8.銀の旅、鉛の雨 ◆8の4◆
私は伍長に、ロマの少年が逃げ出そうとした場合直ちに射殺するよう指示し、これを他の兵にも徹底させるよう念を押した。少年は怯えたのかリブロにぴったりしがみついて離れなかった。
次の朝、朝霧が立ち込める中天幕が畳まれ、出立の準備が始まった。リブロはあの男の子と一緒に簡易天幕から這い出し、身体をボリボリ掻きながら不平を言った。
「クソッ! こいつのシラミに喰われた! かゆくてたまらん」
サトゥースが私の側で、ニャニャしながら小声で言った。
「まあ、そいつに一晩温めてもらったんだから、我慢するんだな。昨日の晩は冷えたことだし」
どうやら聞こえたらしくリブロが灰色の眉を釣り上げ、憎らし気な目つきでこちらの方を見た。サトゥースは知らんぷりして歩き去ったが、リブロは後に残された私をしばらくの間にらんでいた。
朝餉はトウモロコシの粥と干しブドウだった。サトゥースによると、朝早く兵を動かそうと思ったら温かい物を与えなければならないそうだ。この辺はまだ高地で、朝方は特に冷える。粥はどうかと思ったが、確かに身体は温まった。
これから海岸に出るまで、だらだらとした長い下りが続く。街道の側には王都から流れ出る渓流を主な水源とする川がほぼ並行して走っているので、飲み水に困ることはない。もう少し川幅が広ければ船を浮かべ海岸まで下ることができそうに思うが、途中いくつもある落差のある滝や狭い岩場の急流などが障害になり、それは不可能だった。
隊列は千を超える人数を考えればずいぶん素早く準備を終え、動き出した。サトゥースも出世したらしく、筆頭中隊長として大隊の統率に参加しており、その間サトゥース中隊の指揮は例のビゴデ軍曹がとっていた。
隊列の後ろの方から、早足で乱波のヴェルデが追いついてきたのは昼頃だった。無論奴は馬になぞ乗ってはいない。自前の足を使う方が馬に乗るより何倍も早いのだから、まあ当然だが。
「アイシャー様からの言伝てッス。ソンブラさんが例の黒幕らしい奴の動きをつかんだようで、まだ正体はわかりませんッスが、どうやら王都とラ・ポルトの間で何か仕掛けようとしているみたいッス。くれぐれも用心するようにとのお言葉でしたッス」
「わかった」
おいヴェルデ、早くしゃべろうとし過ぎて、語尾が何だか変なことになってるぞ! 続けてそう言おうとした私の言葉を聞く間も惜しんで、ヴェルデは駆け去っていった。
「あいつ、どうしたんだ?」
陽が少し昇ると気温が上がり道の表面の土が乾いてくる。そこを千頭もの馬が歩くと土埃がひどいことになる。ジェニは眼だけ残して顔をスカーフで覆っていた。その眼の上の眉がいぶかし気に釣り上げられていた。
「私たちの知らないところで何かが起こっているのです」
「どういうことだ?」
「姫様が、ライト様や私に知らせずに何かをなさっているのではないでしょうか?」
今までアイシャーが、ジェニや私を聾桟敷に置いて何かを進めるというようなことはなかった。ただアイシャーなら、それが必要だと考えれば、自分の右手のしていることを左手に悟らせずにおくことだってやってのけるに違いない。けれども、同じ思惑の中で正体も定かでない敵と一緒に戦ってきたつもりだった私にとって、この仕打ちは痛かった。
「それだけライト様を姫様が信用されているということだと思います」
「そうなのか?」
「いちいち相談せずとも、ライト様が姫様の期待される成果を実現されると思っているに違いありません」
それじゃあ私は腹の底までアイシャーに読まれているということではないか。情けないが、そんなところなのかもしれない。所詮私は、ジェニお前と、アイシャーの掌の上で転がされているということだな。
少し脱力しながら、私は尋ねた。
「で、リブロに押し付けたあの小僧だが」
「あれを助けに来るようなお人好しな相手だとは思っていないのでしょう?」
「そんなチョロイ奴らなわけないな」
「では、なぜ?」
「あいつはリブロに付けた重しなんだが、逆に言うとリブロもあの小僧にとっての重しだ。あいつがリブロのところから逃げ出すことがあれば、それは何かことが起こる前兆だと思う。リブロを見張ってさえいれば、あの小僧を見張らなくていいのさ。リブロが自分からこの隊列を離れようなんて、考えるはずがないからな」
「姫様が何も言われなくとも、ライト様は姫様と同じように考えるではありませんか。裏のない表はなく、表のない裏もありません」
「ああ、姫様の考えたこの大芝居のことか。一個大隊の護送部隊に守らせ、銀を運んでいるぞと大袈裟に知らせながら、王都からラ・ポルトまで練り歩いていくのだからな、馬鹿な話だと思っている奴がたくさんいるだろう」
「ギューク様もレオ様も、自分の大隊にやらせろとは言われませんでした」
「こんな雑用、王族が手を出すまでもないと思ったのだろう」
「アイシャー様はサトゥース隊長の中隊にしたと同じことを第三大隊にもしようと考えておられます」
「実戦の洗礼か? 戦える軍に仕立て上げようというのか? それとも第三大隊自体を姫様の私兵にしようという考えか?」
「リブロというあの男が同行を申し出たのも、それを疑ったからではないかと思います」
「姫様は王都だぞ」
「ここにはライト様がおられるではありませんか!」
軍事力を手にするということは諸刃の剣だ。確かに使い手はあるがその反面として自分を傷つける危険性を持っている。だが、アイシャーは欲しいと思ったものを手にするためなら、火の中に手を突っ込むことも恐れない。ただしその計略は深く、近くにいる者にも理解し切れないことがある。私はあんな女に、何で惚れてしまったのだろうか? おかげで私はアイシャーの走狗となって第三大隊を手の内にし、しかも戦える大隊に作りかえなければならない。
「それであの男の子を囮にして、ライト様は何を狙っているのですか?」
「ジェニ、お前の考えたとおりさ! 実戦! 実戦だ! つまりこの兵士たちに人殺しをさせるんだ」
ジェニは、それでこそ私のライト様です、などとは言わなかった。ジェニは言わなくてもいいことは決して言わない。そうだ、言う必要などなかった。
もし今日の朝、私がジェニの勧めどおりあの少年を始末していれば、ことはもう少し違った方向へ進んだだろう。しかし、ジェニは必要のないことは言わないのだ。
ジェニがあの時あの場であれほど過激な発言をしたのは、周りの反発を誘い、誰かに男の子の処刑を止めさせるためだった。結果としてリブロが助命を求めたのだが、別に他の誰でもよかった。
選択肢は三つ。一つ目はリブロが求めようとした無罪放免、これは兵士たちの緊張と民衆が持つ王家への畏怖の念を失わせる一番馬鹿げた方法だ。二つ目はジェニの助言に従って男の子を処刑する、秩序を保つのに効果的だし後腐れもない方法。最後が男の子を囮にして銀を手に入れようとする亡者たちを呼び込み、第三大隊の兵に人殺しの練習をさせるという、大変有意義な方法だ。
元々王家の銀を狙うなどという謀反人たちに助命の機会など与えられるはずもないから、これはつまり皆殺しということだ。理性ではわかっていたが、来るべき大量虐殺が自分の計画通り現実になりそうになると、私の心は決して穏やかではなかった。
本作品に登場する、人物、国家、民族等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。




