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1.夢より深き覚醒         ◆1の2◆

 夕方までに浴場で身を清め、家に戻って髭を整えた。いつもよりも身だしなみに時間をかけ、ジュガダイの邸に向かった。旅の最中はとてもこんなことはしていられないが、出発前に顔を合わせる時ぐらいは礼儀を守った姿を見せておいた方がよかろう。なにしろ貴人というのが、砂漠の向こう、キタイの国の姫君だというのだから。

 ジュガダイの邸の玄関を入ると、召使が銀の器を捧げ持っていた。その中の花弁を浮かべた水で手を洗い、差し出された布巾で手を拭くと、私はジュガダイがいつも客をもてなしている広間に入った。

 そこにはすでに主客である姫君と護衛隊長らしき男がいくつかのクッションにもたれて座っていた。姫君の後ろには侍女らしき少女と褐色の肌をした男が控えていた。髭の無いことから考えれば、こちらの男は宦官かんがんというやつだろう。

 だが見くびってはならない。一尺余の曲刀を腰に帯びるその男には、ただ立っているだけなのに隙が無かった。この男と戦うはめになったなら、私には刀剣ではなく銃が必要だ。

 主人であるジュガダイがまだその場に居ないので、私が刻限に遅れたわけではない。まあこのような町では、王都から来た護衛隊長やキタイの姫君にとってさして他に興味をひくようなことも無かろうから、ちょっと早めに宴席にやって来たのだと思う。

 私が下座に腰を下ろすのを待っていたようにジュガダイが部屋に入って来た。客の方が早く来てしまったとはいえ、主人としてもういい加減待たせたと感じていたのだろう。


「この貧しき天幕を訪れ、私めに誉れを与えて下さいました皆様。キタイに花開く黒蓮ブラックロータスの離宮に住まわれる姫君。王都からはるばるこの地まで、その武名轟くサトゥース隊長殿。そして名声高き冒険者レンジャーであるライト殿。

今宵は我が家のすべてを捧げておもてなし申し上げます。ご希望があればなんなりとお申し付けください」


 最初の挨拶もやけに略式だ。さっそくに料理の皿が運ばれてくる。

仔羊に米を詰めてグリルしたカウジィ。ブドウの葉にサフランで染めた香米や肉を挟んだドゥルマ。フムスと呼ばれるひよこ豆のペースト。胡瓜や挽き割り小麦のサラダ。小麦粉を練って伸ばした薄い皮に様々な具を詰めた揚げ物。刻んだナツメヤシを混ぜた卵焼き。レンズ豆と鶏肉の煮込み。アーモンドやイチジクを練りこんだ焼き菓子。添えてあるシロップをつけて食べる揚げ菓子。果汁を混ぜたヨーグルト飲料。山羊の乳で煮込んだチャイ。甘く淹れられたコーヒー。レモン汁と混ぜた水牛の乳。水で薄めて冷やした果汁。等々。

 砂漠の戒律に従って葡萄酒は出されなかった。


 雇われた楽師達が胡弓と横笛と丸くて薄い太鼓で、聞いたことのないゆっくりとした曲を奏でた。護衛隊長のサトゥースはいかにももっともらしくジュガダイと姫君に頷きかけると、祝儀として数枚の銀貨を楽師達に投げ与えた。


「この者達もなかなかの技で聞かせましたが、宮廷の楽師とは比べ物になりませぬ。一日も早く出立し、王都に参りましょう」


 祝儀を与えたのはあくまで主人であるジュガダイの顔を立てたのだということを隠さず、サトゥースが姫君にかけた言葉を聞いて、私は奇異なものを感じた。

 もしかしてこの姫君、何か理由をつけて出立を先延ばしにしようとしているのか? 出る前から厄介事じゃないか、ジュガダイ。どうしてくれる。

 こんなことなら今夜ここに来るよりも、どこかで酒の甕を抱えてひっそりと飲んだくれている方が良かった。街の周囲には葡萄園があり、そこで仕込まれた酒を街に持ち込む時には、門を守る兵士にいくばくかの賄賂を渡さなければならない。しかしちょっとした悪徳というやつは、人の世に絶えることがない。


 そもそも、この依頼を受けるべきではなかったのだろう。まあ私ほどの実績を持つ傭兵が今この町に居なかったので、必然的に声がかかったのだろうが、私にとっては悪運と言うべきだ。


「陛下がそれほどわらわのことを待ちかねているとは、思っておりませぬ。隊長殿」

「姫様を一目ご覧になれば、陛下はたちまちご寵愛を賜りましょう」

「妾は所詮協定の質として陛下の元に送られるに過ぎませぬ。後宮に納められた後、お目通りが叶ったとしてどんな扱いをしていただけるのでしょう。確か三番目の方は病で亡くなったと聞いておりますが、それを除いても陛下には十二人の奥様がいらっしゃいます。はたして、妾をその行列の最後に付け加えて下さるのでしょうか? そうなったとして、そのとき妾は第十四夫人ということになるのですか? それとも繰り上げて第十三夫人…?」


 微笑を浮かべながら、せいぜい十五・六としか見えない姫君は、酷いもの言いをする。まあこの国でもキタイでも、女は十四になれば結婚することができるのだが。


「馬車を含めて、すべて用意は整っております。明朝にでも出立は可能です。私の受けている命令は『速やかに』姫君を王都まで送り届けるべし、となっております」


 では、何を躊躇ためらっているのだサトゥース? さっさと片付けてしまおうではないか。姫君とお前が無事王都に辿り着きさえすれば、私はお役御免で首が繋がり、報奨金も手に入れられるというものだ。


「妾は十日も駱駝の背に揺られて砂漠を越えて来たのだぞ。疲れをとる為、数日この町に滞在するぐらい当たり前ではないか。のう、ライト殿」


 笑いを浮かべながら話を逸らす姿は、見かけの年頃にはそぐわない、したたかなものだった。よいのか、姫君も? この護衛隊長は、まず間違いなく外務か内務のいずれかを司る大臣の息がかかっているぞ。姫君の言動は必ず事細かに報告される。彼等にとって、新たに後宮に入る姫君の人柄は決して些細なことではない。


「おや、妾のことを心配してくれるのか? 優しいことだな、ライト殿。だが気遣いには及ばぬ。誰にも妾に不都合なことを言ったり為したりすることはできぬよ」


姫君が私の方へ眼をやった。すると突然、私の心に何者かが入り込み縛ろうとしているように感じた。護衛隊長の顔は、すでにとり憑かれてしまったように虚ろだ。私は……抵抗した。


「なんと! ライト殿はこの技の心得がおありか!」


 ほんの少し目を見張った姫君が呟くと、あの宦官が流れるように移動して、私と姫君の間に立った。


「よい、エディ。ライト殿は妾に敵対するようなことはせぬよ」


 断言するように姫君が囁く。一瞬だけ眼差しを伏せた宦官は、黙したまま元の立ち位置に戻った。ひょっとしてこの男、舌も切り取られているのだろうか?


「ライト、お前は何者だ? 真の名を明らかにせよ!」


 それは無理な話だ。私自身にも私が誰かわからない。

 私が応えずにいると、姫君はこの邸の主人に声をかけた。


「ジュガダイ、これはどうしたことだ? お前は妾の計画に未知の要素を持ち込んだようだ」


 おやジュガダイ、お前キタイの密偵スパイだったのか?


「お許し下さい。この者はだだ腕の立つ冒険者とだけ思っておりました。この町で何年も暮らしておりますが、不審なところはございません。ギルドの記録にも魔術に関わった情報はありませんでした」


 不手際だなジュガダイ。だが自業自得だ。私を欺こうとするからだ。お前の顔色から察するに、お前の命は結構危ういところにいるな。いい気味だ。ただ、私の命を道連れにしするのはやめろ。

 そう考えているとジュガダイが視線を跳ばしてきた。どうやら、奴の命より私の命のほうが危ないのだと言いたいらしい。したたかな奴だが、仲間意識を持つ義理もない。


「魔力を持たぬ者が呪縛バインドから逃れるだけでもありえない。妾のタンにまで抵抗することができるこの者は何なのだ?」

 姫君は呟くように言ったのだが、その言葉はその場にいた者すべての耳に届いた。不思議な声だ…。


 ジュガダイは黙したままだ。一言話す度に私に情報を与えることになる。私を始末してしまえばそんなことは問題にならないのだが、私が今晩この邸に入ったことを何人もが目にしている。いきなり姿を消して不審がられないほど、私も無名ではない。

 そう考えながらも私は背中に嫌な汗をかいていた。

 この姫君の正体がわからない。キタイの黒蓮の離宮については奇怪な噂を聞いたことがあるが、とても信じられる内容ではなかった。


 薔薇のように花開いたかんばせ、優雅に引かれた眉、両端で少し持ち上がった紅い唇、艶やかな眼差し。白と金との衣装に包まれているが、たおやかな曲線を伝えてくる肢体。どこにも非の打ち所のない美しさ若さだ。しかし、私の官能に訴えてくることは、最初からなかった。

 飢えた獅子や怖ろしいドラゴンの見かけがどれだけ美しかろうと、現実に直近で見たいなどとは誰も思わない。それと同じだということに改めて気づいた。


 それに自分が転生者だということを確信していても、記憶のない私には次の死が本当の死にならないという保証が見当たらなかった。


「ライト殿、気の毒だがお前は深入りし過ぎた。選べ。妾に仕えるか、今すぐここで命を失うか」


 それはできれば御免こうむりたい。正体不明のこんな姫君に臣従したいなどとは思わない。私は自由がいい。


「他の路は無いのでしょうか姫君。あなた様の利と私の益が必ず反するとは限らないのでは…」

「二つの他を選べるのは、お前が妾より強い場合だ。それともこの者のように」とサトゥースを指して「はるかに弱ければ、死ぬまで何も知らずに済んだであろうが」



 これが、私と黒蓮の離宮の女主人である姫イネルダ・アイシャーとの出会いだ。私は姫君に仕える路を選んだ。私の中の何かが、命惜しければ今はそうせよと告げたからだ。


 命より価値あるものが絶対無いとは言えないが、命が無ければ何もできないというのも確かである。


 けれど、今になって疑問を持つことがある。私が目醒めたのが、姫君の支配する黒蓮の夢の中ではないと、どうして言えるのか。あるいは、私の夢の中に姫君の見る夢があるとしたら、夢を支配しているのは誰なのか……。


 では次の章では、私の目覚めについて語ることにしよう。

2014.02.19. 改行部分訂正。

2014.04.16.ご指摘をいただき以下訂正いたしました。

       誤「できるのこの者は」→ 訂正後「できるこの者は」

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