7.王の夢、王城の罠 ◆7の5◆
元第一夫人のフレヤが後宮を去り、コデン王の妻である妃嬪の地位にある女性は十二人になった。その中でアイシャーは最年少であるが、王は彼女を十二人の筆頭である后妃の座につけた。元よりアイシャーは、年齢や後宮で過ごした年月などを理由に他の夫人たちに遠慮するようなしおらしい性格ではない。輿入れの儀の前に一度後宮に足を運び、十二人の女たちに挨拶して廻ったが、后妃の地位に就いた今は後宮の差配を誰かに譲ったり頼ったりするつもりなど無かった。
彼女は自分の居室として紅宮の最上階にある『陽光の間』を選んだ。ここは王宮の東側にあり、南と東の二方向の窓が全面ガラス張りになっているため日の出から日没まで太陽の光が入る。窓は二重張りのガラスであるが、その内側に幅六尺の通路があり、さらに通路の内側の壁もガラス張りの障壁である。アイシャーの居住する区画は南と東側をこのガラスの障壁に、北と西側を石の壁に囲まれた中にあった。客間も居間も寝所もガラス張りの壁で仕切られており、人の目や光を遮ることが必要な場合はその区画の障壁にそって緞帳をめぐらすようになっていた。実際、一番西側の奥にあるアイシャーの浴室でさえ、東と南の二方向はガラス張りで、その中に据えられた大きな磁器の浴槽まで丸見えだった。
この浴槽もアイシャーがキタイから事前に届けさせた物であり、これだけの大きさの無傷の磁器となると、同じ重量の銀よりも高価であろうと言われていた。
「この『陽光の間』はわしの母上が使っていたのだが、あれ以来もう三十年以上の間住まう者もいないままだった……」
コデン王は出迎えたアイシャーに向かってそう言った。
「どうしてでございましょう? こんなにも明るく、眺望も素晴らしゅうございますのに!」
「まだ若いお前にはそう思えるかもしれぬが、輿の入る傾斜路も十階層までしか達しておらぬし、大体ここまで上がってくるのは何かと不便であろう」
紅宮に隣接してというよりその周囲に白宮が建設された時、北側の壁の内側に沿って階層ごとに折り返す長い緩勾配の傾斜路が設けられた。幅九尺のその通路を利用して、王宮の各階層へ必要な物資が搬入され、人も行き来していた。勿論この他の場所に階段などが設けられてはいたが、二千を超えると思われる部屋が存在する王宮内の流通を支えているのが、この傾斜路だった。
「そもそも王城に入るのにはまず、この城が建つ岩山の坂道を登らねばならんのだ。そこからさらに十三階層も昇ったこの場所で暮らそうなどと考えるのは、よほどの変わり者であろう」
牛馬を傾斜路に入れることは禁じられていた。妃嬪の地位にある十二人にだけ許される特権として傾斜路を輿に乗ったまま通ることができたが、その度に王の許可が必要であった。それ以外はどんな高位の人物でも、急な階段を利用するか、この長い傾斜路を歩いて登って来るしかなかったのだ。
「では、陛下のご母堂様がこの『陽光の間』を作らせ、住まわれたのは……?」
王はしばらくアイシャーの顔を見つめてから頷いた。
「お前がここを選んだのと同じだ。自らの胎内に陽の気を取り入れようとされたのだ」
「ご母堂様は陛下を成されてから、どれほどの間ご存命だったのでございますか?」
アイシャーがその問を口にするまで、かなり間があった。
「母上が逝かれたのは、わしが三十路を越えてすぐだった」
「では……」
「うむ、お前がわしの子を成しても、ここに住まう限り儚くなることは無いであろう」
王とアイシャーは立ち尽くしたままお互いを見つめ合っていた。王の眼差しはあくまで冷厳で、かすかにだが艶っぽいものを浮かべるアイシャーとは対照的だった。
「ご母堂様の神巫としての才はどうだったのでございますか?」
「わしが一歳を過ぎた頃から徐々に回復したということだ。物心ついてからわしに覡の技を教え導いたのは母上だ」
「では」と、ためらい勝ちに、僅かに恐れを漂わせて、アイシャーが尋ねた。「陛下は妾と子を成すおつもりがありましょうか?」
王は口角をピクリと吊り上げ、小さく吐き捨てるように答えた。
「馬鹿な! 大人になった男は自分の母と寝たいとなど、望まぬものだ」
ふふん、と鼻で笑った王は振り向くと軽く手を打ち合わせ、「これまでだ」と言うと、窓側の通路で待っていた護衛の者たちを従え、足早に歩き去って行った。
「ライト、出て参れ」
アイシャーが私にそう呼びかけたのは、それからさらにしばらくたってからだった。
「そこからよく見えたであろう。どう思う?」
「いったい姫様は、私にこのような命の縮む思いをさせ、何を考えているのですか?」
私が隠れていたのは隣室にアイシャーが設置した天井まで届く鏡の陰だった。この『陽光の間』を区切る障壁は、すべて透明なガラスがはめ込まれており、どの部屋も通路から見通すことができる。護衛たちが通路で待機することにためらいを見せなかったのはそのためだ。応接の間にもその隣室にもさらにその奥の間にも、王とアイシャーの他には猫一匹いない、そのように見えたのだ。
だがその大きな鏡が隣室の奥行を見誤らせ、私が潜んでいた鏡の陰の空間に気づかせなかった。
「間男になった気分はどうじゃ? ハラハラ、ドキドキするであろう」
「石打の刑と、腹わたを引きずり出されるのと、蠍牢と、どれが一番楽な死に方かと思案しておりました」
「嘘をつくな、お前が妾に惚れておるのは知っておる。もっと楽しいことを考えておったであろう」
すべてお見通しだという目つきでアイシャーが言った。まあ、そうかな?
「陛下は内丹の法にも通じているようじゃ。陰陽の理と房中術も心得ていよう。悔しいが妾の誘いにも心動かされる様子が無かった。せっかく女官たちを遠ざけておいたのに」
「護衛官が通路から見ていたせいでは?」
「はっ、陛下がそのようなことを気にすると思うか!」
王様というのは、かなり図太くないと務まらないのだろうな。私には無理だ。
「アイシャー様は陛下との間に子を成すおつもりで?」
「悩ましいところじゃな。命永らえることができるならば、それも悪くないと思ったのじゃが、一年以上も力が衰えるとなるとそう簡単にはゆかぬ。その間何があっても対処できるだけの別の力を持ってからでなければ……」
「別の力と言うと……」
「人脈、政治力、武力……銀の力だけでは足りぬ」
「姫様がサトゥースを手懐けておられるのはそのためですな」
「お前もな」
それは当然だろう。アイシャーが私に惚れているとは私も思っていない。
「それで姫様は私にこのようなことをさせて、何を望んでおいでですか?」
成り行きしだいで私は、鏡と鏡の隙間からアイシャーと王の情事を覗き見る羽目になったかもしれないのだ。
「陛下は一筋縄ではいかぬ御仁じゃ。それゆえお前に、陛下を動かす梃子の役割を果たしてもらおうと思う」
「釣り針の間違いでは!」
2014.04.17. 『2千』 → 『二千』 に訂正しました。




