7.王の夢、王城の罠 ◆7の13◆
白宮の最上階と紅宮の最上階は渡り廊下でつながれている。表向きの王の居住区である光明殿からアイシャーが住んでいる陽光の間へ移動するには、この渡り廊下を使わなければ十階層まで一度降り、再度三階層分階段を上る必要がある。ところがここ数年の間、この渡り廊下の紅宮側にある、美しい装飾がされているが重厚な扉には鍵がかけられ、閉鎖されていた。
御錠口と呼ばれるこの扉は、王が十三人の夫人のうち誰かと同衾する場合に、第一夫人の許しを得て開かれることに、建前上ではあるがなっている。名目上、第一夫人の座というものはそれほど重く、また王の子を産むことが夫人たちのいわば公務であるという理由から、第一夫人が王の情事をすべて管理するという不文律がそれを支持していた。つまり第一夫人のあずかり知らぬ所で王が子を成しても、それは庶子であり、公には認められない。ある意味では他の十二人の夫人たちの生殺与奪の権能を握っていると言っても過言ではない。
だが、夫人たちの生んだ王の子どもたちは今やすべて四歳以上であり、アイシャーの前に第一夫人を勤めていたフレヤによって、嫡出であると認められていた。従って、現在後宮に住むアイシャー以外の十一人の夫人たちが、表向きはどうあれ内心でアイシャーを軽んじていることに不思議はなかった。
ところがこの日、陽が昇ってしばらくすると表使いの者に知らせが入り、夕刻には王が後宮に御錠口から渡られることが告げられた。前回の陽光の間への訪問はお忍びであったが、今度は公に王がアイシャーの居室を訪れるというのである。後宮の中が騒然となったことは容易に想像できた。
私は王に命じられ、護衛官たちと一緒に先触れとして昼過ぎに後宮の十三階層に入った。今回は私も廊下で待機だろうと考え、その間どうしていたらよいのかと護衛官の一人に尋ねると、ジロッとにらまれ、呼ばれるまで窓から外の景色を眺めていろと言われた。
アイシャー以外の夫人たちは六階層から八階層の間に住まわっているので、その召使たちも普段は十階層より上に来ることなどまずありえないのだが、今日は何かと理由をつけて上の階に姿を見せ、様子をうかがっていた。
それを横目で見ながら、私は王城の最上階から見えるシューリアの眺望を堪能した。今日も晴れている王都の景色はまことに素晴らしい眺めであり、今回初めてここに来たことになっている私が見とれていても、誰も不審に思う者はなかった。だが、私の見ていたのはこの王都の、城塞都市として巧みに構築された姿だった。
城壁と言えるような高い壁などは無い。その役割は盆地の周囲をめぐる険しい山脈が果たしていた。キタイへ向かう道の守りは、狭い峡谷とそれを塞ぐ砦門である。海洋への出口であるラ・ポルトへ向かう道はやや広い谷間に向かうが、しばらく進んだところで道を横切る川が深い谷となり、その上を渡る橋の両側に砦門がある。この南へ向かう道は海に至るまでずっとトゥランの領土が続いている。西の二つの国へと続く道も同じように川を渡る橋とそれを挟んだ砦門によって守られている。南と西への二本の街道にほぼ沿って川が流れ下っているので、この街道を利用するものは水に困ることがない。
王都を囲む山脈の中の二つの水源から発し王都を横切って王城の背後で交差する川が、二本の街道に沿って流れる川に流れ込んでいる。この二つの川が、王都の主なる水源であり守りにもなっているのだ。
「この王都を攻め落とすのは、容易なことではなかろうな」
話しかけてきたのはウードという弦楽器を抱えた初老の男だった。ウードは五組の複弦と一本の単弦を張った、棹に柱を持たない楽器で、私はあまり好かないのだが、もの哀しい装飾音を出すことができる。この男は王の楽士か何かだろうか?
「攻め落とすなど、そんなことが出来るはずもありません」
「まあ、一度この王都を見れば、ほとんどの者があきらめような」
「私はライトと申し、近頃陛下にお取立ていただいた者です。失礼ですがあなた様は?」
「ははぁ、あなたがライト殿か。噂はいろいろと……。この身は陛下の文書管理官を勤める、リブロと申す」
「文書管理官……ですか?」
私は思わず男の手にした楽器を見直した。
「これかな? 古い資料の中には口伝に基づくものが少なくないのだよ」
「古いと言われると?」
「王室の祭儀に関わるものもその中にある。あるいは古い戦いや王都が作られた頃の記録もな」
「なるほど」
さっぱりわからなかった。
「どうした? この身に尋ねることはないのか?」
「尋ねてもよろしいのですか?」
「それがこの身の仕事だ」
「では、陛下がどうして私を召抱えられたのか、ご存知ならば教えてください」
「ふむ、では一曲歌ってやろう」
「えっ? 歌うのですか?」
「ああ、歌うぞ」
男は長衣のすそをたくし上げると床に座り込み、ウードを爪弾き始めた。この楽器は本来角製の撥を使うはずだが、男は五本の指の爪を使いかき鳴らして小さな音で旋律を生み出していった。
「疾く逃げよ
人はなぜ物語に耳傾けるのか?
(己れの)死の陰に怯えて
ひととき(己れ)そのものから
逃れようと
虚ろな(戦いの)快楽に身をまかせ
どこにもいない恋人の抱擁に
心をゆだねるのか? 」
小さなもの哀しい声で、特に『己れの』とか『戦いの』とかいうところは細く高い裏声を使う、陰気くさい歌だった。
「疾く逃げよ
やがて歳月が過ぎ
(お前が)疲れ果てて脚を止め
(己れと)同じ顔した敵に
追いつかれるまで 走り続けよ
その時(お前は)知るだろう
抱擁と接吻を 四つの顔を持つ恋人の
愛の一撃を 」
「えっ、いや、待て! その歌はどこかで聞いたことがある……」
「そうか……まあ、比較的新しい歌だ」
リブロは演奏をやめ、興味深そうに私を見た。
「新しいとは、どのくらい?」
「書いたのは三百年ほど昔のダンテ・デ・レアという詩人さ。古典語ではなく口語で詩を書いて歴史に名を残した男だ」
「その名は知らない……な」
「三百年もすればたいていの人間は忘れられる。このレアという男だって、単に人々の間に伝わる歌を紙に書き残しただけかもしれん。紙も当時は今より高価だったはずだし、単に字が書けるというだけでその頃は学者と見られたのだろう。それこそ、この曲の題名は
『物語歌いの秘密の物語歌』というのだからな。文字になったのが三百年前でも、本当はもっと古い歌なのかもしれん」
「文字になっているのに、あんたは歌うのか?」
「それが仕事だからな」




