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11.戦神の時            ◆11の8◆

「なるほど、そんなことがあったのか」

 アイシャーは私の話を聞き終えると微笑みながらそう言った。そして私たちが座っているベランダから見える青天をしばらく見上げた後、言葉を続けた。

「ソンブラは別として、ジェニもサトゥースも所詮しょせん魔導とは縁の無い者たち、ただの人間に過ぎぬ。そのように感じるのも無理はないであろう」

「前に私がジェニに、アイシャー様の力でフランツの軍艦を何とかできないだろうかと尋ねたことがありました」

 アイシャーは私に対面し、手すりの近くに置かれたベンチに座っていた。目の下に広がるラ・ポルト湾に、ひときわ大きい一隻の軍艦が停泊している。かつてはフランツ海軍の七十四門艦アグイア・アズル号であり、今はトゥラン海軍に属しススピロ・デ・レイン号と名前を変えた戦列艦だ。

「ふむ、それでジェニは何と答えたのじゃ?」 

「セルバの宿場でアイシャー様が盗賊どもになさったことをどう思うかと、逆に聞き返されました」

「それでお前は何と?」

「魔導というものは恐ろしいことができるものだ、そう思ったと」

「結局、わらわにはたよらず、ソンブラと二人で戦列艦二隻を片付けたのじゃな」

 そう言ってアイシャーは小馬鹿にするように鼻をうごめかせた。

「それは……ジェニが『恐ろしいこと』をアイシャー様にやらせるのかと、私に言うので……」

 アイシャーがクククククッと喉を鳴らし、こらえきれぬように笑った。

「だからジェニはただの人間だと言ったではないか。お前やわらわとは違うのじゃ」

「ハサスの声である戦闘言語リンガ・デ・ルチャのおかげで、三千の竜騎兵が五万のフランツ軍を翻弄ほんろうし、最後には死の罠に引きずり込んだのです。あれを目にしたトゥランの兵士たちの中に、ハサスを『ただの人間』などと思う者はおりますまい」

「だが実際にその罠を仕掛け、フランツ軍を壊滅させたのはお前ではないか! お前は恐れられているのだ」

「ジェニたちが私を恐れていると言われるのですか?」

「『捕食者』が恐れるのは何だと思う? 己を餌食えじきにする『より強い捕食者』じゃ。蛙たちはお前が蛇であることを知った。どうして恐れずにいられる?」

「私は別に誰かをとって喰おうとは思いません」

「恐怖とは本能的なものなのだ」

 では私は、いや私やアイシャーは、蛙の群れの中の蛇なのだ。本能的な恐怖、死からの逃走をうながす存在だ。アイシャーは私をどう見ているのだろう? あるいはコデン王を? 王もまた『より強い捕食者』なのか、それとも、さらに強い何かなのか? いやむしろそれは、アイシャーの方か……?


「何を考え込んでおるのじゃ、ライト?」

 新しく入れた茶の碗を侍女から受け取り一口味わった後、アイシャーが尋ねた。

「このたび、陛下がアイシャー様に望まれたのは何であろうかと考えておりました」

「ああそれか。かつてお前が考え、結局妾わらわに求めなかったことじゃ。フランツの軍船を『何とか』せよというのじゃ」

「できるのですか? 」

 愚かしくも、思わず私は聞いてしまった。アイシャーが口にするからにはできるのだろう。ただ問題は、今回トゥランへ向かっているフランツ艦隊の規模だった。

 戦列艦だけでも五十隻近く、フリゲートなどの補助艦も含めれば八十隻以上の大艦隊である。フランツ陸軍がジプト上陸を開始する少し前にフランツ本国を発ち、四ヶ月かけて暗黒大陸の南端を廻って、アヌビス海に入ってきた。現在アビシニア王国のポルト・モロに入港し、長い航海でこびりついた船底のフジツボや藻の清掃と索具類の修理を行っている。それが終われば艦隊を編成し直し、トゥランへ向かって来るという。海軍力を持たないエラムは無視される可能性が高いだろう。だとすると一ヶ月以内に奴らはトゥランの二つの港、ラ・ポルトとモ・ナビオを封鎖し、降伏を求めてくる。トゥランが拒否すれば、砲撃を加えた後で海兵隊を上陸させ、二つの港を占領するだろう。

 フランツ本国を出た時は多分、トゥランの海岸に姿を現した後交渉に入り、キタイへの航路を確保するためフランツがアビシニアと交わしたと同様な、港湾提供の条約締結を要求するという計画だったはずだ。キタイを目指す艦隊に、途中で余計な戦いをしている余裕などない。だがジプトに上陸したフランツ陸軍の敗北で事態は決定的に変わった。シュバールにもエラムにもフランツ帝国の間諜が配置されており、骨の河原の決戦の結果がどのようになったか、フランツ艦隊の寄港が予定されていたポルト・モロに報告が送られたのだ。その内容を知った遠征艦隊の提督は、陸軍が失った勝利を海軍が取り戻さなければならないと考え、予定を変更した。

 無論、艦隊が抱えている海兵隊の兵力だけではトゥラン全土を征服することなどできない。それどころか王都シューリアに攻め込むことさえ不可能だろう。だいたい海軍に一国の永続的な占領を望むなど愚かなことだ。だが海岸を占領して要塞を築き、フランツ陸軍が再びトゥランを侵攻するための拠点を準備することは可能だった。そのようになればトゥランは海路を断たれ、交易を大幅に制限されることになる。コデン王がフランツの艦隊を『何とか』したいと望むのも当然のことだった。


「陛下のご要望を、お受けになるおつもりでここへ来られたのですか?」

わらわは貞淑な妻じゃからな、夫の望みはわらわの望みじゃ」

 アイシャーはアイシャー自身が望むことしかしないと知っていた私は、その言葉に吹き出しそうになった。だがとがめるような目で私をにらんだアイシャーは、容赦なく言葉を続けた。

「ライト、お前にもわらわに同行して海に出てもらう。万が一フランツ艦隊と交渉しなければならなくなったら、お前に通訳を勤めてもらおう」

「い、いやそれは、誰か他の者にやらせて下さい。船に乗るのは、もうまっぴらです」

 前に二度海路エラムまでの船旅を経験している。二度目はトゥラン海軍のスクナーで少しましだったが、それでも向い風を間切ってのバザまでの五日間は私には厳しかった。一度目のことは思い出したくもない。小さな帆走カッターで荒波を越え、最後はコルクでできたいかだにつかまって牙の岬の沖で海に投げ出され、打ち上げられるように上陸した。固い地面の無い波の上は、どうにも私の苦手とする場所だ。だが、そんな私の事情はアイシャーの関知するところではなかった。



 その朝、トゥラン海軍の唯一の戦列艦ススピロ・デ・レイン号と戦闘用スループであるソリッソ・デ・シャメルネ号は半海里ほどの間隔を保ち、エラムの港バザの東方十五海里ほどのアヌビス海上を南南西に向けて帆走しながら索敵を続けていた。ちなみに一海里は約二千(ヤール)であり、陸上での距離単位であるリーグのほぼ半分である。二隻の軍艦の大きさは子どもと大人ほどの違いがあり、マストの高さも異なる。だから当然、フランツ海軍の帆影を先に発見し叫んだのは、レイン号のマストの上で周囲を見張っていた水兵だった。

「アッホーイ、南南東に多数の帆が見えます」

 すぐに士官が索具を登っていき、また降りてきてペスカドル艦長に報告した。

「我々を視認したフランツの船はまだいないようです艦長。距離がありますし、こちらは二隻だけですから、気がついていないのかもしれません」

 ペスカドルはアイシャーと私にうなずいてから指示を出した。

「予定通りおか側に回り込みながら接近せよ。相手が気づいた様子を示したらすぐ報告しろ」

 これは通常の方法と逆である。操船の余地を少しでも広くする位置に、つまり相手より海側に移動するのが軍艦同士の戦闘における普通のやり方だ。


 しばらくするとフランツ艦も我々を発見したらしく、慌ただしく信号を交わしあった後、何隻もの船がこちらをおか側に追い込むように進路を変え、接近してきた。

「信号旗をあげろ! 上手廻しで進路を変えるぞ!」

 ペスカドルが叫ぶ。こちらからの信号旗の合図に従い、シャメルネ号も同じ向きに船体を廻した後、大きくターンした。

「アホーイ! 奴らは下手廻しでこちらに追従しようとしています」

「よし、奴らが手間取っている間に、逃げ出すとしよう」


 トゥランの二隻は文字通り尻に帆かけて、つまり追い風で、遁走を始めた。アイシャーはレイン号の後甲板の舵輪の横に立ち、後方から追跡してくるフランツの軍艦が、はぐれた羊を追い込もうとする狼の群れのように集まって来るのを眺めていた。アイシャーの前にはがっしりした木製の三脚が据えられ、その上に石の深鉢が載っている。鉢の中には半分ほど水が入れられ、その水面が揺らぐ度に、正午を過ぎた太陽の光がきらめいていた。風は気まぐれに強弱を繰り返し、風向きも変わる。風が弱まると海面がもやかすみ、強くなると吹き散らされた。


 追跡劇が始まって一刻半ほどが過ぎた。アイシャーは相変わらず黙って追いかけてくるフランツの艦隊を眺めている。こちらの二隻は次第次第に陸の方に追い詰められ、一方フランツの艦船は寄り集まってまるで壁のように並び、我々の逃げ道を塞ごうとしていた。

 風はほぼ東、つまり海側から吹いている。太陽はやや傾き、西側に移っていた。私たちの右舷前方にあの牙の岬が姿を現した。まだかなり遠いが、岩礁に砕ける白い波が水平線上のもやの向こうにかすかに見える。

 その時アイシャーが自分の前に据えた水鉢に顔を近づけ、ゆっくりと息を吹き込んだ。しばらくすると、船尾の海面からフランツ軍の艦隊に向けて小さな三角波が広がっていった。キラキラキラキラ、最初は気のせいかと思われるほどわずかなきらめきだった。キラキラキラキラ、それがだんだん強い光を放つようになっていった。キラキラキラキラ、あっと言う間にそれはフランツの軍艦の近くまで到達し、海面からの強い光に照らされたフランツ艦の帆布が白く輝くように見えた。


「脱出せよ!」

 アイシャーが命ずる。ペスカドルは信号旗をあげさせ、シャメルネ号と一緒に回頭した。風を横切り、船首が風上を向いた瞬間帆をはためかせながら船首を廻し終える。やがて帆が風をはらみ、牙の岬の岩礁地帯をかすめるようにして南方に進む。息が苦しくなるような長い時間の後、二隻はフランツの艦隊と岩礁の間の狭い海域から抜け出した。


「見ろ、フランツの艦隊が!」誰かが叫んだ。

 何十隻もの戦列艦が、帆を畳むこともなく東風に追い立てられ、陸に向かって進んでいた。その前には牙の岬の岩礁が広がっている。岩に砕けるその白波に、フランツ海軍の船が引き寄せられるように近づいていく。戦列艦ばかりでなく、やや小型の補助艦艇も、屠所に牽かれる羊のように付き従い流されていく。一隻として進路を変えようとする船は無い。


「奴らどうしたんだ? あのまま岩礁に突っ込む気か!」

「おい、やめろ、進路を変えるんだ!」

 かすれた声で呟く者がいた。だがその声からはすでに、かなうはずがないという思いが読み取れた。誰もあれらの船を破滅から逃れさせることなどできるはずがない。定められた運命は変えようがない。そんな確信とも諦めともつかない声だった。

 いったい、あれらの軍艦の上で乗員たちは何をしているのだろう。まっしぐらに破滅に向かって突き進んでいるのに気づかないのか? 気づいてはいてもそれを避けるための手だてを持たないのか? それとも自ら望んで死に向かっているのか? そんな考えが頭の中を渦巻いた。

「アイシャー様、フランツの軍艦に何が起こっているのですか?」

「あの者たちの『心の眼』がくらまされているだけじゃ。レイン号とシャメルネ号を追い詰めていると思いながら、ただただ突き進んでいるのじゃ。まるで振り動かされる紅い布に気をとられ、突き刺される剣に向かっていく闘牛の牛のようにな」


 やがて一隻また一隻とフランツの軍艦は岩礁に乗り上げ、陸に打ち上げられ傷ついた巨鯨のように、身動きがとれなくなっていった。一度座礁してしまうと、激しく打ち寄せる波涛はとうのため、ボートを下ろして上陸することもできない。実際我に返った者がいたのか、何隻かのボートを浮かべようという試みがなされたが、たちまち転覆して波にさらわれ、岩に打ちつけられて木端微塵こっぱみじんになってしまった。牙の岬の岩礁はボートだけでなく戦列艦の船腹さえ食い破り、浸水した船は傾いて破城鎚のような荒波の連打を受ける。やがて船体はバラバラに破壊され、乗っていた人間もろとも波にさらわれ、海の深い淵に沈んでいってしまう。その姿を目の前にしながら、残りのフランツの軍艦はなおも牙をむく岩礁に向かって突っ込んでいく。最後の一隻が荒ぶる波に包まれ姿を消すまで、長い長い時間がかかった。

「神よ、奴らの魂を救いたまえ……」

 祈りとも呪詛ともつかぬ声が下の甲板から上がった。もう命を救うことはできないのだから、魂だけでも救ってやれというのだろう。


 今までトゥラン軍の兵士たちは、王や上官の命令に従い勝利を納めてきたことに何の疑問も持たずにきた。だが、これからはどうだろう? 単純に敵を倒し勝者となったことを喜んでいられるだろうか? 今日この海で起こったことを聞けば、恐怖の方が先にたつのではないだろうか?


 それにしてもフランツから鹵獲ろかくし、我が物としたこの私たちが乗っている戦列艦に『后妃の溜め息(ススピロ・デ・レイン)』などと名付けたコデン王は、どういう男なのだろう? この日の来るのを予見してその名前を選んだとしたら、恐ろしいことである。

本作品に登場する、人物、組織、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。

2014.04.18. 『改行による1字下げ』を1ヶ所挿入。他一部手直しのため訂正。

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