7.王の夢、王城の罠 ◆7の3◆
コデン王にはすでに十二人の妻がいた。アイシャーの説明によれば、キタイの呼び方で妃と嬪にあたる女たちだ。王はアイシャーにその一番上位にあたる后妃の地位を与えた。単なる条約の質に過ぎないはずのアイシャーには過分の待遇だと言える。
建前上アイシャーはキタイ帝室の血を統く公主であるため、後宮の女官たちの頂点に立つこの地位についてもおかしくはない。だが本当のところ彼女はキタイ現皇帝にとっては傍系でしかなく、公主であれば帝室から化粧領として拝領するはずの土地をキタイのどこにも持っていなかった。しかし、アイシャーが持参した莫大な財物のことが知れ渡ると、そんなことは誰も気にしなくなった。
トゥラン側にも、自分たちが国交を持っているカラ・キタイが、キタイ大帝国の単なる一行政区あるいは衛星国家でしかないということを認めるわけにはいかなかったという事情がある。このため、カラ・キタイの次期国王の娘であるアイシャーを公主として遇することは、トゥランにとっての国益でもあったのだ。
砂漠を挟んでいるためあまり軍事的な圧力を感じないカラ・キタイとの経済的な同盟関係を内外に誇示することに利がある、その点をコデン王が考慮したのだろうというのが、サトゥースの考えだった。
「今まで第一夫人だった最年長のフレヤ様はどうされるのですか?」
「王に暇を乞うて宮廷を去ることにしたらしい。もういい加減な歳だし、王女しか生んでいないから、発言権も低下する一方なのだろう」
ジェニの質問に答えたのはアイシャーだった。もっともそんな問いにサトゥースや私が答えられるはずがない。
王には十二人の妻が生んだ子の中に王子が七人おり、そのうち四人はすでに成人していた。トゥランでは男子は十六歳で大人と見られるが、最年長の王子は二十八歳にもなっていた。ただし、どの王子も継子として立太子されておらず、年長の四人の間では誰が先んじるかの競争が続いていた。それが権力闘争にならないのは、現国王が、髪や髭が白くなっていても少しも衰えない精力で政務にあたっているからだ。また、もし宮廷内で争っていると王に見られでもしたら、たちまち排除されてしまうだろうと思わせるだけの苛烈さがコデン王にはあった。
最年長の王子であるギュークが後継者としていまだ認められていないのには、理由がいくつかある。まず母親があまり有力な家の出ではなかったこと、これと多少の関わりもあることだが、国家の祭儀に必要な覡の役割にこの王子がまったく興味を示さなかったことである。トゥランの王は軍事や政務だけでなく、霊的にも国を守る義務があった。それはトゥランの周辺に存在するいくつかの国が、幾度も超自然的な方法でトゥランの中枢に干渉しようとしてきた歴史的な経過がもたらした結果だった。しかしギュークの関心は軍事に偏っており、その軍事に関わる政務にも多少興味を持つという程度だった。
王都に常駐する騎兵の三つの千人隊のうち一つの隊長であるギュークは、母親のドレゲーネに王の霊的役割を教えられずに育った。身分の低い出自のため、ドレゲーネ自身が宮廷の祭儀の内実についてよく知らず、形式的なものだと思っていたからである。
後年になってドレゲーネがその真実と重要性に気づいた頃には、ギュークは霊的存在などに関心を持たない少年として成長してしまっていた。
ある年齢に達した男の子は、母親の意見など聞かないばかりかその真逆な行動をとりたがる。その頃になってドレゲーネがいくらギュークを説得しようとしても、彼の内面を変えるなど無理な話だった。
結局ギュークは母親の期待に背き、軍人としてはそこそこでも、トゥランの王という役割を果たせるとは誰にも認められそうもない男になってしまった。王の第三夫人ドレゲーネが病に倒れ、失意のうちに亡くなったのも、息子を王としてふさわしく育てることができなかったという自責の念によるのではないかと噂されていた。
コデン王がアイシャーを后妃の地位に据えたのも、この問題の解決策を模索してのことかもしれないとアイシャーは言った。明らかにアイシャーには神巫の素養がある。トゥランの祭祀について学べば、王権の霊的な部分を自分が担うことも可能だろうと言うのだ。
王に万が一のことが起こった際、ギュークが形式だけでもアイシャーの下につくことを受け入れれば、アイシャーが祭祀の面を、ギュークが軍事と政務面を、それぞれ司るという形で国をまとめることができる。そのためには、アイシャーが後宮でも第一の地位を占めている必要があった。
「陛下はどういうお人柄なのですか? 臣民はこの婚儀についてどう思っているのでしょう?」
ジェニが尋ねる。
輿入れの儀が盛大に行われたとは言ってもそれは宮廷内の儀式で、アイシャーが直接民の前に姿を現すことはない。せいぜい城下の広場に祝いの旗や掛物が飾られ、寺院を通して貧民に喜捨として食べ物が配られ、告げ知らせの役人が辻角で自分でも見たことのない后妃の美しさ情深さについて大声で告知して回るだけだ。
「婚儀の晩に臥所を共にしただけで、あとは昼に何度か話しに来られただけじゃ。あれは、今更妾に子を生させることは面倒の元と考えているのだろうな。妾の手管にも一向反応を示さぬ。手強いお方じゃ」
アイシャーにそこまで言わせるとは……まあ、私などを比較の対象とするのが間違っているのだろうな。
「どうしたライト、妬いておるのか? 妾を攫っていくだけの甲斐性がお前にあるのかな?」
ふふっと、鼻で笑われてしまった。
「なんならその役目、某が承りましょうか?」
ソンブラまでが何故この場にいるかというと、アイシャーが召集をかけたからだ。ここは白宮の一室、応接や会議のために必要に応じて使うことができる控えの間付きの大部屋である。
王城の中なら、アイシャーは比較的自由に動き回ることができる。無論一人ではなく、王がアイシャー付きに任じた女官を付き従えてだが。その中年の女官は控えの間で長椅子に座り、何故か天井を見上げてぼーっとしていた。おおかたアイシャーかジェニが何かしたのだろう。
「間男は砂漠の戒律では石打の刑じゃなかったか?」
ソンブラを見下すようにサトゥースが言った。
「某の記憶では、公衆の面前で生きたまま腹わたを引きずり出すはずですが」
まあ、蛙の面に何とやらだな。
「宮廷に関わる者の処刑に直接手を下すことは禁忌のようじゃぞ。殺生戒という掟でな、昔の信仰の名残りらしいが……」
それで自分たちの手を汚さず、蠍に殺させるわけか。
「先ほどジェニが尋ねたことだが、妾も知りたい。民が妾のことをどう思っているか、これは乱波の仕事じゃろう」
「私がヴェルデに伝えておきましょう」
さすがに乱波の者を王宮に入れることはできなかった。彼らとの繋ぎは私の役割にされている。
「言うまでもないが、目立たぬよう、余計な口出しはせぬよう、釘を刺しておけ。実情を知るだけでよい。これは当座の資金として渡しておけ」
アイシャーはそう言ってテーブルの上に重そうな小袋を押してよこした。
「交易銀ですか?」
「いや、すべてデナリ銀貨じゃ。クィナではまだ目立ちすぎる。かと言ってアスではかさ張りすぎる」
クィナはデナリ小銀貨の二倍の重さがある銀貨、アスは十二枚で一デナリとなる青銅貨だ。まあ通常民衆が売り買いに使うのは、アスとウンキアという銅貨、それにセムンキアという小銅貨だ。ウンキアはアスの十二分の一、セムンキアはさらにその半分の価値である。
ちなみに交易銀はキタイが交易専用に鋳造した貨幣で、キタイ国内では流通していないそうだ。キタイで使われているのは、五銖銭と呼ばれる銅貨と紙の金なのだという。
無尽蔵に湧き出てくるように思われるアイシャーの銀の出処が、私には気になる。ひょっとして、アイシャーはこの銀でトゥランというこの国を買い占めるつもりではなかろうか?




