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不穏な空気と明るい空へ  作者: ワイケー
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淡々とした日常

 コーヒー1杯が1000円近い上野駅すぐ近くの珈琲店。2階にある窓側席から通りを行き交う人々を眺める。例年以上に長かった梅雨が明けて初めての快晴の土曜日。やけに人通りが多い。ミニスカートやホットパンツの女子に自然と目が行く。今年もマリンスタイルが流行らしい。


 隣の席では銀行員然としたダークグレースーツを纏う中年男性と、20代前半と思われるおかっぱヘアが特徴的な女の子が妙に距離感のある会話を続けている。地味としか形容しようがない女の子が「山口百恵が引退してから日本のミュージックシーンは変わった」と熱弁を振るう。この2人の関係性に興味を寄せつつ、買ったばかりのスマホをポケットから取り出す。適当にネットサーフィンを開始。

 5分ほどデジタル情報の世界を彷徨ってみたものの、秋葉発のアイドルグループのスピンオフニュースを読み切ったところで区切りをつける。歌手が気軽に口パクでテレビに出るようになったのは、彼女達のせいだろうか。


 休日だからといって特に予定があるわけではない。東急電鉄の多摩川駅近くにある自宅をとりあえず出て、ふと上野の美術館でも行ってやろうかと思って来てみただけだ。結局のところアートな気分でもなく断念した。

 今年の4月で三十路に突入したが、毎週末1人遊びと称してふらっと外にでるのが習慣になっている。友人の数は少なくないと思うのだが、居住地が皆ばらばらだし、年々結婚して家庭があるやつも増え、数か月に一度集まって近況報告をしあう程度。

 しかも、最近ではソーシャルメディアの普及で、ネットを開けばなんとなく友人の近況をうかがい知れる。その中途半端なつながりが久々に会いたいという衝動を減退させているように感じる。

 酒は飲まず、ギャンブルはせず、女遊びはしない。加えてノンスモーカー。人畜無害な個性。彼女はかれこれ二年ほどいない。ただし、自己評価は正確なほうだと認識をしているが、けっしてモテない人間ではないと思っている。現状を鑑みるに、正確には、モテない人間ではなかった、かもしれない。


 定期購読するほどではないが、ファッション雑誌を買い、トレンド情報は常に最新のものを入手しているし、事実ファッションにはそれなりにお金を使っている。身長も四捨五入すれば180センチに到達するので低いほうではない。薄顔で色白なせいかインドア派だと思われがちだが、これについては間違いでもない。男は平均点をクリアしていること。これが重要だと思う。

 彼女をつくるためには詰まる所、1人遊びをやめて、合コンだの、ナンパだのに繰り出せば出会いの1つや2つあるのかもしれない。でも、無理に格好つけるのは恥ずかしいし正直面倒だ。

 酒を飲みたいとは思わないが、行きつけのバーの止まり木で1人飲み。これには憧れる。同じく1人で悲しげにカクテルを口にする女性に出会えるような気がするのは、ドラマの影響だろうか。彼女をつくることに積極的ではないかもしれないが、過去には何人かと付き合ったこともある。最短1日、最長2年。未だに解せないのが、元彼女の個性も見た目も生活もまったく異なるのに、別れを切り出される時の言葉は決まって同じだった。

 多少の差はあれど、要約するとこうだ。すごく優しい人でわがままも聞いてくれる。でも優しすぎて飽きた。そして、別れたいと告げられる。


 僕という性格は、女性をわがままに仕立てあげるらしい。女は一歩下がって歩けと言える男であれば良かったのだろうか。楓力也 30歳。今更恋というものが理解できないのだ。



 僕の両親は、共に区役所勤めの公務員だったからか、妙にお堅い性格で、かなり教育熱心だった。小学生の頃から成績はクラス上位の位置をいつもキープしていたし、地元の公立中学を経て、そこそこ偏差値の高い高校にも入った。その後、都内の某有名私立大学に入学し、お遊びテニスサークルに入って、これまたそこそこ楽しい大学生活を送った。ただ、ラケットをボールに当てるより、ギターの真似事をしていた時間のほうが長かったかもしれない。新卒で都内にある中堅のインターネット広告会社に入社した。志望動機が何だったか忘れてしまったが、ネット関連ビジネスは伸びるから、自ずとネット広告も伸びるだろうという無根拠な予測をベースに志望したような気がする。

 確かに入社して3年間ぐらいはその予測は的中していた。数値的な裏付けがなくとも、なんとなく効果がありそうだということで、引き合いがかなりあった。不思議と毎月増えるノルマも難なくクリアできていたのだ。

 しかし、お客のウェブサイトへの訪問者数が増えるだけで喜ばれる時代がそう長く続くはずもなく、次第に売り上げに結び付く戦略が求められるようになった。単に広告枠を売りさばいていただけの会社の成長は急速に右肩下がり。ビジネス成長に合わせて増員した社員数は、毎月繰り返されるリストラというか、意図的に退職に追い込む大人のいじめにより今では半減。ノルマ未達に対する上司からの怒号が飛び、某ネット掲示板には有名ブラック企業リストにノミネートされてしまう始末。自殺者こそ出ていないものの、精神に異常をきたし退職するものは少なくない。この会社で入社8年目を迎えたわけだが、いつの間にか在職歴は社内でもトップテンに入っている。


 僕が生き残ってこられた要因はというと「たまたま」の一言に尽きるが、新人時代から複数の大口固定客を抱えており、安定的に売り上げを微増させてきた。退職した先輩から引き継いだり、新規開拓をしたりしたお客は、ネット通販ビジネスに力を入れているということしか共通点はないが、年々売り上げを伸ばしており、中にはメディアに頻繁に取り上げられているところもある。もう1つ、共通点があると言えばある。それは、どれだけ事業規模が大きくなっても、中央集権的にすべての決済を行うパワフルな女性が最高経営責任者を務めているということだ。もれなく押しの強い女性社長が繰り出すアイデアに相槌を打ってさえいれば、そのうち戦略めいたものが自然と生まれ、僕はただ具現化する方法を適当に提案するだけだ。

 ただし、熱心に語る女性社長に向かって、「こうすればいいような気がします」「いけそうな気がします」と無責任な発言を繰り返すものだから、同席する人たちの冷ややかな視線が刺さるのはしれっと無視する。

 営業マンの基本である接待もそれなりにやっている。ただ、僕のいう接待は、少し変わっていると思う。

 接待は本来お客をもてなすことだが、なぜかその女性社長達からたまにビジネスの話をしたいと食事に誘われることがある。完全おごりのお食事会だ。接待関連の経費は一応会社に申請できることになっているが、経費をかけず、安定的にビジネスを取ってくる僕の実績が評価され、今のところ過剰なノルマ達成のための果てしない新規顧客開拓を強要されずに済んでいる。


 女性社長とのお食事会は、大体きまってイタリアンかフレンチレストランの個室だ。お金を持った女性は同じようなところを好むらしい。ヨーロッパのハイブランドを着飾ったファッションもどことなく似ているのは、女性社長向けのファッション誌でもあるからだろうか。ブランド名は聞いてないのに教えてくれるので、僕のブランド知識はそれなりのものだと思う。本題であるはずのビジネスの話は、食前酒が運ばれてくるまでのあいさつ程度の時間で終わる。その他の時間は、女性社長の趣味と美容と装飾品の話に費やされる。僕は終始聞き役に徹し、発する言葉は「へえ」と「すごい」の二種類。悲しいかなこういった場での太鼓持ちっぷりは我ながら一級品だ。


 付き合いのある女性社長は皆40代前半ぐらいだが、だいたい食事が終盤に差し掛かるにつれて話し方が甘え口調になってくる。中には中学生ぐらいの子どもがいるにも関わらず、帰りたくないと言い出す人もいて、無理やりタクシーに乗せて帰らせたことは数知れず。走り去るタクシーを見送りながら、どっと疲れがこみあげてくるのはいつものことだ。無事に帰ってもらえればまだ良い。一度は僕自身が帰れなかったこともある。僕は酒を飲むと極度の睡魔に襲われるのだが、それが災いした出来事が起きた。


 化粧品通販会社の有沢社長とのお食事会で、南青山の住宅街にあるイタリアンレストランに行った。このレストランのオーナーシェフは、元雑誌モデルの二枚目で、予約の取れないレストランとして有名だとグルメ雑誌で読んだことがあった。店の前に到着すると同時に、携帯に有沢社長から連絡があった。遅れそうだから先に行って待っていてとのことなので、お先に入店した。店内は隣のしゃべり声が気にならない程度に間隔を開けてテーブルが配置され、だいたい20名ほどが入れそうな広さだ。

 白を基調とした店の内装に、革張りの赤のチェア。壁にいくつか掛けられているモダンアートがしゃれている。どうでもいいことだが、モダンという響きはむしろ古臭い気がしないだろうか。

 お客は見事にすべて女性だ。男一人では場違いな気がしてなんだか気まずい。女子会のメッカに男性一人で訪れることが珍しいのか、声をかけにきた女性定員の表情が怪訝そう。


「22時から有沢で予約があると思うのですが」と有沢社長の名前を告げる。すると、急に満面の笑みになり、「お待ちしておりました」と奥の個室に通された。

 10畳ほどの個室の内装もやはり白で統一されており、折り目ひとつない純白のクロスが掛けられたテーブルにここでも赤のチェア。席に着き、店員さんに手渡されたドリンクメニューを眺めてみるも、アルコール類は正直よくわからない。「とりあえず水で」と言いかけて、飲んだことがないスパークリングウォーターを注文した。水は水だが響きがおしゃれだ。

 約束の時間から20分ほど過ぎたところで、有沢社長が登場した。今日はボディラインをなぞる大きくスリットの入ったロングドレスだ。

「お待たせ。化粧直しに時間がかかっちゃった。ごめんね。でも許して」

「いえいえ。気にしないでください。こちらこそ、お忙しいところありがとうございます」

「楓君に会うからと思って、昨日シャネルの新作ドレス買っちゃった。どう?」

 次に言うべきことは心得ている。

「言葉がありません」と一言。一拍開けて「綺麗すぎて」と付け足す。

 ほら、有沢社長の顔がまんざらでもないと言っている。

「合格。また新しいウェブ広告を展開したいと思っているし、ご褒美に仕事あげるね」

 とりあえず営業活動が無事に終わったので、後は接待を万全にこなすだけだ。しかし、実は毎度ここからが大変なのだ。

 有沢社長はとにかく酒をよく飲む。困ったことに泥酔するまで飲み続けるのだ。

 タイミングよくドリンクのオーダーを取りに来た店員さんに赤ワインをボトルで注文した。どうでも良い世間話を繰り出していると、ほどなくワインが運ばれてきた。有沢社長は、僕が下戸だと知りつつ「テースティングは任せた」と言う。仕方なく、渡されたグラスに注がれたワインを口に含み、えいやっと飲み込む。ただこれはワインだと分かるだけで美味いかどうかの判断はつかない。

「ではこれをお願いします」

「ええー。それでいいのぉ。ほんとにぃー?」

「あれ、これじゃダメですか?」

「ふふ。それでいいのよ。私が飲みたいワインだし」

 心の中で「なんだよ」と呟きつつ、店員さんに「これで」と告げる。

 気を取り直して笑顔で乾杯をする。乾杯をするだけで飲まないが。

 有沢社長は、料理一口に対して、ワイングラス一杯を飲み干す。相変わらず速いペースに、一抹の不安がよぎる。僕はというと、ちびちびとスパークリングウォーターを舐めている。


 強烈な視線を感じ、有沢社長の方に目を向けると、鋭い視線で僕を睨みつけていた。炭酸入りの水しか飲まない僕に気付いたようだ。

 ワインクーラーに沈む3本目のワインボトルを取り出し、おもむろに赤ワインをグラスになみなみと注ぐ。

「ほれ」と手渡されたワイングラスに口をつけ、再び舐める程度に赤ワインを口に含む。

 ワインの利点は、ビールと異なりゆっくりと飲み進めてもそれが自然なことだ。

 しかし、完全に酔いが回った社長はそれを許さなかった。

「おい。私の酒が飲めないのか」とお客に言われて飲まないサラリーマンはいないだろう。

 覚悟を決め、グラス満タンの赤ワインを一気飲みした。途端に全身の体温が上昇し、顔が紅潮してくるのが分かる。「男前!」と連呼する有沢社長の声がぼんやりと聞こえる。それからワイン三杯飲んで30分ほどまでは覚えているが、次の記憶が有沢社長の自宅のベッドで目覚めたところからはじまる。


 15畳はありそうなベッドルーム。キングサイズのベッドの他には、モノトーンの化粧台。その上には海外高級ブランドの化粧品や香水などが整然と並べられている。壁に掛けられた時計はちょうど朝8時を指している。

 僕が着ていたスーツはハンガーに掛けられ、観音開き型の巨大なクローゼットの扉に引っかけられていた。僕はTシャツとトランクス姿。僕の頭の中には無数の「?」で占有され、思わず「ここはどこだ」と声に出してみる。

 突然扉が開き、有沢社長がコーヒーの注がれたマグカップを手に現れた。どういう経緯か分からないが、お泊りをしてしまったようだ。ピンク地の水玉模様のパジャマを着ているが、顔にはばっちり化粧が施されている。


「1人で帰れそうにないし、自宅の場所も分からないからとりあえず私の家で寝かせてあげたわ」

 マグカップを手渡され、「ありがとうございます」と反射的に礼を述べた。次に何を言うべきか瞬時に考えた結果、「すいません。昨夜お酒を口にしてからの記憶がまったくないのですが、失礼がありましたらお詫びいたします」ととりあえず謝罪の言葉を口にする。

「あら、何も覚えていないの。ほんとに?」

「はい。レストランでワインを飲んでしばらくは覚えているのですが、その後の記憶がまったく」

 すると、有沢社長はつぶやくように「そう。それは残念ね。フフフフ」と意味深な言葉を残して部屋を出て行った。

 大急ぎでスーツに着替え、部屋を飛び出すと、ベッドルームの倍はありそうなリビングルームに置かれた巨大な真っ白のソファーに有沢社長がいた。「もう少しゆっくりしていきなさいよ」と妙に官能的にバナナを一かじりして言った。

「今日は大事な会議がありますので、失礼いたします」と有沢社長と目を合わさず玄関に向かった。

「今日は土曜日なのに大変なのね。フフフフ」と有沢社長の声が追いかけてきた。

 高層マンションを出てすぐ、スマホのGPS検索機能で所在地を確認した。昨夜のレストランから車で五分とかからない距離のようだ。

 GPSを頼りに少し歩けば大通りに出た。タイミングよく通りがかったタクシーを止め、大田区の自宅の住所を告げた。タクシーの後部座席で冷静に昨夜からの出来事を振り返ってみたが、記憶がないのだから何が起きたのかは分からない。

「やられちゃったかな」と心でつぶやいた。

 何も覚えていないという恐怖心が芽生えたが、何も問題がありませんように、とただ祈った。



「おい。今日あたり飯でも食いにいかないか」

 出社してすぐ、5歳上の鈴木先輩に声をかけられた。

 鈴木先輩は、社長、そして取り巻きの役員に次いで在職歴が長く、僕が入社した時にはすでにトップ営業マンの座を獲得していた。先輩は、僕の新人時代の指導役で、面倒見がよく色々な営業のイロハを教えてもらった。

 10代の頃から続けているというサーフィンで年中日焼けしており、見るからにスポーツマン体格。彫りの深いモテ顔。女性にもよくもてるし、かなりの遊び人でもある。23区に一人は彼女がいる、なんて噂が流れたこともある。どれだけ忙しくても毎日飲み歩いており、しばらくは結婚しなくてもいいが口癖だ。

 僕の研修期間終了後も、少なくとも月に一度はご飯に行き、仕事の悩みやプライベートの相談ができる間柄だ。彼女いない歴を更新中の僕を憐れんで、合コンを設定しようとしてくれるが、どうも乗り気になれず断り続けている。

 自分は浴びるほど酒を飲むが、決して僕に酒を飲むことを強要しない。自分の経験しか下地にない精神論を後輩に押し付けるような無粋なことはしない。男から見てもかっこいいと思う。


「そうですね。じゃあいつもの居酒屋にでも行きましょうか」

「オッケー。じゃあ19時な。誰か女の子呼ぼうか?」

「いやいや、いいですよ。」と今日も新たな出会いを断る。

「仕方ないな。じゃあ、男二人で飯を食うか。俺、会議あるから行くわ。」

 自席に着き、デスクトップパソコンの電源を入れて、OSが立ち上がるのをぼんやりと眺めていると、「すいません」と声をかけられた。

 振り返ると、社内でも密かに狙っている男が多いと言われる正統派美人、斉藤さんが立っていた。

「あの、あの。すいません。突然」と恥ずかしげに床を見つめている。僕と目を合わせようとしない。遠くから見かけたことしかなかったが、こうして近くで見ると本当に綺麗だ。

 ふと、複数の視線を感じて周りを見渡すと、僕の席の近くにいる男性社員全員がこちらにガンを飛ばしている。声に出されずとも、会社のアイドルに手を出したら承知しないと言っている。怖すぎるだろ。

「なんでしょう?」

「いえ。あの。ちょっと聞きたいことがありまして」

「はい。どうぞ」

 彼女も周りの視線に気づいたようだ。

「すいません。お昼休みにでもまた来ます。失礼します」と告げると、小走りで行ってしまった。

 彼女の背中を目で追っていると、こちらを睨みつける男性社員が視界に入ってきた。とっさに目をそらしてしまった。怖い。怖すぎるぞ。

 いったい何の用だったのだろうか。考えても仕方がない。とりあえず仕事を始めよう。

 11時を少し過ぎた頃、斉藤さんからメールが入ってきた。メールの件名は「先ほどの件」。ダブルクリックをしてメールを開いた。

「今朝はお伺いしておきながら要件を伝えず申し訳ありませんでした。実は鈴木さんと親しくされていると知り、ご相談したいことがありお尋ねいたしました。お忙しいところ恐縮ですが、本日のお昼休みにでもお話させていただくことは可能でしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。」

 そういうことか。ようやく斉藤さんが今朝僕に会いに来た理由を理解した。

 女性社員からの鈴木先輩絡みの相談はこれまでにも何度もあった。モテ男鈴木先輩に思いを寄せる社内の女性は、まず先輩と親しい僕に相談と称して、先輩に彼女がいるのか?、好きなタイプは?と根掘り葉掘り聞きだそうとする。

 親しくもない女性の恋の相談にのるほど面倒なことはない。斉藤さんが知りたい答えを返信することにした。

「お疲れ様です。今朝のことは気にしないでください。鈴木先輩についてご相談ということですが、お昼休みにお時間を取っていただく必要はありません。先輩ですが、今はフリーですよ。お酒が好きなので飲みにでも誘ってみるといいですよ」

 返信の文面を一気に書き上げ送信した。

 フリーといっても、本命の彼女はいないという意味で、遊んでいる女性は数多いのだが。そこまで教えてあげる必要はないだろう。

 1分も経たないうちに、「ありがとうございます。そうします」と返ってきた。

 何だろう、この感覚。どうやら僕は、斉藤さんは僕のことが気になっているのではないかと、淡い期待を抱いていたようだ。そんなことあるわけないのに。


 僕の会社の男女比は7対3ぐらいだが、その大半が20代の女性社員だ。

 危険な状況下を乗り越えた男女は、恋愛環境に発展しやすいというが、極めてブラックな職場環境において苦難を共有する男に恋するよりも、女性社員はむしろ敬遠しているのは間違いない。唯一の例外と言えば鈴木先輩ぐらいだろう。

 女性社員は、現実的だし柔軟だ。男性社員に比べて早々に会社に見切りをつけて退職する場合が多いし、この会社で深夜まで残業するぐらいなら、新たな出会いを求めてアフターファイブをエンジョイする方が賢明だ。こんな環境で、奥手の僕が社内の女性にアタックするとすれば、歌舞伎町でプロのキャッチに交じって女の子に声をかけるようなもの。玉砕覚悟でも勝算はない。


 会社のオフィスは、有楽町にある30階建てのビルに入居している。ここはオフィスビルが乱立するエリアだが、おじさんの聖地新橋にも近いし、銀座も徒歩圏内だ。

 鈴木先輩とのご飯は決まって新橋にある小料理屋だ。いつ行っても空いているし、家庭的な料理は文句なしの絶品だ。今日は19時前には仕事を切り上げ、鈴木先輩には先に行って待っている旨メールをして会社を出た。

 寄り道をせず、そのまままっすぐ店に向かい、すでにでき上がったおじさんで溢れる飲み屋街の一角にある「幸子」に入った。


「あら、いらっしゃい。久しぶりね。少し痩せたんじゃない?」

 カウンターに10席だけというこぢんまりとした店舗は、帰るとどこか落ち着く実家のような気にさせる。

 ここの女将は、もとキャビンアテンダントで、50歳を過ぎているというが、40代前半にしか見えない。大学生の娘と息子がいるというから驚きだ。

「久しぶりです。鈴木先輩も後からきます」

「鈴木さんも?ほんといつも一緒で仲がいいのね。お二人がお店に来ないと寂しいけど、たまには若い人が行くような街でお食事でもしたらいいのに。きっとモテモテよ」

「いや、そういうところはちょっと苦手で」

「ダメよ、若い子がそういうこと言っちゃ。多少の遊びは男の明日への糧。遊びに行ってきなさいよ。そして、どうだったか報告してね」

 女将は、「イケメンなんだから」と言いながら、僕の好きな芋煮と出してくれた。一口かじる。いつものように美味い。

 それから15分ほど過ぎた頃、鈴木先輩がやってきた。

 女将は鈴木先輩にも遊びに行けと説くが、普段から遊びまわっている先輩に言っても仕方がないことだ。黙って2人のやり取りを聞いていると、最終的に僕はもっと遊ばなければならんと2人して説教を始めた。

 話がさらに面倒くさくなる前に、矢継ぎ早に注文を繰り出して、タッグを組んだ女将と先輩の説教を中断させた。


「おい、注文勝手に決めるなよ。まあ全部食いたいものだけど」

「言わなくても分かりますよ。むしろいつも食べるもの一緒じゃないですか」

「お前には分からんのだ。絶品料理を毎度異なる美酒で味わっておるのだ」

「おるのだ、と言われても僕は酒を飲むと料理の味が分からなくなりますからね」

 先輩はそう言って、新潟産だという日本酒を一口飲んだかと思うと、急に真面目な顔になり、それからまた一口酒を飲んだ。


「それでだな。嫌な思いをさせたらすまん。最近気になってたことがあるんだ。お前のことで」

 突然まじめなトーンで話し出す先輩を前に、とりあえず背筋を伸ばしておく。

「なんですか、急に改まって。何を言われても別に嫌な気はしないですよ」

「そうか。じゃあ聞かせてもらうよ」と言ってから、先輩は3口目の日本酒を飲んだ。

「お前さ。最後の彼女と別れてからどれぐらい経つ?」

「えっと、そうですねえ、だいたい2年ぐらいですかね」

「2年か。そうか、もうそんなに経つか。それからお前はフリーのままか。

 すまんが、俺はお前がフリーで過ごした2年間で遊んできた女の子は正直数え切れん。俺には信じられないんだよ。仮に1か月でもフリーで禁欲的な日々を過ごすことは」

 口には出せないが、内心「信じられないと言われても困るよ」と思う。

「俺がさ、合コンやら何やらで出会いの機会を提供しようと思っても、お前はいつも断るよな。まあ気が向かないのであれば一向に問題がないけどさ」と言ってから、急に黙り込んだ。聞こえてくるのは、女将がネギを切る包丁の音と、しっとしりとしたジャズのピアノの音色だけだ。ジャズは女将の趣味だ。

 どことなく気まずい沈黙の時間が流れる中、何か面白い話でこの静寂を打ち破らねばと逡巡していたところ、先輩は何かを決心した表情をして、口を開いた。

「お前、実は男が好きなのか」

 この瞬間の僕の顔は、恐らく誰が見ても「???」を最大限に表しているに違いない。

 正直、説教でもされるのかと思っていたので、先輩の発言に呆気にとられてしまった。しかし、とりあえずここは否定をしておかなければ事態がややこしくなる。

「あの、何をどうやってそう思われたのか分かりませんが、男好きに転向した記憶はないですよ。ただ、何というか、新しい出会いは正直ほしいですよ、ほしいですけど面倒な意識もあるのも事実で。どういうわけか結果的に2年間フリーですけど、お偉い僧侶のようにあらゆる欲望を超越して無我の境地に達したわけではないですよ。断っておきますけど」

「それは本当なんだな?じゃあ、俺からの最後の質問に答えてくれ。見事答えることができれば女好きと認めよう」

「分かりました。女性が恋愛対象ではありますが、女好きかどうかは分かりませんよ」

「じゃあ答えてもらおうか」ともったいぶるように酒を再び口にした。

「AV女優に転向した元人気アイドルグループのメンバーと、お前の好きな、ここ3か月以内にデビューした新人AV女優を2人挙げろ」

 先ほどからの先輩の発言を声だけ一々聞いていれば、恐らく誰もが酒の席の冗談とでもとるだろう。ただ、先輩の表情は、尋常じゃないほど真剣だ。笑えない。

 仕方なく、先輩の質問に答える。何をやっているのだ、ほんとに。

「よし、いいだろう。お前の選択には一貫性があるな。そのAV女優に目をつけるとは、お前もなかなかだな。俺の心配が杞憂に終わってほっとしたよ。正直、お前が男好きだと言ったら、新宿二丁目で働く知り合いを紹介しようかと考えていたんだ」

「誤解が解けて良かったですが、そんなこと考えていたんですか?心配頂かなくても大丈夫ですよ。そろそろ本気を出しますんで」

 まあ、本気を出そうが出すまいが、今の状況が好転するとも限らないが。

「よし、じゃあ俺がモテる男の極意を教えてやる」とワイシャツを捲りあげながら言う先輩を横目に、「今日も長くなりそうだな」と独りごちる。

 案の定、終電をあっさりと逃し、タクシーで自宅にたどり着いたのが午前3時。今日が土曜日なのが唯一の救いだ。

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