11.戦神の時 ◆11の1◆
アンシャンから船底の平たい川船に大きな三角帆をあげ、風を背にセト河を遡行し、川上の町トンシャに着いたのは五日後だった。のんびりした船旅のように思えるかもしれないが、道の整備されていない密林の中を陸行するよりこの方がずっと早いのだそうだ。トンシャはウジャトの眼と呼ばれる巨大な三日月形の湖の畔にあり、ここにも巨牛の石像に守られた神殿の遺跡があった。
トンシャから山間の間道を三日かけて歩き、シュバールの都市ジャンブに着く。ここで身分を偽り三頭の馬を購って、街道を北上する。シュバールはすでに敵地と考えねばならず、できるだけ早くぬけたかったので、トゥランとの国境にある都市ゴグまで無理をして十四日でたどり着いた。
ゴグから国境を越えると鎮西軍の駐屯地があるラエル、ここで馬を代えて王都トゥーリアまで五日で駆け抜けた。ソンブラに言わせれば遅すぎるペースだろうが、生身の人間としては精一杯急いだつもりだ。ジャンブからラエルまでは馬が耐えられる限り道を急いだため、後半は乗り手である人間の方も限界だった。無論ソンブラは平気な顔をしていたが、ジェニも私もお互い無口になり、体力の温存を図った。
トゥランに入るとやっと少し気を抜くことができた。だが疲れもあって私たちの口は重かった。疲れだけではない、黙って馬を進ませる間常に私の頭から離れず、心の底に澱んで離れない四つの名があった。
「ドゥムジ、ゲルマヌス、ルズ、そしてエンテネス・ライト」
ドゥムジはジェニが、ゲルマヌスはグルガルが、ルズは私自身が告げた名だ。そして今の私には、そのいずれの人物であったという記憶も無い。それを言えばクフナ・ウルの町で目覚めた私にも、エンテネス・ライトであるという自覚は無かった。私がその四つの人物のいずれかであるという確証は何も無いのだ。今名乗っているライトという名でさえ、時々浮かぶ記憶の断片や何故知っているかわからぬ知識のことを考えると、本当のところどんな人間なのか分からない。
「どうされたのですか、ライト様?」
ラエルを発ってから王都へと続く西方街道をたどって五日目、遠くの王都へ入る橋と砦門を見て馬の足を緩めた頃、ジェニが言った。
「シュバールからずっと口を閉ざしておいでです。何かお気にいらぬことでも?」
ジェニの言うとおりだ。私は旅の間ほとんど口をきいていない。おしゃべりのソンブラがいなければ、一言も交わさずにいたのではないだろうか。いくらなんでもそれではお互い苦痛なばかりか、一緒に行動することにさえ不自由しただろう。
「私は何者なのだろう、ジェニ?」
これを尋ねることが私は恐ろしかったのだ。ジェニは私の四つの顔を見たという。どうやってなのか未だに理解できないが、私の正体を知るのは私ではなくジェニだ。私が見えていない私の姿をジェニは見た。それはまるで身動きできないまま背中から我が身を切り開かれるような恐怖であり、それに直面する恐ろしさが私の口を閉ざさせたのだ。
だが間もなく私はアイシャーに会わねばならない。あの女と対面する時私に少しでもためらいがあったら、そこから爪を差し込んで私の腹わたを引き裂いてしまうかもしれない。あれはそういう、まるで虎のような女だ。でなければソンブラのような男があれに従おうとするわけがない。いやソンブラではなくモルなのか? そもそもモルは最初に幼いアイシャーに出会った時、彼女の何にそれほど惹かれたのだろう? とにかく、尋ねるのなら今のうちだ。
「ジェニ、君は私の中に何を見た? ドゥムジ、ゲルマヌス、ルズ、エンテネス・ライト、この四人はどんな男だったのだ?」
ジェニは当然この一ヵ月近く、この質問を予期していただろう。だが直ぐには答えず、私の顔から視線を外した。しばらく私の横で馬を並足で進ませながら、シューリアの西の街道への砦門の方を見ていた。
「トンシャまでの船旅の間に聞かれるものだと思っておりました。その後もずっとお尋ねにならないので、もう忘れることにしたのかと……」
ジェニにそう言われると、聞くのが怖かったのだとは言いづらかった。だが、ジェニの言いようには別の意味も含まれていた。
「忘れた方がいいと思うのか?」
「ライト様が何百年も昔ドゥムジやゲルマヌスだったとして、それが今何だというのですか? ライト様はライト様でよいではありませんか! 今ここにおられるのはライト様以外ではありません。お願いですからドゥムジやゲルマヌスなどになろうとしないでください」
たとえゆっくりとではあっても、馬を歩ませながらお互いの細かな気持ちを伝え合うのは難しい。ましてや一ヶ月近くも語り合う機会を持たなかったジェニが、本当は何を言いたいのか、私にはわからなかった。
「やはりこの話はトゥーリアに着いて、落ち着いてからにしよう」
「そう、ですね。でもこれだけは……ドゥムジもゲルマヌスも私にとっては見知らぬ、名ばかりのお方です。でもライト様とルズという方は、同じ人なのです」
「ん、では君が私の中に見た四人というのは……もう一人いるのか?」
だがその時、砦門の方から馬を駆けさせてくるサトゥースの姿が見えた。ジェニは手綱を取り直し、後でというようにうなずいて離れてしまった。
サトゥースは私たちに、砦門を入ったら真っ直ぐ王城に向かうようにとのアイシャーの伝言を運んで来たのだった。エラムを発ってから一ヶ月近くたつのに、今さらずい分せわしいことだ。そう思ったが仕方がない、王城に向かって馬を急がせた。
旅の埃を落とす間も与えられず、私たちはコデン王とアイシャーの前に呼び出された。すでに国境の駐屯地ラエルから、早馬が簡単な報告書を運んでいた。ただ詳しいことについては文書にできない面もあり、私たちの到着を待たねばならなかった。
表向きの王の居住区である光明殿にある一室に、コデン王とアイシャー、記録管理官のリブロ、内務大臣と外務大臣、そして驚いたことに鎮南軍のマリンヘ司令官までもが私たちを待ち構えていた。これだけの面子がそろって待っているのでは、サトゥースが私たちを急かしたのにも納得がいく。誰ひとりとして暇な者などいるはずもないからだ。
「長旅の後だが直ぐに報告を始めてもらおう」
内務大臣がそう言うと、王が付け加えた。
「定例の枢密会議と同じく直答を許す。議長は内務大臣が務めるが必要な場合は朕に向かって具申せよ。国の利害に関わることが優先じゃ。今ここに居る者は枢密院の一員とみなす」
王宮の中で可能な限り、自由に発言せよとの王命だ。これで討議の進行が早くなる。
「ではまずエラムの状況から」
議長から私に指名があり、私はエラムでの事の顛末とアシュ王の人となりを伝えた。
「ではそのグルガルとダズという者がアシュ王の正体だというのか? 単なる影武者などではないと?」
議長である内務大臣が疑わしそうに眉をあげ言う。
「そのように見ては手痛い目に会いましょう。フランツ帝国の二の舞は避けねばなりませぬ」
アイシャーが私を擁護した。
「外務大臣、フランツの動きと合致するか?」
王が諮問した。
「その話が真実であれば、フランツのエラムに対する姿勢の変化が納得できます。シュバールからの情報によりますと、フランツは相変わらず軍備の拡張を続けているそうですが、エラムに対してだけはやけに弱気です」
「シュバールからの情報ですか?」
「シュバールが一枚岩だったことなどありません」
都市連合であるシュバールは都市同士の利害が対立すればそれぞれが勝手に動く。ウルが現在の盟主であるとしても、それに面従腹背している都市はいくつもあるに違いない。
「軍拡は陸軍だけでなく、海軍でも行われ、戦列艦の数だけでも現在百隻以上になっているはずです。暗黒大陸の海岸沿いに拠点を確保し、つい最近もアビシニア王国とポート・モロという港の借款に関する条約を結んだといいます」
外務大臣はマリンへ司令官を見やった。司令官は顎を引き、咳払いをすると話しだした。
「フランツ本国から暗黒大陸を廻ってアヌビス海に入るのには二ヶ月余り、場合によっては三ヶ月を要します。それだけ航海が続くと艤装の修理や船底の清掃なしには戦闘に持ち込むことができません。それなしでは、まず船足が三割は落ちてしまいますし、操船性もひどいものです。ですから、フランツ海軍にとって拠点の確保は欠かせません」
「ラ・ポルトを、つまりトゥランを目指しているということか?」
「いいえ、最終的に目指しているのは東方のヒンドスタン大半島、もっと言えばその先のキタイの沿岸でしょう。トゥランなどは通過点に過ぎない、そう考えているはずです」
「ポート・モロと同じように、ラ・ポルトもフランツ海軍の拠点にしようと考えているのだな」
コデン王が確認すると外務大臣はうなずいた。
「そのように考えるべきかと存じます、陛下。奴らの領土拡張欲には限りがありません。先月もフランツ軍の参謀団がジプト王国に親善訪問と称してやって来たそうです。まあ、侵攻の下見ですな」
「ジプトはすでにフランツ帝国の穀倉地帯として属国化されているのではなかったか?」
「フランツ陸軍が目指しているのもやはりトゥランです。ジプトに上陸しシュバールを通って我が国に侵攻してくる気です」
「陸路でフランツから進軍してくるのではないというわけか?」
「すでに属国同然のグラエキアはともかくトゥルキィ王国はフランツ軍の通過を認めないでしょう。それよりも船で軍を運び、ジプトの海岸に上陸させた方が経費も日数もかかりません。参謀団はバルガ湾の地形を調べて帰ったそうです。あそこから砂漠に沿って東に進めばシェセプ・アンク地峡があります。ケーロン河を渡ればシュバールですし、エラムとの国境にも接しています」
「おそらくシュバールであろうな」
王の言葉を外務大臣は頭を下げて肯定した。
「エラムの国境を入ったとしても密林が続くばかりで道はありません。それに比べ渡河が予想される地点からウルまでは一日の行軍でございます」
「五万の軍を上陸させるのに何日かかる?」
王の諮問にマリンへ司令官が答える。
「マシーリアからテラニア海、奴らの言う青海ですな、あれを船で渡るのに片道五日。兵員を上陸させるだけでなく、物資の輸送や陸揚げもありますし、五万となるといくらフランツ帝国でも一月はかかります。ただ天候のことを考えると、途中にミケネス島があり、荒天の場合避難できるとはいえ、輸送が始まるのは二月先でしょう。従って上陸完了は三ヶ月以上先と見ていいと思います」
「その間に海を渡ることはないと言えるのか?」
「単に風向きが逆であるばかりでなく、この季節は海が荒れます。まかり間違って船が沈めば、一度に大勢の兵員が失われます。フランツにはそんな危険を犯す必要がありません」
「では二ヶ月、もしかしたら三ヶ月の余裕があるということだな」
しかしそれは、三ヶ月後に確実にフランツ軍が上陸し進軍を始めるということに過ぎない。たった三ヶ月で何ができるというのだろうか?
「取りあえずこの一撃をやり過ごさなければ次につなげることはできぬ。事態はそれほど切迫しておるのだ。国外からの情報に接しておらぬ者には腑に落ちない点もあろうが、前々からフランツによる侵攻の可能性は危惧されておった。今回はそれが具体的に姿を現したということだ。朕はエラムとの同盟を考えておる」
「エラムの王は霊的攻撃の可能性について何と言っておりましたか?」
アイシャーが私に尋ねた。
「前回は不意を突いて成功したと。次はメカァニクのグランド・マスターたちも防備を固めているだろうから、共倒れを覚悟せねば霊的攻撃はできないとも」
アイシャーはうなずいた。
「さもあろう。準備さえ怠らねば攻めるより守る方が容易いのじゃ。エラムにうかつに踏み込めば刺し違えるぞという覚悟がフランツに伝わっておれば、エラムにとって十分じゃろう」
「それは……」
それはトゥランにも可能なのですかと聞こうとして、あわてて口を閉じた。臣下が王に敵と刺し違えろなどと言うわけにはいかない。
「トゥランにそれは難しい。グランド・マスターたちに時間を稼がれているうちに海と陸から攻め立てられれば、この国の国民は多大な被害を受ける」
王がそう言った。王と国の民との関係の違いだと言いたいのだろう。エラムでは民の命や財産はこの国より軽い。人の命に対する考え方自体が国によって異なるというのが現実なのだ。
「エラムとの同盟の可能性は?」
王が私に尋ねた。私は用意しておいた紙片を取り出した。
「エラムは軍事同盟とともに、交易を望んでいます」
「交易?」
「まず手始めに、フランツ軍の捕虜を売り渡してほしいと」
しばらくの間、沈黙が続いた。
「捕虜を奴隷として売りに出すのはエラムの生業だが、これにはそれ以上の意味があります」
外務大臣が王に向かって言った。
「トゥランがフランツに寝返る可能性を潰すわけだな」
王が外務大臣の顔を見つめて言った。
「御意。陛下の言われる通り、我が国がエラムの奴隷貿易に加担すればフランツと敵対せざるをえません」
「陛下、奴隷の売買に加担するなど……」
記録管理官のリブロが口をはさんだ。
「どうしてだ? 朕は無法にも我が国の港を砲撃し多大な損害を与えたフランツ軍兵士に同情する筋合いなどないぞ。フランツ側には交換できるトゥラン人の捕虜などおらぬしな」
「しかしそれは人道にもとると非難されますぞ」
「トゥランの無辜の民に砲撃を加えるのは人道にもとらぬというのか? お前は何を考えておるのだリブロ! 人は己の為したことの責を負わねばならぬのだ。命令に従った兵士と言えどもそこから逃れることなどできぬ」
「陛下、リブロの言うことにも一理ございます。外交上多少の影響は免れませぬ」
外務大臣が苦い顔をして言った。
「うむ、ではフランツに兵の身代金を請求しよう。さらに不可侵条約の締結もな。相互条約で良いぞ。我らにはフランツ帝国を侵略しようなどという気はない」
「陛下、フランツがそんなことを受け入れるはずがありません」
「では、その時こそエラムに捕虜を売り渡すがよい。無駄飯を食わす必要もなくなり、戦費の足しになるであろう」
「陛下は戦いが避けられぬとお考えですか?」
「ああ、外務を担うお前としては、戦争がお前自身の敗北と考えるのも無理はない。だが、フランツはそこを弱点と見て突いてくるぞ。戦争も外交の一部だと考えるがよい。しょせん国と国との関係はそんなものだ」
「陛下、フランツは大国ですぞ。勝てるとお思いか?」
リブロが口を滑らせたが王は咎めなかった。しかし御前会議は議長の提案により休息に入った。
休息に入って直ぐ、私とジェニそれにソンブラは別室に呼び出された。そこには王とアイシャー、それに男装した若い女がいた。王の命で全員が座ると茶菓が運ばれてきた。
「お前たちに無理をかけているのはわかっている。だが今後の方針を一刻も早く決め、動き出させねばならぬのだ」
王はそう言うと若い女の方を振り返った。年齢は二十そこそこというところだろう。騎兵の軍服をまとい、茶色の髪を短く切っている。
「これはドミーナ、わしの娘だ」
それではこれがファルコと取り替えられ、神官長の娘として育てられたあの姫か。この人物がここにいるということは、第七夫人のエスペレスとファルコはどうなったのだろう?
「まだ公にはしていないが、この子と入れ替わっていた者とエスペレス、それに神官長は捕らえてある」
「処刑してしまえばよいのです」
ドミーナが吐き捨てるように言った。
「エスペレスはお前の実の母だぞ」
「私欲のためにあたしを捨てました」
「神官長に預けられていたのであろう。お前は母に対する人質だったのだ」
「ではあの女がファルコと淫欲にふけったのは何故なのです? 汚らわしいにもほどがあります」
聾桟敷に置かれ、何も知らされずに育ったせいもあるだろうが、この姫はよく考えずにものを言っているように見えた。うかつな言動をとれば自分が始末されてしまう可能性があると知らないのだろうか? 王族とはそういうものだ。
王は構わず私たちに告げた。
「疲れてはいるだろうがお前たちに新たな任務を与える。ドミーナをアシュ王の所まで送り届けてほしい」
本作品に登場する、人物、組織、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。
2014.04.19. 『トゥルキィ王国は』と『フランツ軍の通過を』の間の改行を削除。
マリンへ司令官の言葉『「フランツ本国から暗黒大陸を……』をかなり訂正。




