11.戦神の時 ◆11の4◆
セト河の河畔にあるアシュ王の離宮の、私たちトゥランから来た外交団にあてがわれた部屋で、ドミーナが少し顔を赤らめながらダズの背中にある白い文様について説明していた。
「肩甲骨の間から、その……お、お尻の方に向けて逆しまになった樹のような、し、白い文様が……でも、黒い肌が墨を入れた結果なら、あの文様は彫り残した元の肌色ということになります。あ、あたしが見た限りでは、傷のようなものは残っていませんでした……」
ドミーナの言葉を補足したのはソンブラだった。
「某の知る限りでは、セフィロトの樹と呼ばれる文様に似ております。ただし世界の徴が一番上にあり、最も上にあるべき王冠が一番下にある。つまりオメガが最初にあり、アルファが最後になっている。それが意味しているのは、ダズが『メム』つまり『逆しまに吊るされた男』であるということなのでしょう」
「それは重要なことなのか?」
ソンブラがそのことに何故こだわるのか、私にはさっぱりわからなかった。ドミーナがアシュ王の後宮に入り、同時にトゥランとエラムの間の交渉が始まって五日目だった。交渉の合間にソンブラがドミーナに、アシュ王である二人との閨の様子を微に入り細をうがつように問い質した後、私とジェニにも説明するようドミーナに強いたのがこの話だった。
「グルガルの背中にも同じ樹の文様が彫られているというのです。奴の肌の色があのように濃いためわかりにくいのですが、グルガルの方の樹は正位置、つまり王冠が上にあり、世界の記号が腰の部分に彫られているようです」
「魔導の徴か何かわからんが、それがどうしたというんだ?」
「ライト殿、これは由々しきことなのですよ。正逆一対のセフィロトの樹による魔導は、キタイの魔導院が用いる遠隔心鏡術と同種の技です。今やグルガルとダズは、何千里離れていてもお互いの意思を通じ合うことができるに違いありません」
「使い魔との関係というのは、元々そういうものではないのか?」
私が魔道について無知なのは仕方がないという顔をしたソンブラは、噛んで含めるように話し続けた。
「確かに使い魔とその主は五感を共有することはできますが、距離や条件によって様々な制約があるのです。例えばお互いの距離が離れれば離れるほど、その絆は細く途切れ途切れになるのが普通です。だがこの一対の樹の文様を用いる方法であれば、山脈や大きな海を越えて通じ合うこともできるでしょう」
「便利なものだな。しかしそんな便利な技が、どうしてもっと活用されないのだ?」
「払うべき代償が大きすぎるのですよ。真の魔導の才を持つ者が両端に必要なのです。大国キタイでさえ、然るべき才の持ち主を集めるのに難儀しているのです。しかしグルガルとダズの間にそのような絆があるとすれば、これを生かさない手はありません」
サトゥースと私が侵攻してくるフランツ帝国陸軍に対する方策として立てていたのは漸減作戦だった。テラニア海を渡り、長距離を遠征してくるフランツ軍の戦力を上陸地点のジプト王国パルガ付近で迎え撃ち、シュバールの方に後退しながら相手の戦力を削っていく。こうすることで上陸地点から補給路が延びていくフランツ軍に対し、母国に向かい撤退していくトゥラン軍の方が次第に有利になるという考えだ。問題はシュバールが敵地だということで、万が一各都市に分散しているシュバールの戦力がまとまって後退中のトゥラン軍にぶつかって来るようなことがあれば、トゥラン軍は崩壊しかねない。
今回の交渉でトゥランがエラムに求めているのは、シュバールの動きを抑えるための出兵だった。実際に戦ってもらわなくとも、国境付近で兵を動かすだけでシュバールの各都市は身動きが取れなくなる。兵を出して空き家になった都市にエラムの軍がやってくれば、それこそ無抵抗で占領されてしまうことになるからだ。出兵といってもエラム軍にはほとんど犠牲が出る可能性が無く、利を持って説けば受け入れられないはずはないと考えたのだ。
ソンブラの声を聞きながら、この情報がそれほどこの事態を変えるとは、その時私は考えなかった。
三日後アンシャンを出発し、アシュ王グルガル・ダズと私たちは船でセト河を二日かけて遡行して、上流の町トンシャの傍にある三日月形の大きな湖についた。『ウジャトの眼』と呼ばれるこの湖がセト河の水源だろう。ジェニ、ソンブラ、それに私の他に、ドミーナが同行していた。ソンブラの力を借りたドミーナは短期間のうちに後宮での権力争いに勝利し、アシュ王の妹君をねじ伏せることに成功していた。エラムでは女が前に出て政に関わるなどということはそれまで考えられなかったが、ドミーナは自分もジェニやアイシャーに負けまいと思って行動しているようだ。だが万が一ソンブラの助力が無くなるようなことがあれば、ドミーナは梯子を外されたようなことになるのではないかと私は思った。
そこからジプト王国とエラムの国境をなすフェルセポネ山系と密林の境目に沿って北上する。ドミーナは竜騎兵の軍服を着てグルガルの側に従い、馬を進めていた。進むに従ってエラムの兵が増え、いつの間にか長蛇の列となった。近くの住民の案内で山間に分け入る頃には、その数は二万を超えていたろう。
「エラムの動員できる兵がこれほどとはな……」
私が驚きの声をもらすとジェニが応えた。
「でもこの者たちは軍事訓練を受けておりません。武器もそろっておりませんから、軍隊とは言えぬでしょう」
まあ確かに、男たちの手にしているのは武器と言えるものより斧や鋤鍬の類の割合の方が多かった。それどころか細長い棒や麻縄の束のようなものを担いでいる者さえ多数いるのだった。
山間に入ってしばらくすると渓流に出会った。このあたりがジプトとエラムの国境を流れ、テラニア海に注ぐケーロン河の源だ。山間を流れるこの河はアケージアル湖に一度流れ込んだ後、ジプトとシュバールをつなぐアビャドの地峡を横切ってから再び山間に入り、テラニア海に至っている。
やがて男たちは山に入って木を切り倒し、丸太にして河まで運び、筏を組み始めた。私たちはこの筏で河を下ることになる。
第一陣として私とジェニ、それにダズが最初の筏に乗り込んだ。ソンブラとドミーナ、そしてグルガルは後からやって来ることになる。流れに乗って筏が動き出した時私たちが手を振ると、振り返したのはなぜかソンブラだけだった。
「めったなことはないと思うが、ソンブラがグルガルの不興を買い、首をはねられるようなことにならなければいいが」
私がそうジェニに言うと、ジェニは鼻を鳴らすようにしてそっぽを向いた。まあそれほど本気の言葉ではない。エラムは半分敵地のようなものであり、緊張の連続だったのだ。筏はかなり長く連結されたもので、ダズやエラムの兵たちは離れた位置にいる。少しぐらい軽口をきいてもいいではないか。何だかこのところずっとジェニの態度が冷たいような気がする。これはもしや、倦怠期というやつだろうか?
流れは速く、二昼夜余りでアケージアル湖に着いた。
同行してきた兵士たちをそこに残すと、私とジェニはダズを伴いトゥランに向かう。季節は乾季の終わりに近づき、山系の山々にはアヌビス海からの湿った風がもたらす雨が降り注ぎ始めていた。アビャド地峡を横切るケーロン河の白い川床の水量も今は乏しいが、やがて増えて白く濁った水の流れとなるだろう。
アケージアル湖から東へ向かい、シュバールの都市ズィクの側を抜けてシュバールとトゥランの国境をなすシャロイ山系の間道を通って鎮西軍の駐屯地があるナンナに着いたのは、湖を出て四日後であった。
ナンナでは戦のための準備が進められていた。と言っても戦場はナンナではない。シュバールを通りジプトへ至る街道にある国境の町ラエルに、トゥランの軍は集結しつつある。
ラエルに着くとそこはトゥラン中から集められた兵でいっぱいであった。三千の竜騎兵と二千の銃歩兵が前装式施条銃を持ち、他は前装式マスケットだ。方面軍からかき集められた騎兵が二千、歩兵が二千、近衛の兵が千。合計一万がトゥランの兵力のすべてである。
総司令官はコンデ王であったがまだ王都トゥーリアにおり、ラエルの駐屯地には副司令官兼参謀長としてサトゥースが詰めていた。
「おや、もう帰ったのか? 陛下に報告は済ませたのか?」
サトゥースは兵舎の中の執務室の扉を開けた私の顔を見て少し表情を明るくしたが、ひどい面構えだった。目の下には隈を作り、無精髭には白いものが混じっていた。戦いの準備に費やした二ヶ月余りの悪戦苦闘の跡がそこには残されている。
「いや、報告の前にお前と相談したいことがあってな、王都に向かわずこちらに寄ったのだ」
「俺に相談? 一体何のために?」
「作戦の修正だ」
「おい、今更何を言うんだ! これ以上どうしようがあるものか!」
声が荒くなるのはいつものサトゥースらしくなかったが、それだけ追いつめられているのだろう。フランツ軍の五万に対してトゥランの兵は一万、撤退しながら相手の兵力を削っていってもこちらの兵も当然消耗していく。最後はどう考えても勝ち目のある戦いではなかった。
「フランツ軍を罠にはめてやるのさ」
「何だって? エラム以外にも援軍が見つかったとでも言うのか?」
「援軍と言えば言えないこともないな。陛下の承認を得てからでは準備が間に合わぬかもしれん。まず話を聞け……」
サトゥースはしかめっ面をして私の話を聞いていたが、次第にいつもの調子を取り戻し、私の構想の不備と思われる点を指摘してきた。この男にとって戦争の話ほど効く回復薬は他にないのだ。
「作戦の遂行にとって不可欠な切り札を紹介しておこう。と言ってもお前も顔見知りの相手だがな」
「顔見知り? 俺にはエラムに知人はいないはずだが……」
サトゥーはダズの黒い顔と巨体を見ながら首をひねった。
「まあ、お前がこの前会った時には縛られて床に座っていたが、わからんか?」
「まさか……?」
「アシュ王の半身にして盗賊の頭目、ダズ殿だ」
「もう盗賊の頭は廃業した」
「今は王様だ。私以上の大出世だな」
ダズが黒い禿頭を同じく黒い大きな手で撫で回し、そこにあった椅子にどっかりと腰を下ろすと、その重さに椅子が軋んだ。
「切り札、と言ったな。先ほど俺が言った問題を解決できると言うのか?」
「まず地形的な問題が先だ。お前は私が思う地点で決戦を行うことができると思うか?」
サトゥースは壁に貼られている大きな地図の側に歩み寄り、その中ほどを指差して話し始めた。
「元々の作戦では、最初の接触はジプトに上陸途中のフランツ軍を奇襲するはずだったが、お前の構想に合わせるなら、五万の兵がすべて上陸し終わってからということになる。その分危険が大きくなるのだから、逃げ足の速い竜騎兵以外は使えん。相手の兵力から考えれば第三ばかりでなく、第一も第二も出す必要があるだろう」
「その点は作戦の内容も含め、私の方から陛下に命じて下さるようお願いする」
「ああ、なにしろいくら作戦とは言え、俺の『逃げろ』などという言葉にギューク殿下やレオ殿下が素直に従ってくれるとは思われんからな。王命が必要だろうさ」
「それで戦場となる地峡の地形だが……」
「決戦場となる可能性の高い場所として俺自身が偵察隊を率いて下見してある。ジプトからシュバールに入る街道がケーロン河を横切る地点で、石灰岩の広い川床が広がっている。川幅が広がっているので渇水期ばかりでなく雨季でも水深は浅く、渡河しやすいということでここに街道を通したのだろうな。幅七・八百碼の川床が長さ一里余りに渡って続いている」
「それで、できるのか?」
私の質問にサトゥースがニヤリと笑って答えた。
「ああ、川岸のこちら側に陣地を構える。川床は広いが平らで見通しがいい。河を渡ってくる敵兵はすべて射線に入る。五千丁の施条銃で狙い撃ちしてやるさ」
「相手はどう出ると思う?」
「力押しだろうな。相手の武装はすべて後装式の施条銃、五千丁と五万丁という数の差ばかりでなく、装弾速度も大違いだ。おまけに後装式の利点として伏せ撃ちができる。川床が平らだと言っても完全にまっ平らというわけでもないからな。広い川床を一斉に渡ってきたら防ぎ切れない」
「フランツにも騎兵がいるはずだが、一気に渡河して来るということは考えられないか?」
「確かに五千ばかりが上陸すると聞いているが、あの川床を馬で駆け抜けるのは無理だろう。それに、あの場所で戦えるとしたら、面白い方法が使えそうだ」
うれしそうに笑うサトゥースを見て、また何かよからぬ人殺しの道具のことを考えているのだろうと、私は思った。
その時、従卒に茶道具の下げ盆を持たせてビゴデ軍曹、いや准尉が部屋に入ってきた。
「おひさしぶりです、ライト様」
「おう、ビゴデ准尉、すっかり士官服が身についたな」
「まだどうにもなれません。ジェニ様もお変わりないようで」
「いや、そのものの言い様はどう考えても下士官室の親玉とは思えん」
「昔の方が気が楽でした。士官室ではどうにも肩身が狭いもので……」
「トゥラン軍の教導中隊隊長ではないか。胸を張っていればいい」
力ない笑い声を上げるビゴデ准尉を見ると、ここにも人知れぬ苦労がありそうだ。
「ところで面白い方法というのは?」
サトゥースに水を向けると、いつものように眼を輝かせて喋り出す。
「実はな、新型の大砲を製造するめどがつかないので、アイシャー様と相談して小型の臼砲を作ることにしたのだ」
「小型の、臼砲、ですか?」
ジェニが疑わしそうな声で言った。まあ、前からサトゥースの兵器狂いにはいい顔をしたことの無いジェニだ。露骨に不機嫌なその声にもめげず、サトゥースは勢い込んで言う。
「重さがたった百五十斤しかないので分解すれば数人で運ぶことができる。口径は四寸、砲身は一尺ほどしかないが、榴弾を最大で七百碼飛ばすことができる」
「榴弾を……七百碼ですか?」
「ああ、仰角は半直角に固定で、射程距離は発射薬の量で調整する。中空の鋳鉄製の砲弾に火薬を詰めて発射する。導火線の火が中の火薬に届けばドッカンさ」
「そんなにうまく爆発するものなのか?」
うれしそうにまくし立てるサトゥースの様子に、私も思わず水をさしたくなった。
「ん、まあ四発に一発は不発だし、半分は飛んでる途中に爆発する……かな」
「それじゃあ……」
「いや、別にそれでもかまわんのだ。爆発した破片が敵兵を倒してくれるし、それになんと言っても製造が簡単だ。青銅の鋳造技術はトゥランの職人でも十分なものを持っているからな」
「青銅製なのか。だが、そんなに大量の青銅をどうやって調達したんだ?」
「いやぁ、それがな、例のモニオの一族が神官を務めていたハーリティ神殿な、あそこの神像や梵鐘なんかが青銅でできていたんだ。で、この前の騒動の落し前として、そいつを寄付してもらったのさ。神殿ばかりでなく信者たちからも自主的に寄付があったしな」
「信者の人たちには災難だったのではないですか?」
ジェニがそう言ったがサトゥースはこともなげに答えた。
「そんなケチのついた神様の像なんて持っていたくないだろう、誰だって。持っていたら何を言われるかわからんからな」
トゥランでは特に一つの神様にこだわる者はあまりいない。ご利益がありそうな神様に必要にあわせて捧げ物を奉納し、信仰を捧げるというのが普通だ。都合の悪くなった神像を始末するということも、ないことではないだろう。
その晩はサトゥースとの打ち合わせが遅くまで続いた。翌朝私たちがシューリアに向けて出発しようとする頃、サトゥースも地形をもう一度確かめてくると部下を率いて出かける準備を始めていた。
「ライト様、感謝しております。サトゥース様が憔悴するのを見かねておりましたが、私にはどうしようもありませんでした。ライト様のお陰ですっかり気力を取り戻したようです」
別れの言葉をかけようとするとビゴデ准尉がそう言った。
「あいつのことをよろしく頼むぞ、ビゴデ。なんと言っても今回の戦いでは、奴がトゥラン軍の要だからな」
「わかっております。命にかえましても」
私たちはラエルを発ち、一路王都シューリアへ向かった。
本作品に登場する、人物、組織、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。




