7.王の夢、王城の罠 ◆7の14◆
王が後宮にやって来たのは王都を取り巻く山塊が夕日に染まる頃だった。後宮の中ではすでに灯火が点され、ことにアイシャーの住まう陽光の間には影のできる場所がないほど多くの明かりが配置されていた。間もなく陽が落ち、王城の姿を下から見上げる者は、紅宮の最上階にあるアイシャーの住まいの硝子窓から、光があふれ出ているのを発見することだろう。
アイシャーが自らの居住する陽光の間の入り口まで出て王を出迎えると、機嫌よく王はそれをねぎらった。
アイシャーの客間に入るところでジェニが捧げ持つ銀の鉢で手をすすぐと、座る前に王は上着を脱いでしまった。これは今晩後宮に泊まるという合図であるので、すぐさま御錠口は閉ざされ鍵がかけられた。その音を聞いた他の夫人の召使たちは報告のため、あわててそれぞれの主人がいる下の階に走り降りていった。
明日からは後宮の中で何かが変わるのだろうが、そんなことはアイシャーにとって初めから興味のないことだった。彼女はもともと他の夫人たちのように誰かの勝利を期待してそれに賭けるのではなく、自ら競技者として戦いに参加することしか考えていなかったからだ。ただし競技にあたって、自分の利点である女としての魅力を隠すつもりなど毛頭なかった。
今夜のアイシャーは臙脂の中着の上にゆったりとしたエメラルド色のサリーをまとい、のど元には複雑な鎖細工で編み上げられた白金のチョーカーを着けていた。唇には紅を差し、眉を引き、眼の下に影をつけると、ただでさえ美しい容貌がくっきりと浮かび上がった。だが何より素晴らしいのは、気を付けないと吸い寄せられてしまいそうになる、巴旦杏型した眼の生き生きとした表情だった。
夕餉に出されたのは山海の珍味ではなく、バレと呼ばれる薄く焼いた丸い麺麭、トゥクパという野菜や茸とヤクの肉のスープに麺を入れたもの、何種類かのナッツと干した果物の入った甘いケーキ、それに珈琲という簡素なものだった。
王は並べられた料理を眺めると、
「うん、これでよい。交渉ごとは満腹ではできぬ」と、うなずいた。
陽光の間に付随した厨房では、王が要求したときのために豪勢な料理の用意がなされていたのであるが、アイシャーは無論一言もそれに触れなかった。
王が今晩、色事のためにアイシャーの住居を訪れたわけではないことは明白だった。驚いたことに私がその場に呼び寄せられ、リブロというあの男とともに相伴にあずかった。食事はそそくさと進められ、まるで戦闘食を口にしているようだった。
食器が片付けられるとジェニが茶を入れた。黒茶であったので茶器を湯で温めるとともに茶の葉を洗うため一煎目は捨てられ、二煎目が茶海に移された後、それぞれの茶杯に供された。
「この娘はどこでこのような作法を身につけたのだ? 聞けば馬を乗り回し、旅の途中で何人もの男を倒したというではないか。どんな無骨な女かと思えば、このような茶の淹れ方を心得ている」
「ジェニは黒蓮の離宮で妾と共に育ったのです。宮廷の一通りの作法は心得ております」
たぶんこの黒茶は何十年もの間保存された年代物で、同じ重さの銀の百倍以上の値がつく貴重な茶葉だろう。間違った淹れ方で台無しにしてよいものではない。
「お前が従えてきた者たちは意外な才を持つ者ばかりだな。リブロ、このライトという男をどう思う?」
それまで黙っていた文書管理官は顔を上げ、ためらうように王とアイシャーの方を見た。
「かまわぬ、思ったとおりを言うがよい」
王にうながされ、リブロは私のほうにまなざしを向けなおすと口を開いた。
「后妃様の前ですが王命ですのでお許しください。この身の見るところ、このライトという男は、よほどの馬鹿か大嘘つき、とてもこの場に置いてよい人物ではありませぬ」
これは、驚いた! しがない傭兵の身であるから王と同席すること自体身の程知らずということは心得ているが、嘘つき呼ばわりまでされるとは思わなかった。アイシャーの手前、黙って聞いているわけにもいかぬだろう。
「リブロ様、この私がどんな嘘をついたのでしょうか?」
文書管理官は私には直接答えず、王の方を見た。
「うむ、理由を説明せよ」
王の言葉にうなずくと再び私の方を見て言った。
「お前は一度も聞いたことのないはずの歌を知っていると言ったではないか。王室の記録を司るこの身に嘘をつくということは、宮廷を謀り欺く行為だと知るがよい」
その視線はウードを爪弾いて歌ったあの時は隠していたのだろう鋭いものだった。どうやらだまされたのは私の方だったようだ。
「嘘をついたと言われても、確かに知っているのだから仕方がない。何を根拠に私をそのように貶めるのだ?」
私も思わず言葉が荒くなった。
リブロは灰色になった短い顎鬚を引っ張って、私をにらんでから言った。
「では、あの歌の続き、三連目から後がどうなっているか言ってみるがいい。お前が本当に知っているのなら、説明できるはずだ」
嘲るように言い放ったその言葉に、私はいささかむっとした。でなければそのような挑戦に応じるようなまねをすることはなかっただろう。
「すべて完全に記憶しているわけではないのだから、多少の違いはあるだろうが思い出してみよう。それでよいだろうな!」
「やってみるがいい」
王の方を確かめることなくリブロが応えた。座興だと思ったのか、王もアイシャーもとめはしなかった。
立ち上がって私は唇を舌で湿し、声が震えないように努力してその歌の続きを口にした。
「光の中で生まれ
風に吹かれて老い
病の棘に苦しみ
暗闇で孤独に死を迎える
恋人の四つの顔を間近にして
それでも(お前は)逃れようと
抗い続けるだろう
初めての情交を怖れる 乙女のように
(お前は)闘牛士の振る
緋布に向かい
孤独な競技を
最後まで続けようとする
(あの)勇猛な牡牛のように
やがて 競技場に喇叭の音が響き渡り
倒された牛は
騾馬に引きずられて退場する
ああ 光は歩みを止めることができない
その時(お前は)失われる
まるで 初めから生まれてこなかった
かのように (もう、どこにもいない)
歩みを止めた光などというものが
ありえないと(お前は)知って いないのか
失うものの無い愛など (誰にとっても)
愛ではないと
恋人の抱擁で(お前が)血を流す時
知るだろう(お互いに)
勝利したのは 誰であるかを
疾く逃げよ 恐るべき勝者より
疾く逃げよ 残酷な恋人より
四つの鏡面で 光である(お前の)魂を
幽閉しようとする (お前の)恋人より
疾く逃げよ
人はなぜ物語に耳傾けるのか?
(己れの)死の陰より現れしもの
緋布の陰に隠された剣が与える
真実の祈りに跪き
最期を迎えることを望むのか
耳をふさぎ 疾く逃げよ
ただひたすら(己が)運命を生き
彼の者の歌から 逃れよ」
私が口を閉じて腰を下ろした時、リブロの顔色はひげと同じくらい灰色だった。ほんの少しの間に十年も歳を取ったように見えた。やがて深いため息をつくと、文書管理官は呟くように言った。
「そうか、あの五連目はそのように訳さなければならなかったのか……」
うーん、やっちまったなぁ。まあいいや、この場面次に続きます。




