せぬタイミングで通り過ぎるエキストラ達を写真に収めてしまっても楽しげな姿が羨ましい。

 左手に下げたボストンバックが歩行者にぶつかり続けるものだから、歩きにくいこと極まりない。いっそ手放してしまえば気分もいいだろうなんて考える。実際は、失った衣類を買い揃えるほどの贅沢は遠慮したい。

 歩きながらバックにしまいこんでいたMP3を取り出し、シャッフル再生する。4つ打ちビートを刻むエレクトロサウンドの上にピアノとヴァイオリンが奏でる美しい旋律が流れ、透き通る女性ボーカリストの声が組み合わさる、まさに静と動、強と弱が見事にマッチした最近のお気に入りだ。

 京都という歴史ある街のBGMとしては妙にハマっている。苦いブラックコーヒーと甘ったるいチョコレートの食べ合わせが最高だと知った時と同じぐらいの不思議なマッチだ。ちなみに、僕は塩キャラメルには未だ抵抗ある方だ。

 見渡す限り人の海が続く橋の上。不思議と時間の流れがゆったりとしているように感じられる。休日、観光、それが相まってこんな気分にさせるのか。これが東京なら、こんな人ごみにあって考えることは一つ、「瞬間移動したい」だ。


 京都は景観を守ることを目的とした建築物の高さ制限があると聞いたことがある。しかし、建物の色もカラフル禁止条例でもあるかのように、土色のカラーバリエーションに限定されたビルやマンションが目立つ。古い、暗い、暑いをポジティブに捉えさせる京都は偉大だ。

 四条大橋を渡り、ぶらぶらと大通り沿いにある商店街進み、裏通りに向けて適当に曲がってみる。

 昭和を感じるレトロな八百屋さんがあるかと思うと、その隣には全面ガラス張りの洒落たスターバックス。思わず写真に収めてしまった。


 再び適当に歩いていると、古い木造の民家を改装したらしいカフェを見つけた。「町家カフェ ポパイ」というらしい。

 ちょうどランチ時ではあったが、外に並ぶ人もおらず、ここで昼ごはんとすることにした。

 入口の引き戸を開けると、「いらっしゃいませ、何名さんですか?」と京都訛り?の女性店員さんが現れた。「1人です」と告げたが、4名がけのテーブル席へと案内してくれた。

 店内は、外観からは想像できない程に奥行のある構造になっていて、テーブル席八つに加え、奥には畳の部屋があり、四脚机が置かれている。テーブル席は僕以外のお客はいないが、畳の部屋には二十代前半ぐらいのカップル2組がいる。古き良き昭和の趣ある一間と現代の若者とのアンバランスさが妙に合うから面白い。

 先ほどの店員さんが水と一緒にメニューを持ってきてくれた。

「おすすめは何ですか?」

 メニューを見ずに聞いてみる。

「そうですねえ、私は豆腐ハンバーグの定食が好きでオススメしますよ」

「じゃあその定食にします」

「お客さん、それ正解ですよー、わたし保証しますー」

 彼女は黒のTシャツ、黒のパンツ、黒のエプロンにポニーテールにまとめた黒髪とオールブラックだが、笑うと三日月型になる目が愛嬌があってかわいい。顔立ちも整っていて、この店の看板娘なんだろう。

 セットで付いてくるドリンクは、宇治抹茶ラテなるものにした。

 駅で買った京都ガイドブックを取り出して、午後の観光スポットの選定をはじめる。先ほど渡った四条大橋に再び戻り、東に行けば祇園、清水寺までいけるようだ。とりあえず今日のところはその二つをおさえておけば良いだろう。

 そこで気づいた。すっかり忘れていたが、宿が決まっていない。

 宿の予約はスマホで検索する方が早いので、京都+四条+ホテルの組み合わせで検索エンジンに入力する。宿泊予約サイトが引っかかってきたので、検索結果の一番上のサイトにアクセスし、今日から2泊3日で指定検索した。

 意外と手頃な価格のホテルが周辺には多いが、この連休はどこも満室の表示が出ている。


「お待たせしましたー。豆腐ハンバーグ定食ですー」

 先ほどの店員さんがやってきた。伸びた語尾が半音下がる京都訛り?が心地よい。

「京都観光ですかー。祇園祭の時期やし人も多いですが、私は夏の京都が一番好きなんです」

 僕のガイドブックをみとめて言った。

「京都は学生時代の修学旅行ぶりなんですが、今朝ふと京都に行こうと思って来たんです。なのでまだ宿の予約もしてないんです」

「お客さん、行動派なんですねー。この辺の宿は満室ばっかりでしょー。わたし、知り合いのホテルというか、旅館やってる人に聞いてみましょうかー?ちょっと三条寄りなんですが」

「ぜひお願いします。助かります」

「空いてなかったならすみません、じゃあ電話してみますんで、どうぞお召し上がりください」

「ありがとうございます。助かります」

 箸ですっと簡単に切れる豆腐ハンバーグを一口食べる。うまい。これまで食べた肉のハンバーグと比べてもこちらが勝っているぐらいうまい。スマホで撮影してソーシャルメディアにアップしたいぐらいだ。正直今までご飯ものの写真をアップする人の心境を理解できないと思っていたが、今なら分かる、うまい飯は誰かと共有したくなるのだ。

 定食自体は本当にうまいのだが、唯一の誤算が宇治抹茶ラテとは合わないこと。京都に来て初めての組み合わせの失敗だ。


 10分ほどかけて完食したところで、先ほどの店員さんが戻ってきた。

「お客さん、ラッキーですよー。キャンセルで一部屋空いてたんで、そこ予約しときましたー。ふじいきょうこで予約しといたんで、旅館行ったらお客さんのお名前に変更してください。チェックインは夜までならいつでもいいそうです」

 彼女から旅館への手書きの地図と住所、そして予約者として藤井京子と書かれたメモをもらった。

「なんか、ごめんなさいね。本当にありがとう」

 ぼそりと「藤井京子さん」と付け足す。

「いいえー。せっかく京都に来てくれはったんやし、楽しんでもらわなあきませんよ。ところで豆腐ハンバーグはどうでした?」

「めっちゃおいしかったです。これまで食べたハンバーグで一番です」

 めっちゃという関西弁を織り交ぜてみたが、間違いではないだろう。

「そういってもらったら作りがいありますー。といっても仕込みを手伝う程度ですけど。あっ、ここ私の両親がやってて、私もバイトで来てるんです。もともとここは曾祖父さんが住んでた家やったんです」

「へえ、そうだったんですか。町家って初めて入りましたけど、こうして見るとおしゃれですよね」

「でもリフォームする前はただの古い民家でしたよ。京都は町家を改装してカフェにしたり、住んだり。若い人の間で町家って人気なんですよ」

「住めるんですか。いいですね、僕は東京から来たんですが、こんな和風の住居に憧れます。今日初めて思ったばかりですけど、和風ってすごくいいですよね」

「古都の文化を継承して未来に発展させること。かっこつけて言うと、それが私ら京都人のプライドです。って言っても女子大の友達とたまに大阪とか神戸の方にいって都会っていいなあって思ったりもしますけど」

 女子大生!と頭の中で歓喜のランプが点灯したことをおくびにも出さず、ふーんと頷いて見せる。

「あっ、すみません、長々話してしまいまして。私って、ついつい話過ぎてしまって相手にひかれる方なんです」

「いえいえ、僕の方こそ、ふらっと来た京都で美味しいご飯食べて楽しい話できて嬉しいです」

「あー、お客さん、もしかして結構遊人じゃないですかー。持ち上げ上手は要警戒なんですよー」

 めっちゃかわいい、ただその一言だ。

「いや、そんな遊人なら思いつきで京都に来られるほど暇人じゃないですよ」

 そう言ったあと、新しいお客が入ってきた。

「いらっしゃいませー、4名様ですね。こちらの席どうぞー」

 正直ずっとここで彼女と話していたいが、新たにお客さんが来たことだし、ここらが引き時だ。

「お会計お願いします」

 彼女に声をかけ、入口近くにあるレジまで向かう。

「はーい」と小走りで来た彼女に見とれてしまう。


 祇園方面には来た道を戻れば良いのだが、その道程をまったく記憶していない。しかし、自力で戻るつもりは毛頭なく、ポケットのスマホを取り出し、地図アプリを起動させる。

 ここ古都京都において、現代人はスマホのGPS機能を使えば、宇宙からガイダンスをもらえるのだ。人類の進歩に感謝せざるを得ない。裏道を抜けて大通りに出れば後はまっすぐ鴨川を目指せばいい。

 タクシーの運転手さんが言っていた通り、通りゆく人々の中で浴衣を着ている人が少なくない。僕の前を歩く女子大生風の二人組は、浴衣を着るだけで楽しいと言わんばかりに、後ろ姿が嬉々としている。話している内容は年々早くなるサマーセールの話なのだが。

 人の波に飲まれて歩いた割には15分もすると四条大橋に戻ってきた。橋を渡りそのまま真っ直ぐ東へ向かう。途中、歩道に面した階段へと続く老若男女の行列があった。歩く速度を緩め、彼らの目的地を探ると、どうやら抹茶だとか京都的なスイーツ店があるらしい。

 僕は酒を飲まないが、スイーツ類はそれなりに食す方だ。一人カフェに出向いてはブラックコーヒーと共にケーキもオーダーする。ただ、スイーツ男子というワードがメディアを介して流布する昨今、それでも1人でパフェを食べるには勇気がいるし、チーズケーキのような比較的地味なものをチョイスしてしまう。

 そんな時、彼女がいれば良いのになと思うのだ。「仕方ねえな」なんてぼやきながら、スイーツを人目なんて気にせず食べられる。通り過ぎたスイーツを求める人々の行列を振り返り、少し気持ちが沈む。


 前をゆく人々の肩ごしに鮮やかな朱色が際立つ鳥居が見える。大量の人が吸い込まれるように入っていく神社に興味を惹かれ、地図アプリで名称を確認する。

 あれが八坂神社らしい。名前だけは知っている。そしてどうやら、知らず知らずのうちに祇園界隈に到達していたようだ。四条大橋から東へと続く道は、八坂神社で行き止まり、その先はT字に南北へと続いていく。八坂神社に向かって右に折曲っていけば清水寺。しかし、地図アプリを見る限りは、炎天下の中歩くには清水寺は遠いようだ。

 暑いという理由で行き先を変更するのはもったいないという人もいるだろう。しかし、計画変更が自由自在の一人旅においてはこれを贅沢と言う、と自分に言い聞かせる。

 清水寺からの祇園散策改め、観光コースは八坂神社からの祇園界隈とする!


 そうと決まれば、あとは神社へ突入あるのみだが、いざ接近してみると参拝者の多さに気持ちが萎える。

 人の流れに沿って敷地内に踏み入ってから、立ち止れるスペースを見つけてスマホで境内の地図を検索してみる。八坂神社の公式ページがヒットした。今いるところが西楼門と呼ばれているそうだ。

 八坂神社の敷地面積は、適当な目算だが僕の想像の十倍以上はある。入ってすぐ本殿ではない。末社というそうだが、境内には小さな神社が複数ある。残念ながらすべてを参拝する気にはなれない。

 せめて雰囲気は存分に体感すべく、トボトボと歩きながら本殿への道を進んでいく。

 歩く目線の高さをいつもよりも上にすれば、大勢の頭上を超えて、年歴を感じる木々が快晴の空をバックに視界に広がる。さらに、MP3のボリュームを上げて、外界からの音を遮断して自動で選曲される音楽に耳を傾けていれば、少しばかり自分の生きている世界が違って見えるのだ。


 そろそろ本殿かと思っていると、参拝客の渋滞が起きているのが見える。まさに神輿の担ぎ手という人たちもちらほらといる。

 おっ、今度は大型の神輿が見えてきた。しかし、お盆や年末の大渋滞レベルの混雑で接近は不可能だ。遠巻きに神輿見物を少ししてから引き返すことにする。

 人ごみにまぎれながら改めて参拝客を見渡すと、思いのほか外国人旅行者が多い。判別するほどの言語力はないが、アジア、欧州、米国などから世界中の人が京都の街に集っている、のではないか。日本に旅行にいく以上は京都を押さえねば始まらないのか。


 彼らには日本の歴史を語る京都はどのように映っているのだろうか。彼らが撮影する写真を後にどのように語るのだろうか。

 僕は中学・高校時代、日本史が苦手だった。史実を断片的に記憶する作業に興味を持てなかった。覚えれば覚えるほどテストの点数は上がっていくが、蓄積された知識は途中で投げ出されたパズルのように、結局個々のピースが繋がり完成されて初めてみえるものを知らないままにしていた。


 京都観光に先立ちきっちり予習をする正しき旅行者ではないが、京都に来てぼんやりと理解したことがある。

 それは、歴史とは後世に生きる人々が思いを馳せ、その時代に起きたことを想像し何かを学び取り、今世への知識に変えて初めて意味を持つということ。短き学生時代にパズルのピースをかき集めることを執心しても役には立たないということだ。

 そしてもう一つ気づいたことがある。それは、京都に来てから僕は妙に格好つけた発言を頭の中で繰り出しているということだ。京都はやはり偉大だ。


 溢れる人の流れに逆流しながら、西楼門への引き返す道を辿る。祇園祭というだけあり、恐らく祇園界隈の混雑はもっと激しくなるのだろう。ここは少し休息が必要だなと正しき旅行者に反する囁きがこだまする。ボストンバックを抱えたまま歩き回るのはきついのも事実だ。先ほどのカフェで藤井京子さんに予約してもらった旅館に行ってからの夜の祇園散策にしよう。むしろ夜の方が情緒があって良いはずだと、一人旅なのだからどうしようと自分の勝手だが、ここでも思わず自分に言い訳をしてしまう。


 午後3時を少し過ぎた頃、四条大橋に戻り、そこから京阪電車・祇園四条駅へと向かう階段を下る。旅館の最寄り駅は、隣の三条京阪駅で徒歩圏内。四条大橋から北側に似たような大橋が掛かっているのが見えたが、それが三条大橋で、目算するに15分程の距離だ。僕は、暑いからと八坂神社からほど近い清水寺を諦めるぐらいだから、ひと駅でも電車に乗る決定はさほど驚くに値しない。

 僕に彼女がいて、こんな気ままで勝手な旅行に一緒に来ていたら、京都に到着して半日と持たず喧嘩していただろう。


 祇園四条のホームで5分とまたない内に電車がやってきた。ホームに入ってきた電車の窓ガラス越しに満員の車内が見えていたが、僕が乗車する時には、車内はガラガラになっていた。京都随一の繁華街から一旦撤退して正解だとここでもまた自分の決定は正しかったのだと納得させる。

 ほんの数分で三条京阪に着き、地上に上がる。


 四条側と比べれば行き交う人は少ないが、多いことには変わりない。駅の出口からすぐのところにある三条大橋を渡りきったところにスターバックスが見えるが、何と鴨川納涼床が設置されている!

 河原には炎天下にも関わらず、多くのカップルが鴨川に向かって肩を寄せ合い座っている。その座り位置が左右等間隔に開かれおり、何とも不思議な光景だ。

 見知らぬカップル同士が無意識の内に取る距離感が共通しているのを見ながら、日本で育つ人間が持つ共通の価値観というものが存在するのだなと感心する。そして、カフェの藤井京子さんと一緒に河原で語り合うシーンを想像し、思わず顔がにやける。その後、数分間少し落ち込んだ。


 旅館は三条大橋を渡らずに川に沿って北上し、東側に広がる住宅街の一角にあった。

 旅館よりも民家と見紛う造りで、思わず通り過ぎそうになった。辛うじて「京の宿 美咲」と書かれた看板があったので無事にたどり着くことができた。プラスGPSのおかげだ。

 民家のように見えると言えど、瓦屋根に木の格子、面する道路に向けて設置された竹造りの泥除けのようなもの?もあり、まさに京の趣。

 旅館の入口の引き戸を開けると、風鈴の音が鳴った。玄関に踏み入ると、エアコンとは異なる自然の涼しさで満たされている。入ってすぐ正面に二階へと続く階段があり、「いらっしゃいませ」の声とともに、着物姿の50代前後の見るからに女将さん然とした女性が駆け下りてきた。


「藤井京子さんのお名前で予約しました楓と申します」

「あっ、京ちゃんから連絡もろてたお客さんですね、お待ちしておりました。外は暑かったでしょう。少々お待ちくださいね、冷たいお茶お持ちしますので。そちらにおかけください」

 女将さんが階段脇に設けられた部屋に入っていった。ステンレス製の棚がチラッと見えたので、恐らく厨房なのだろう。

 入口脇に置かれた長椅子に腰掛け、ほっと一息つく。日本人である自分がこんなことを思うのは不自然かもしれないが、日本家屋に宿泊すると旅行気分が高まるのを感じる。

「お待たせしました。冷たい宇治茶です」

 ピンク色の花形に細工された茶菓子が添えられている。

「こちらの宿帳に、御手数ですがお名前、ご住所とご連絡先のご記入をお願いします」

 手渡された宿帳?に記入しながら茶菓子をかじる。そして宇治茶を一口。うまい。

「このお菓子美味しいですね。お茶にもよく合いますし」

 言いながら記入を終えた宿帳を女将さんに手渡す。

「同じお菓子をお部屋にも置いてますんで、食べてくださいね。お客さん東京から来はったんですね。遠いところお越しいただきありがとうございます。京ちゃんとはお知り合いですか?」

「いえ、藤井さんが働いているカフェにたまたま行った時に宿も決めてないまま京都に来たという話をしたら、親切に予約してくれたんです」

「そうでしたか。いえね、あの子、今日1名予約できるかってだけ聞くもんですから、私てっきりお友達か、その遠距離恋愛でもしてる人かなんかが来てはるのかなって思ってたんです。なんせ初めてのことでしたから。お客さんはきっと京ちゃんに気に入られたんですね」

 あーいかん。邪念が頭を侵食し始める。気に入られたのか!

「あはは、多分、勢いて京都に来てしまった僕を見て、仕方ないので宿を探してくれたんだと思いますよ」

「そうですかね、ふふふ。でも、京都に勢いて来られる方って結構多いのは事実です。あっ、すいません、お部屋にご案内もせずこんなとこに長居させてしまいまして。お部屋にご案内しますのでどうぞ。2階になります」

 僕の淡い期待に回答をもらえないまま、先を行く女将さんについて行く。

 案内された部屋は、10畳ほどの部屋が縦に二間あり、手前の部屋に置かれた座敷机とそれを挟む二脚の座椅子。机の上には先ほど食べた茶菓子が2つあり、思わず笑が溢れる。

「お菓子はまだたくさんありますので、なくなりましたら言ってくださいね」

 横で茶菓子を見つけてニヤニヤする僕を女将さんは笑っている。少し恥ずかしい。

 ごゆっくりと早々に女将は立ち去り、取り残された僕はとりあえず座椅子に座る。程よく空調の効いた室内で、かすかに聞こえるセミの鳴き声をBGMに、ただ無心でボーっとしてみると、外出する気分が徐々に削がれてくる。しかし、それは面倒くさいという感覚ではなく、どちらかというと精神的なリラクゼーションに身を任せたいという欲求だ。

 心地よい気持ちのまま畳に横たわると、知らず知らずに寝てしまった。


 ちょうど1時間ほど昼寝をして起きた。もうすぐ17時だ。

 ふと夕暮れ時の鴨川を見たくなり、ぺったりと髪が寝ぐせ付いた後頭部を手櫛で整えながら旅館を出た。


 鴨川を横目に三条大橋に行き、そこから橋を渡って河原へと下る。学生と思われる男女10名の集団は何が面白いのか分からないが、皆一様に手を叩きながら爆笑している。これが渋谷ハチ公前ならただウザイだけだが、ここ鴨川で見ると長閑な風景に妙に馴染む。

 三条大橋直下の河原は、鴨川を見下ろす形で等間隔に座るカップルに占有されているため、しばらく北上していく。

 10分ほど遊歩道を行くと、人の数もへり、川のせせらぎが心地よく耳に届く。蒸し暑さが残るが、真っ昼間に比べると気温も下がり、過ごしやすい。思わず目を閉じてしまいたくなるが、絶好のランニングコースを走るランナーも多く、正面衝突の可能性があるのでやめておく。

 石造りのベンチがいくつかあったので、その1つに腰掛けた。


 目を閉じ、頬を撫でる少し生ぬるい風を感じる。何もせず、ただぼんやりと。オレンジ色の光が京都を照らし、自然な時の経過を告げる。丸の内あたりのエリートサラリーマンからすれば、勿体無い、無駄な時間の使い方に映るのだろうか。いや、きっと誰もが共感するだろう、この和のひと時を。

 何だか気取った気がして、気にはなっていたが未だ手を出していない一眼レフでも手元にあればなと思う。写真に収める。何でもないこの瞬間を。遠くに山々が連なり、目の前の川はゆったりと流れ、時の流れが東京の数倍減速するようなこの瞬間を。


 量販店に行って、最新式の一眼レフを買うか買わぬか思案していると、カシャ、カシャと少し離れた場所でカメラのシャッター音がする。

 何気なく音のした方に目を向けると、一眼レフを首かけた女性が対岸の方をじっと見つめている。約10メートルの距離。

 胸のあたりまである髪が彼女の横顔を覆っているため、どんな顔なのかは分からないが身長がかなり高い。軽く170センチは超えているだろうか。グレーの無地のTシャツ、インディコブルーのジーンズにベージュのサンダル。

 おしゃれは気にせず近所にちょっとしたお買い物というスタイルだが、ヒールを履いていないのも関わらず、彼女の足はモデル並みに長い。モデルを生で見たことはないが。

 そういえば、今朝の新幹線に座っていた地味な服装だがモデル並みのスタイルのアンバランス女子がまさにあの女性のような感じだった。

 いや、感じだったというより同じだった気がしてきた。今朝のアンバランス女子の顔は結局見ずじまいだったため、判別のしようがない。しかし、冷静に考えて見ると、あのアンバランスさを持つ女性に1日に2人遭遇するより、同一人物を異なる場所で1日に2回見かける可能性の方がありそうな気がしなくもない。

 仮にそこにいる女性がアンバランス女子だと仮定すると、彼女はなぜ京都で下車せずそのまま大阪まで行ってしまったのか。

 あれほどまでに爆睡していたのだから単に寝過ごしたということも有り得る話ではないか。

 モヤモヤ感が僕を満たす。まるで犯人が誰か分からないまま終わるミステリー小説を読まされたような、釈然としない不快感を味わされているようだ。

 ただし、目の前にあるミステリーを解明することは簡単だ。同じ新幹線に乗っていたかどうかを聞けば良いのだ。ごく自然に、さわやかに、京都の話題でも会話のきっかけにして。

 うん、無理だ。


 アンバランス女子に視線を注ぎすぎたためか、彼女はふいにこちらに顔を向けた。

 すっぴんだ。でもただのすっぴんではない。

 化粧をせずとも並みの美人ではないのが一目瞭然。くっきりとした目は、目が合う者すべてを射抜くように鋭く、でもやさしさや親しみを覚えるという矛盾。スっと通った鼻筋に、小ぶりの唇。卵型の小顔の顎のラインはシャープだ。これにシャンプーのCMのように輝く髪が加わるのだ。尋常じゃない。

 この顔に化粧を施したら一体どうなるのだろう。想像もつかない。神話では、メデューサの目を見つめたものは石になるという。彼女から視線を外すことができない僕は、本当に石にでもなってしまったように動けない。眼球ですら動かない!

 彼女が僕を見ていた時間はほんの数秒程度だったのかもしれない。彼女が再び鴨川の方に向き直ると同時に、僕は生身の人間に戻った。なぜか、走ってもいないのに息切れがする。目があうだけでこうなってしまうのだ。話しかける?うん、無理だ。

 視線を足元に向けると、アリが1匹、クッキーの欠片のようなものを運んでいる。 アリさん、どうやって声なんてかけられるのだ? あの女性が、新幹線で隣にいた人なのか?アリにテレパシーを送るかのように、心の中で質問を投げかけ続ける。アリが1メートルほどの距離を進んだ頃、左手の方からドサっというカバンを置く音がした。


 僕の左視野角の限界あたりに、ベンチに座る彼女が映る。10メートルの距離が一気に2メートルほどに縮まっている。会社の先輩であり、卓越したナンパ技術を持つ鈴木先輩よ、僕に力を、一言声をかける力を貸してください!えーい、もし失敗したら旅館の僕の部屋で夜通し反省会をすればいいだけだろう。

 何度も、何度も、声に出さずに頭の中で「せーの」と繰り返す。まるで「好きです」と告白する直前のようだ。しかも高校生レベルの。


「良い、良い写真は撮れましたか?」

 えいやっと一言絞り出す。まるで自分ではない誰かが言葉を発したような不思議な感じがする。

「え?あー、はい、川の、その鴨川の、写真、撮りました」

「そっ、そうですよね、鴨川の写真。この辺りはすごく、長閑で、その、僕は写真のこと良くわかりませんが、いい写真が撮れそうだな、なんて思って」

「私も、写真は詳しくないですけど、写真を撮るのは好きなので、この鴨川の風景撮りたいなって思って」

 確実に警戒されているに違いないが、彼女の表情には感情の変化が全く感じられない。視線が合わせっているが、石化しないよう、彼女から死角になっている右足の太ももを抓り続けている。痛みでこの場から走り去りたい衝動を辛うじて押さえ込んでいる。

 彼女は果たしてアンバランス女子なのか、本題を切り出すタイミングを伺う。正直、タイミングなんてもの、ない。

「僕は、京都に一人旅でふらっと来てみたんですが、こうして鴨川を眺めて、ぼーっとしていると落ち着くので、そのぼーっとしてました」

 自分で言っておきながら意味が分からない。それでも、言葉を再び吐き出し続ける。

「東京から今朝京都に来たんですが、蒸し暑くて驚きました。でも東京とまったく違う、何ていうんでしょう、歴史情緒に触れて、あの、すごく気持ちが落ち着きました。やっぱり、コンクリートジャングル東京はダメですね、精神的に」

 コンクリートジャングル。。。何を言っているのだ!

 心拍数が急激にあがり、緊張のあまり言葉を搾り出すのに必死で呼吸ができないため、若干酸欠気味でもある。

「そう、ですか。東京から。今朝、こられたんですか。私も今日、東京から来ました。京都に来たのはお昼すぎ、ですが」

 彼女は一拍間を置いて続けた。

「新幹線で、寝過ごしてしまって。起きたら、新大阪にいて。とりあえず電車に乗って京都に来ました」

 思ったよりも話をしてくれる。寝過ごして、新大阪に?まさか、アンバランス女子なのか?

「あの、つかぬ事をお伺いしますが、8時半頃発の新幹線に乗られました?」

「え?時間ですか?」

「あっ、はい、時間です。実は、同じ新幹線だったのかなって、思いまして。12号車の、5列目」

「12号車」

 彼女がそういってしばらく沈黙が続いた。

「私のこと、知ってる方ですか?」

 知ってる方。そう言われれば、知っていることになるが、僕の質問への回答としては、少しずれているような気がする。

「知っている、というよりは見かけたというレベルですが、よく似た人が新幹線の隣の席だったので、聞いてみたんです。僕が品川から乗車した時から、あの、その、かなり熟睡されてました」

「そうですか。はい、その新幹線に乗ってました。前から私のこと、知ってる人かなって。すみません、勘違いでした。私は知らなくても、私のこと、今でも知ってる人は多いので」

「僕はどちらかというと、相手に自分のことを認識してもらっていない方の人間ですが、自分のこと、知ってる人が多い人の方が良いような気がしなくも、ないですが」

「いつまでも。いつまでも昔の自分が、私に付きまというから、変わりたいのに」

 そう言って、彼女は立ち上がり「私行きます」と告げて去っていった。


 次第に小さくなる彼女の背中を眺めながら、彼女との会話の中身に思い巡らせる。彼女は僕に自分のことを知っている人かと聞いた。そして、昔の自分を知っている人が多いとも言った。このような状況にある人は、芸能人のようなメディアに露出がある人達ぐらいだろう。

 彼女は芸能人だった人なのだろうか。僕の記憶の中には彼女と合致する人はいない。あれだけの美人であれば、名前を失念しようとも忘れることはないだろう。美男美女が溢れる芸能の世界にあっても、彼女は一段上いる存在だったはずだ。すっぴんでも、それぐらい彼女の美しさは際立っている。

 ただ、彼女と話している時に感じたことがある。普通、男であれば綺麗な人を見かけたら、付き合いたいとか、性的な関係になりたいとか、不純な、でも男としては純粋な妄想に駆られるもんだ。

 彼女を見た時、確かに美しいとは感じた。でも、その後に続く願望は何一つとして湧いてこなかった。綺麗な花を見て、ただ綺麗だと感じる感覚に近い。

 彼女のことは何もしらない。ただ、一つはっきりと分かったこともある。彼女は彼女の女性としての美しさを意識的に隠そうとしている。女性として目立つ存在であることを避けているかのように。

 また、彼女に会うことはあるのだろうか。

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