11.戦神の時 ◆11の7◆
一日の明るい時間のほとんどを使って遡ってきた河床を、今度は下っていた。流れの水量が僅かなので船や筏に乗ってというわけにもいかず、ただひたすら歩くだけだった。陽はすでに傾き、間もなく暗くなる。そうなったら夜目のきくソンブラはよいが、私は濡れた河床を無事に歩き通す自信が無かった。かと言ってソンブラに手を引かれて歩くなどということはしたくない。自然と歩みは速くなるが、私は自分が思っている以上に疲労していたようだ。河床の凸凹に足を取られ、思わず躓いた。
「おっと危ない、ライト殿。某が負ぶって運んでさしあげましょうか?」
「馬鹿なことを言うな。私はそんな年寄りではないぞ!」
「おや、確か某より、六千年近く年上だったと聞きましたが」
「誰のことをいっているんだ?」
「ドゥムジは六千年前フェニキュア人の前から姿を消し、聖ゲルマヌスは千五百年前ゴールの町オーセルで見失われ、ルズは三十年前フランツのマリーシアから失踪したそうです。ライト殿がそのいずれであったとしても、もういい歳ではありませんか」
「そうか、お前より年上だと思うなら私をからかうのはやめてくれ。今は疲れてお前の相手をする気力が無い」
「おやおや、どうしたのです? ライト殿らしくもない」
ソンブラの無駄口は相変わらずだが、この男はそこから何を探り出そうとしているのだろうか。思わずそんなことを考えてしまって無口になる私を無視し、ソンブラはずっと喋り続けた。ソンブラの一方的な口演に気を取られているうちにいつしか日が落ち、あたりは闇に包まれていた。
ルズ? ゲルマヌス? ドゥムジ? いったい彼らは何者なのだ? いや、それを言ったらこのエンテネス・ライトという男だって何者なのだろう? 私は本当にライトなのか? ライトである必要があるのか? ライトでもなければ私は何者なのだろう? この私は、何のためにここにこうしているのだ? あの砂漠の端にあるクフナ・ウルのオアシスで覚醒した時から心のどこかにあった疑問、その答えを見つけ出さないまま今まで過ごしてしまった。私は『その時』に間に合うように『そこ』にいなければならない、そんな焦りが私の奥底のどこかでジリジリと私を焼き焦がしていた。
気がつくと私は闇の中を不思議に危なげない足取りで歩き続けている。まるで足の下に地面など無いように歩みが進むので、少しふわふわした感じがする。だが身体はまったくぶれず、河床の上を常人では考えられない速さで移動していた。
「おやおやおや、ライト殿! 貴方は何をなさっているのですか? ちょ、ちょっとお待ちください」
ソンブラに「待ってくれ」などと言われる時が来るとは思わなかった。だが私の歩みは止まらず、暗闇の中で両側の白い崖が、飛ぶように後に過ぎ去っていく。その動きが静まったのは、河床の幅が夜目にも白く広がり、石灰岩の窪みを流れ下る水音だけが聞こえる場所に、たどり着いてからだった。
「ふぅー、いったいどうされたのですか? あなたがあんな技を使うとは! 知りませんでしたぞ!」
「技?」
「左様、今のは『エルフ走り』というやつに違いありません。『神速通』とも言いますな。ヴェルデの七里靴どころではない。なにしろ某が置いていかれたのですから、凄まじい!」
「ヴェルデより速かったというのか?」
「気がつきませんか? ここはもう『骨の河原』、ジプトへの街道の渡河場ですぞ」
すると私が昼間三刻以上かかってたどった距離を、いつの間にか歩き通したことになる。せいぜい一刻ほどしかかかっていないだろう。だが何よりも暗い中、足場の悪い河原をこの速さが異常だということは、私にもわかった。あの奇妙な感覚にとらわれたのは日が落ちてしばらくしてからだった。疲れ果て、このままで間に合うのだろうかと考え出し、ソンブラの声がやけに遠くに聞こえる気がしたのを憶えている。いったい、何が起こったのだろうか?
「ま、何とか間に合ったようだから、いいだろう」
「やれやれ、ライト殿と一緒だと、驚かされることが多くて退屈しませんな」
このこともまた、いずれ考えて見なければならない。だが今はトゥラン軍を、味方を見つける方が先だ。
味方の軍はすぐ見つかった。というより、味方の方が私たちを先に見つけたのだ。骨の河原のシュバール側の土手を越えた一帯に、トゥラン軍の砲兵隊が陣地を築いていて、周囲には警戒線が敷かれ、歩哨が配置されていた。砲と砲の間には施条銃兵が狙撃用の塹壕を掘っている。前装式の銃では槊杖で弾薬を装填するため伏せ撃ちができない。後装式の銃を持つフランツ兵に対抗するには塹壕が必要なのである。
ここで指揮をとっているのは近衛大隊の副司令官カルロ・デ・ベルレムであった。近衛大隊の司令官はコンデ王なので、実質は近衛大隊長である。ややこしいのだがトゥランではそのような軍制になっているので仕方がない。サトゥース、ギューク王子、レオ王子の三人はまだジプトの砂漠におり、協動して撤退戦を戦いながら後退して、フランツ軍をこの渡河地点に誘導しつつあった。
トゥランの竜騎兵隊がフランツ軍に圧倒されていると知ったシュバールのウルとウルクは軍を出したがその総数は千に及ばず、エラム軍の陽動によって他の都市が出兵をためらったため、トゥランの歩兵大隊の攻撃によりたちまち壊走した。今頃ウルとウルクの指導者たちは臍を噛んでいるだろう。トゥランとフランツの勝敗がどうなっても、これでウルやウルクの出る目がなくなったからである。
陣地にはダズが待ち構えていた。ダズは正体を隠し、エラム王の臣下という立場でここに従軍しており、私がいなければこれからの戦いで果たす役割、ここから十数里上流のアケーシアル湖にいるグルガルとの間の連絡を、トゥラン軍側に伝えることができない。
ジェニはどうやら今、サトゥースと行動を共にしているようだ。
ベルレム副司令官によると、サトゥースはフランツ軍が上陸したパルガ湾付近まで威力偵察を行い、付近を警戒していたフランツ軍の先鋒と接触した。それが四日ほど前のことである。取って返したサトゥース率いる偵察中隊を追撃してきたフランツの騎兵一個大隊を、ギューク王子とレオ王子の竜騎二個大隊で挟撃、打撃を与えた。これで第一第二大隊の竜騎兵たちも実戦の洗礼を受けたわけだ。はやる二王子を説得し、サトゥースは撤退戦に移行する。急を知らされたフランツ軍五千の騎兵が反撃のため向かってきたのだから、これは賢明な判断だった。
もっとも、さすが五千の騎兵が一時に動くことはできず、フランツ軍の初動には時間差があった。まず「兵は拙速」とばかり突出してきた大隊を、サトゥースは砂丘の陰に隠した兵力で奇襲し追い散らした。隊列を再編し後続の部隊と合同して反撃しようとするとサトゥースは逃げる。追撃に移るとどこからか現れたレオ王子の大隊が長く伸びた縦隊の横腹に攻撃を加える。方向を変えてこれに対処しようとすると反対側からギューク王子の大隊が現れる。それに気を取られているうちにレオ王子の部隊は姿を消し、ギューク王子も攻撃することなく退く。このようにして緒戦の砂漠での戦いは、フランツ軍がトゥランによっていいようにかく乱されるという結果に終わった。すべては『ハサスの声』がもたらした三つの部隊による連携の成果だ。
トゥランが出したのが機動性に優れる竜騎兵だったので、フランツも騎兵部隊が先行して追撃したのだが、当然その後からフランツ軍の歩兵部隊四万五千も行軍を始めた。トゥランが撤退戦術をとるという情報を得ていたフランツ軍指導部は、当初サトゥースと私が考えた漸減作戦を正しく読み取った。その上で、トゥランが後退した領域を自らの歩兵部隊で押さえていくことで、最終的には大差での勝利を収められると判断したのだろう。
実際騎兵同士が戦えばお互いに消耗するが、フランツの歩兵部隊にはまったく損害が出ない。そしてトゥランの歩兵とフランツの歩兵の数の戦力の差といったら、ネズミと象くらいの違いがあった。つまり、後退すればするほどトゥランは圧倒されていくことになるのだ。
戦力の消耗を嫌ったサトゥースは砂漠の端、シュバールとジプトの国境をなすフェルセポネ山系の手前で三つの大隊を束ね、追走してきたフランツ軍騎兵部隊に一撃を加えた。
フランツ軍の勢いが止まったのを見定め、サトゥースはまたもや後退する。この時点に及んでは、誰もサトゥースの指揮に異議を唱える者などいなかった。三つの竜騎兵大隊は整然と隊列を組み、要所要所で殿を交代しながら、街道をたどり山系の中に分け入っていく。
フランツ軍の先鋒である騎兵部隊はトゥラン軍との接触を避け、少し距離を置きながら追走して来た。何しろフランツ軍にしてみれば、進めば進むほど自分たちに有利になるのである。無理して攻撃し自分たちにも損害が出るよりも、フランツ軍の戦力に押されるように後退していくトゥラン軍を、ただ追っていくほうがよい。もしトゥラン側が下がるのをやめたならば、そのとき絶対的な戦力の差で押し潰せばいいだけだ。そう考えたはずだ。
私はケーロン河のジプト側の土手に立って、トゥラン軍竜騎兵部隊が撤退して来るのを目にした。彼らの戦意は高く、疲労の色がうかがわれはしたが手綱さばきは確かだった。とてもこれが四日間の厳しい戦いを経てきた兵士たちだとは思えない。彼らは土手の手前で下馬し、手綱を引いて白い河原を渡っていく。この河原を騎馬で駆け抜けるのは無理だ。並足でも躓いて足を痛める馬が出るだろう。正午までにはまだ時間があった。空は晴れ風は弱い。暑くなりそうだった。
殿のサトゥースの部隊が河原を渡り終えるまでに一刻半かかった。九百碼ほどの距離にフランツ軍の物見の兵の姿が見えた。しばらくするとその後からフランツ騎兵隊が現れる。私の側の土手には前後二列になって三百名の施条銃歩兵が身を隠していた。幅十碼ほどの街道を、一個中隊のフランツ軍騎兵が早足で馬を駆けさせて来る。
「シュルツ軍曹の小隊は先鋒の中隊を狙え! 他は後の本隊だ! 前列、構え、撃て!」
ガガァン。多数の施条銃が放たれる激しい銃声が私の耳を打った。街道を走っていた馬の脚がもつれ倒れるのが見えた。後方の隊列も乱れ、落馬する姿が認められた。
「後列、構え、撃て!」
ガガァン。先鋒の部隊にはもう騎乗している姿が無い。数頭の馬が乗り手を振り落とし駆け去った。狙撃と判断した後方の部隊は街道上から一斉に散開した。今までは油断していたようだが、やはり実戦を潜り抜けた部隊だ。密集していてはいい的になるばかりである。
六度斉射するとフランツ軍の兵士はほとんどが射程距離外に後退し、あるいは物陰に身を隠したので、狙えるものが無くなった。さて、今ので何人のフランツ兵が戦闘不能になっただろう。三百か四百か、多くてそんなものだろう。フランツ軍全体からしたら微々たるものだ。だがこれでしばらくは足止めができるだろう。私は無言で、周りの歩兵に合図を送った。
三百の歩兵が、施条銃を抱え、声一つ上げずに河原を渡っていく。ほぼ横一列だが、多少ある石灰岩の起伏に足を取られ、遅れる者がいる。八百碼余りを駆け抜けるのだから、足の速い者が選ばれていた。万が一気配を察したフランツ兵がジプト側の土手に達し、そこから狙撃される可能性を思えば命がけだ。私も一緒に駆け出したが、あの河を下って来た際に体験した『エルフ走り』とかは、今日はできなかった。
度々の奇襲にフランツ軍は用心し、歩兵部隊の到着を待って川岸の土手まで進んできたらしい。ジプト側の土手の向こうからフランツ軍歩兵の被る軍帽がひょこひょこ見えるようになったのは半刻もたってからだった。
サトゥースとジェニが私のところにやって来た。ベルレム副司令官が指揮をとる陣地の一画、司令部が置かれている場所で私たちは再会した。
「ご苦労だったサトゥース。まあ、お前にはお似合いの任務だったろうが」
「はー、これだけ戦力差がありゃあ、こき使われるのは覚悟しなきゃな」
「そんな殊勝なことをサトゥースが言うようじゃ。砂漠に雨がふりかねんぞ」
「雨ならどっと来てほしいもんだが……」
「そっちは心配するな。それより川向うでフランツさんが腰を据えて動かなくなってしまったらどうする?」
「ああ、それこそ心配するなだ。細工は流々仕上げを……」
「乱波とロマが昨夜パルガ湾の上陸地点を襲撃しました。火船で輸送船を焼打ちし、陸揚げされていた軍事物資も焼いたのです」
ジェニが長口舌になりそうなサトゥースを遮った。
「それじゃあ……」
「フランツ軍は急いでここを抜け、シュバールに入らないと、食料も飼葉も弾薬も、すぐに不足することになるというわけさ」
「では?」
「俺の考えでは、今夜まで待たず明るいうちに総攻撃を仕掛けてくるだろう」
一刻もたたないうちに攻撃は始まった。川岸にそびえ立つ巨木の上によじ登ったソンブラが、大声で状況を報告する。フランツ軍は一里余り続いている骨の河原の長さ一杯に歩兵を配置し、一斉に渡河させて来た。横隊を組んでではなく、散兵での突撃だ。後装式の施条銃を持つフランツ兵は伏せ撃ちが可能で、河床の僅かな起伏を遮蔽物として利用できる。しかも兵力はトゥランの一万に対しフランツの五万、多少の犠牲を払えば圧倒できるという考えは無理ではない。トゥランの弾薬にも限りがあり、そう長くはフランツ軍を足止めしておけないだろう。一箇所でもシュバール側にフランツ兵が侵入すれば、トゥランの壊滅はあっという間だ。
トゥラン側は塹壕に身を隠し、土手の上から河床に向け施条銃で狙い撃つ。元々向こうの土手に比べこちらの土手はかなり高くなっている。さらに塹壕や砲兵陣地の際出た土砂を土嚢に詰めて積み上げてあった。その後に隠れた士官が自分の中隊に割り当てられた区域を見張り、目標を指示して狙撃させていた。
岩陰から岩陰へ伝って来ようとするフランツ兵を恐慌に陥らせたのは、サトゥースの提案で鋳造された小型の臼砲だった。ドン、ドンというような音を立てて撃ち上げられるその砲弾は、飛んでいる最中に爆発したり、河床に落ちて何回かバウンドしてから爆発したり、中には落ちて導火線からシュルシュルと火花を噴出してもいっこうに爆発しないものまであった。遮蔽物に隠れていても、この榴弾が近くに落ちると急いで逃げ出さなければならない。砲弾の中に詰められた火薬の爆発で飛び散る破片が、近くの人間の身体を切り裂くからだ。遮蔽物から跳び出たところを狙撃され、死傷するフランツ兵も少なくなかった。
しかし物量の差はいかんともし難く、骨の河原はジリッジリッと攻めて来るフランツ兵によって支配されつつあった。臼砲の砲弾にも限りがあり、それは施条銃の弾丸についても同じだ。数万のフランツ兵が骨の河原を兵隊蟻の群れのように這い進んで、こちらを圧倒しようとしているのだった。
私はベルレム副司令官の側に佇むダズに目配せした。ダズが頷く。私は向き直って言った。
「司令官、あと四半刻、奴らを食い止めてください」
「わかった」
ベルレム副司令官の顔は蒼白だった。ここが正念場だと承知していても、間近に迫る死の顎を感じて平静でいられる者は少ない。
「ライト殿、フランツ軍が十八斤砲を用意しておりますぞ!」
樹の上からソンブラが叫んだ。高く砲弾を打ち上げ山なりの弾道を持つ臼砲と違い、フランツ軍の加農砲は直視で狙いを定めて撃つものである。大方こちらの土手を狙い撃ち、陰に隠れるトゥラン兵を倒そうというのだろう。また一箇所でも土手が崩れれば、そこが突破口になりかねない。
フランツの砲兵隊は向こうの土手のこちらに見える側まで砲を引き出し、準備を進めていた。トゥランの臼砲の射程が、そこまではギリギリ届かないと見切ったに違いない。
だがその時、ドロドロというかすかな音が河上から聞こえてきた。それは最初は小さかったが、すぐに不気味な地鳴りを思わせる響きになった。
「来たぞ、来たぞ!」
「いざとなったら逃げ出す用意を! どれだけのものが来るかわからんのだ!」
私がそう叫ぶと司令部は大騒ぎになった。士官たちが駆け出し、馬を引いてきた。
ドロドロドロ、ドドドドド、ドッドッドッ。次第に激しくなるその音と共に激流がケーロン河を下って来た。上流のアケールジア湖で堰き止められていた大量の水と、途中でその水が巻き込んだ土砂や樹木が恐ろしい勢いで骨の河原一杯に流れる。驚きで立ちすくむフランツ兵の口が大きく開いたが、そこから漏れた悲鳴は轟く河水の音にかき消されて聞こえなかった。骨の河原にいたすべての兵士の姿が、白く濁った津波のような流れの下に隠される。その波の壁は石灰岩の平らな河原を覆い尽くしたばかりでなく、両側の土手を駆け上り、並べられたフランツ軍の加農砲にも襲い掛かる。トゥラン軍が布陣していた反対側の岸でも波立つ流れが土手を乗り越えようとしたが、元々対岸よりいくらか高い上に土嚢を積み重ねてあったこともあり、僅かに及ばず流れ過ぎていった。
きっかけはソンブラが太洋の向こうの大陸で見た、大きな水生の齧歯類の話だった。海狸と呼ばれるこの温血の動物は水辺の木を齧り倒し、川を横断する形に組み上げて堰を作る。そこにできるダム湖は時として数世代に渡って拡張され、巨大なものになる。何かのきっかけでこの堰が決壊すると、大規模な災害にまで至ることがあるという。
ソンブラがシュバールからエラム、そしてジプトとの国境地帯までを踏破したとき、アケージアル湖とこの骨の河原も調査した。その報告の際に、エラムに海狸が生息していたら、ケーロン河に巨大なダムができていたかもしれないと、戯れ言として奴が言ったのだ。
「エラムにそんな生き物は住んでいないでしょうが、人間にも同じことはできるのではありませんか?」
ジェニがそう付け加えた。私は一考の余地があると思い、後でアシュ王であるグルガルとダズにこの話を持ちかけたのだ。
ダズがトゥランの王都を訪問している間、グルガルはエラムの男たちにケーロン河の上流で木を大量に伐り出させ、河に流させた。そしてアケージアル湖からその下流への出口にその木材を用いて巨大な堰を築いたのだった。私の求めに応じてダズが、はるか上流で待機していたグルガルの心へと合図を送ると、グルガルは爆薬を使い堰の基部を破壊した。せき止められていた湖の水が一度に下流に向けて溢れ出し、あのような恐ろしい結果をもたらしたのだった。
そこにあった何もかもを押し流してしまった白く濁った水は、まだケーロン河を満たしていた。河の向こうにどれだけのフランツ軍が残っているか知れないが、しばらくの間この河を渡ってシュバールに向かうのは不可能だ。そしてジプト側にあった糧食を含む軍事物資は焼き打ちにあい、ほとんど失われている。フランツ軍の残党の将来は、あまり明るいとはいえなかった。戦力としてはもう使いものにならないだろう。フランツが兵力を再編するためには、また零から始め本国から兵と物資を運んでこなければならない。
トゥランは兵力の損傷こそ僅かであるが、この戦いで多額の戦費を費やしていた。この埋め合わせはシュバールにしてもらうことになるだろう。特に休戦を破って兵を出したウルとウルクからは絞り上げてやる。私はそんなことを考えている自分に気づき驚いた。
「ううむ、なかなかの戦いでありましたな」
木の上から降りてきたソンブラが私に声をかけた。
「戦いと言えるのですかあれが?」
ジェニはいつもに増して不機嫌だ。出会った頃のジェニはこうではなかった気がする。
「人の生き死にを応酬するあれが、戦いでないと思うのか?」
「ではライト様は神のように人間の命をむしり取ると言われるのですね」
「おお、某にはあのような戦いはできませんな」
「お前は自分の手で人を殺したいだけだろう」
「左様、他人の手でとか、ましてやあのような人為的な災害によって命を危めるのは、某の性にあわぬのです」
「俺も殺すなら銃の弾丸か剣か、何かそんなものがいい。砲弾でもまあ我慢しよう。しかし、あれはなぁ……」
「某は別に、ライト殿の戦い方を否定するつもりはありませぬよ」
「負けるより勝つ方がいいってことは俺も反対しない」
私にはそれらの言葉が、どうにも不愉快に感じられた。
「何を言っても死は死だ。それ以上でもそれ以下でもない。誰のところにも必ず取立てにやってくる借金取りか徴税人のようなものだ。それが銃弾によるものだろうと、ただの水によるものだろうと、死は死だ。誰のところにも公平に、必ずやって来る。だいたいお前たちはみんな、殺すことは考えても殺されることは考えていないだろう」
「私たちはみんな獣です」と、ジェニ。
「ああ、その通りだ。自分以外の誰かの血をすすらなければ生きていけない……」
「それは生きとし生けるものの業とか宿命とか言うものではありませぬか?」
ソンブラがそんなことを言ったので、私は改めて「ああこいつも、自分が生きていると信じ込んでいるのだな」と考えた。ジェニでさえ『捕食者の哲学』から自由ではない。それが何にしろ、多分アイシャーだけが私の今の気持ちを共有できるのではないだろうか?
本作品に登場する、人物、組織、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。
2014.04.19. 『文頭の1字下げ』を挿入。
次が誰の言葉かわかるように『私は向き直って言った。』を挿入。




