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4.朝と昼と晩と          ◆4の6◆

「魔導の用いる結界は、厄介なものじゃ。よほど小さな箱のようなものであれば、その中をまるまる術者の気で満たすこともできようが、ある程度以上の大きさの範囲でそんなことをしようものなら、たちまち気が枯渇してしまう。だから内と外の境目に気を極小の薄さで張り、結界とするのじゃが、それゆえ一度結界を張ってしまうと、その大きさや形を変えるのは容易なことではない。また結界は、それを張る時に一番気力を必要とし、維持するのに比べ、何十倍もの気力がいる。張られている結界を破るのにも、それを守るよりはるかに多くの気が必要じゃ。それゆえ結界を張ってしまえば、守る方が百倍も有利だと思っていたのだが……妾が浅はかであった……いや、さすがモルと言うべきか。あの幽鬼ラクシャを捨て駒とすることで、妾の思い込みを逆手に取ったのじゃな……」

 アイシャーの口ぶりには危機感よりモルに対する感嘆の方が強く感じられた。同じ魔導の才を持つ者同士、共感するものがあるのだろう。


「今、あんたの結界はモルに対して役に立たないということか!」

「妾を倒す前に、奴が結界を越えて出入りしようとでもしない限りはな」

「姫様申し訳ありません。我らハサスの不手際です」


 アイシャーはジェニの謝罪を認めなかった。

「何を言う、魔導に関わることなのだから、見抜けなかった妾の責任じゃ。妾の思い上がりのせいじゃ」

「でもモルが前へすり抜ける隙を作ったのは我らです。あの時もし……」


「責任の引受合いは後にしてくれ。それより、モルが次にどんな手を打ってくるか知りたい!」

「極端に言えば何でもできると言ってよい。魔導ではやつに二百年近く先んじられているのだからな。次に打ってくる手はいくらでもあろうよ」

「逆に我々が打てる手は?」

「奴の身体を見つけることだな。前に言ったように、奴の本体は脆弱だ。そして奴に貼り付いているだろうもう一人の幽鬼ラクシャを引き剥がし、本体を押さえる。これで王手じゃ」

「言うは易く行うは難し……だな。見つけるだけでも大ごとなのに、幽鬼ラクシャまでいるとなると」


戦闘言語リンガ・デ・ルチャが……」

 ジェニがよろめいて壁に手をついた。

「ジェニ! どうしたのじゃ?」

「ハサスの者たちの声が見えません! いえ、聞こえません!」

 階下ででドサツという音がした。上から見下ろすとエディが階段の下で倒れていた。

「ジェニ! 臭いもなのか?」

「は、はい。臭わないというより、何もかもが、一緒くたになっていて、わけが、わかりません」

 恐慌きょうこうにとらわれまいと、ジェニが四苦八苦している姿が目の前にあった。


「モルの仕業しわざじゃ。ハサスの者にとっては、五感をすべて奪われたも同然じゃな」

気だるげにアイシャーが言う。

「ジェニ、ジェニ、気をしっかり持て」私はジェニの肩を揺すぶった。

 だが彼女は、立っているのもやっとというありさまだった。


「無念じゃ……最早モルの前にひれ伏すしか無いのか……いや……、それくらいならばいっそ妾は……」

アイシャーの口が、だんだん重たげになってきた。

 

「アイシャー、アイシャー!」耳元で叫んだ。「アイシャー、君もしっかりしろ! ジェニはまだ立っているぞ! 君も自分の足で立ち、踏みとどまれ! まだ誰も死んではいない! 生きている限り戦うんだ! 生きている方がいいだろう!」


「ライト! 今なんと言った?」

「死にたくないだろう! 生きている方がいいだろう!」

「そうなのか? 妾は、生きている方がいいのか?」

「当たり前だろう。 死んでいる方がいいなんて、誰がいったんだ?」

「誰だろう……? 誰が言ったのであろうか?」

 アイシャーはまだ、戸惑っていた。

「モルか? モルなのか?」

「いや違う、それなら妾はすぐ気づいたはずじゃ……」

一転してアイシャーの不思議な瞳は澄み切り、深い思いに沈んでいきそうになった。

「そうじゃ……それを言ったのは『彼』じゃ……聞いたのは古のウルの詩人マルドロナ。詩人はそれを粘土板に刻んだのじゃ」

「わけのわからないことを言ってないで、今は生きることを考えてくれ!」


「うむ、大丈夫じゃ。お前のおかげで、モルが妾にしゅをかけようとして、何を糸口に選んだか、わかった」

「糸口?」

「八年前のある夜、妾はモルに、その詩の話をしたのじゃ。あの頃から妾は見栄っ張りであった。父の書庫で見つけた碑文のうつしを、あ奴に見せたのじゃ。モルは、楔形の文字で記された詩を、幼い妾が読み解いたことに感嘆して見せた。あの時すでに奴は、八年後の今日を見通してしゅを妾にかけたのじゃ!」

 魔道士同士の駆け引きというのは何重にも入組んでいる上に気が長すぎて、私にはついていけそうもなかった。


「どうしてモルはここにやって来ないのだ? ハサスだけでなく、乱破も竜騎兵たちも無力化されているに違いないのに……! まだ何か、誰か、残っているのだろうか?」

 アイシャーが呟いた。

「ジェニはまだ持ちこたえている」

「ジェニはバガ、即ちテルミヌスじゃからな。終端にして同時に起点、アルファでありオメガ。他のハサスは常に互とつながっているが、ジェニはつながっていながら唯一、最も端にいる。巫女であるというのはそういうことなのじゃ。だからこそジェニは、他のハサスとつながっていない孤独に耐えられるのじゃ」

「それではジェニが持ちこたえている間は、モルも用心して姿を現さないのでは?」

「なるほど、そうかもしれぬ……。しかしそれも、そう長いことではない。あ奴の力が最も高まる夜半過ぎから一刻までの間には、あ奴は己のひつぎからい出して来るはずじゃ」

「何かできることは無いのか?」


「ジェニを抱きしめてやれ。そして、お前は一人ではないと、言ってやるのじゃ。ジェニは今、暗闇の中にいる。見えず、聞こえず、臭いも無い、その牢獄から、ジェニを引っ張り出してやれるのはライト、お前だけじゃ。ジェニはお前に触れたことがある。お前の感触を覚えているはずじゃ」


 私の手と身体は、確かにジェニの感触を覚えていた。ジェニを抱いてみると、それがわかった。

 ジェニは覚えているだろうか? 私が腕をまわしたこの背、私が撫でたこの髪、私が接吻くちづけしたこの首筋、私が覚えている全てに応えたことを、君は覚えているかジェニ?


「ライト様……?」


「戻って、来たのか?」


「はい。でも……孤独ひとりは……寒いです」


 私はもう一度、ジェニを抱きしめた。



 突然扉が開いた。そこから駆け込んできた男が、床に倒れていたエディにつまずいて転んだ。

「ひゃー、ここにも人が倒れてる!」

「ヴェルデ! お前、なんで眠らずにいられるんだ?」

 ヴェルデは口をポカンと開けて、階段の上にいる私たちを見上げた。


「そ、それを言うなら、他のみんなが倒れているのがおかしいんじゃないですかい?」


「なるほど。そうとも言えるな」

「そ、そうだよ。あ、あんたたちだって起きてるわけだし」

「もっともな言い分だ」

 下手に相槌を打つと、そいつは調子にのるぞ、アイシャー。


「死んでると最初思ったんだが、よく見ると息をしてた。でも死んでなくとも、村の連中や兵隊たちがみんな眠ってるってのも変だろう。だから俺は心配して、ずっとこのあたりを、調べてたのさ」

「調べた?」

「い、いやぁ、別に何にも盗っちゃあいないぜ。調べただけさ」


「この者だけ、どうして動き回れるのでしょう? アイシャー様」

「この男の頭に載っている金属の輪のせいではないかと思う」

「へっ、これですかい?」

「外すでない!」

 アイシャーが大声で止めた。ヴェルデは頭に上げかけた手を、あわてて下ろした。

魔夢オネイロのような伝達系の術を防ぐため、金属の輪を頭にはめるというやり方がある。その輪が魔夢オネイロの力を弱めたのだろう」


「そうだ! ライトの旦那、変な物見つけたんだよ」

「変な物?」

「ああ、村の一番端にある納屋の中さ。でっかい馬車があって、妙な匂いがするんだ。何が変だって、その馬車は人が乗るような形をしているくせに、窓が一つも無いのさ」

 それを聞いたアイシャーがポツリと言った。

「それはモルの馬車じゃ」


「ご存知なのですか?」

「その馬車の中に大きな箱があり、香木の鉋屑かんなくずで満たされている。その鉋屑かんなくずに埋もれて、あ奴の眠る棺箱が入っているのだよ。八年前、あ奴はその馬車で毎晩通って来た」

「モルの側には幽鬼ラクシャがいたはずですが、どうしてヴェルデを見逃したのでしょう?」

「あ、いたいた! 怖そうな奴がいたんで、大急ぎで逃げ出して来たんだ」

「おそらく、おとりだと思われたのだろう。馬車から引き離され、その隙にモルが襲われてはと、幽鬼ラクシャが警戒したのだろう」

「俺の足でなければ、捕まっていただろうな」


「お前、足は速いのか?」

 アイシャーがヴェルデに尋ねた。

「確かに馬並みに走れるな」

「馬より俺の方が速いって!」

「では、お前に頼みがある」

「何をしろって言うんです?」

「鬼ごっこじゃ」

「この男をおとりにするのか?」

「いや、ライト、おとりはお前じゃ」



 村外れにある納屋の近くまでたどり着いたのは、間もなく夜半になろうという頃だった。あたりに人影はなく、虫の声だけが聞こえていた。星明りで辺りはうっすらと明るい。

 私は銃を構え、すぐに銃弾を撃ち込んだ。ダーン。銃声が響き渡ると、虫の声がぴたっと止んだ。次の瞬間、納屋の扉が内側から弾け飛んだ。


 幽鬼ラクシャが現れた。私は次弾を装填すると、直ちに発砲した。ダーン。

 やはり幽鬼ラクシャは射線を避けて横に跳び、そこから向かって来た。彼我の間は二百尺ほど、私の射撃の最大距離だ。その半ばまで幽鬼ラクシャが来たとき、私は三発目を撃った。ダーン。


 その銃声に紛れてヴェルデが走り出した。両手にアイシャーが預けた透明なガラス瓶を持っていた。そして幽鬼ラクシャが振り返った瞬間には、その瓶を納屋の中に投げ込んでいた。ガシャン、ガシャンと、ほぼ同時に二本の瓶が割れた。その時もう、ヴェルデは一目散に逃げ出していた。


 幽鬼ラクシャが私とヴェルデ、どちらを追おうかと迷いを見せたその時、続けざまに三本の火矢が納屋の中に射込まれた。シューン、シューン、シューン。

 ボッ。納屋の中が燃え上がる炎で明るくなった。馬車に降りかかった油液が発火したのだ。あっという間に火がめぐり、馬車は炎に包まれた。


 あわてて納屋に飛び込んだ幽鬼ラクシャが馬車の扉を開けようとする姿が、炎に照らし出された。幽鬼ラクシャの体にも火が覆いかぶさろうとしていた。


 馬車の頑丈な作りが災いして、馬車の扉が開くまでにはかなり時間がかかった。火達磨になった幽鬼ラクシャが、馬車の中からモルの棺箱を引き出した時には、その棺箱自体にも火が回っていた。川は村の向こう側であり、近くには水の入っている桶さえ無かった。

すいません、すいません。一時間遅れで投稿します。で、迷いましたが推敲無しです。今の今まで書いてました。で、モル様火達磨で登場です、まだお棺のなかだけど……。なんてひどい!!

 

 それで、文中でアイシャーが自慢げにモルに示した詩というのは、Merritさんの作品に出てくるあれを想定しています。

 "But best is ne'er ……" というあれです。

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