3.目覚めよと呼びかける声 ◆3の10◆
「あれが『赫い洗礼』とかやらなのか?」
私は思わずぶっきら棒に尋ねた。
ジェニに尋ねたつもりだったが、応えたのはアイシャーだった。
「そうじゃ、あれが『赫い洗礼』とかやらなのじゃ。知りたいことがあれば言うがよい」
「いえ、何が『赫い』のかと思っただけです」
「満月前後の晴れた夜、地平から昇ろうとする月が、赫く血潮で染められた玉盤のように光ることがある。あの儀式が最も効果を上げるのはその折なのよ。そこからそのように呼ばれておる」
「サトゥースにあのようなことができるとは思いませんでした」
アイシャーとジェニは顔を見合わせて笑った。
「あ奴は空っぽの器よ。あれはあれで使い道がある。熱いものを注いでも、冷たいものを注いでも、それを受け入れるだけのしぶとさを持っている。何を入れても、外見はさほど変わらない。だから兵たちもあ奴を見て、疑いを持たずにいる」
サトゥース、お前は褒められているようだ。使い勝手のよい道具として。
この二人の女は共犯者なのだ。ジェニは幼い頃、アイシャーと『どこにもない王国』のお伽噺を語り合ったのかもしれない。だが今や、この二人の興じているのは本物の戦いであり、殺し合いだ。私はそこで、どんな役割をふられているのだろうか?
アイシャーが続けた。
「あの儀式は最も古い戦闘呪術の一つじゃ。ただの男たちを、死を恐れぬ狂戦士に変える。幽鬼は相手が数人ならば苦も無く命を奪うことができる。しかしさすがに、何十人もの相手ではそれは無理だ。そのような場合奴らが使うのが、恐怖を与え兵士たちを錯乱に陥れる技じゃ。この技は人数が多いほどかかりやすい。少人数であれば心強き者が一人おれば、仲間を落ち着かせ正気に戻すことができる。だが大人数が一度錯乱に囚われてしまえば、一人や二人正気の者がおっても逆に圧倒されてしまう」
つまりこの姫君のとったのは、兵士たちすべてを『心強き者』に仕立て上げることで幽鬼の圧倒的優位を取り上げ、それでも幽鬼が襲撃してくる場合は数による力で立ち向かわせる、無論兵士にも犠牲は出るであろうが、という冷徹かつ理にかなった戦術だった。
「それでモルにはその幽鬼が何人ついているんだ? 今までの話から考えると、そいつらを片付けさえすればモルは詰みになるんだろう」
アイシャーに話しかけるのは苦手だ。どうしてもジェニに聞くことになる。
ジェニはアイシャーと眼差しを交わしてから答えた。
「多くても三人、そのうち一人は絶対にモルの傍を離れないでしょう」
「いざとなればそいつがモルを引っ担いで逃げ出すというわけか」
「モル自体の力を忘れてはならぬ。移動中は力を揮うわけにはいかぬが、一所に留まっている間は幽鬼ごとき束になっても及ばぬ力を持っているのだぞ」
アイシャーの言うのは、本命はやはりモルだということだ。
「そのモルという奴はどんなことができるのです?」
「馬で半刻ほど離れた距離から、万の軍勢を錯乱させることができような。妾はそのような呪術を無効とする結界を張ることができるが、その大きさは妾が直接見ることのできる範囲に限られる。彼奴はうつろい易い目覚めと微睡との狭間においては、大いなる龍に等しい存在だ。残念ながら妾はそこで、モルほど自由に振舞うことができない」
自らの無力を告白するアイシャーの姿は、常日頃の傲慢な言動に慣れた私には衝撃だった。それが何故かいとおしく見えた自分を、私は諌めねばならなかった。
「姫様は生身の身体をお持ちです。いざとなればモルの何倍もの速さで動けるではありませんか。いえ、運んでもらわねば移動できぬモルとは比べものにならぬほどの強味をお持ちです」
アイシャーの弱気をジェニが遮った。
なるほど、モルに対するアイシャーの利点は機動性か。
「幸いこの近辺には我らの武力、ハサスと乱破そしてサトゥースの兵、これに対抗できる兵力など存在しませぬ。最も近いクフナ・ウルの警士や山の民を掻き集めたとて、八十人もおらぬでしょう。モルが操って我らにぶつける駒がない今は、我らの方が有利です」
おや、アイシャーとジェニの立場が逆転しているのか? こういう状況を何と呼ぶのだったかな?
夜半にはまだ間があり、月は高かった。私たち三人は天幕の前に立ち、兵たちが野営地の中に散らばっていくのを見送っていた。大鍋や五徳は撤去され、三本の幡も見えなかった。乱破の頭目らしいあの太った男が、天幕の後ろから歩いてきた。
「大儀であったなラムバニ」
アイシャーが労いの言葉をかけた。
「もったいのうございます姫様。音曲による呪は我らの得手でございますから、ご差配がなければ悔しい思いをしたところでございます」
ラムバニと呼ばれた男が、大きな身体を無理やり小さくするようにして応えた。
「して?」
「はい、この野営地の周りにむこうの手の者が数名配置されております。お許しがあれば、我らが始末いたします」
「いや、今は遁甲式を崩したくない。むこうから仕掛けて来ぬ限り手を出すでない。日の出とともに出立し、旅程を進める。キタイから離れれば離れるほど妾の方が有利になる。あ奴らの焦りを誘い、下手を打たして戦力を削り取ってやろうぞ。くれぐれも、手柄を求めた勝手な振る舞いなど無いようにな」
「承知いたしました。すべてお言葉のとおりに」
乱破といえば表立って動くことはないが、国と国との戦いでは欠かせぬ『裏の傭兵』である。ラムバニという男も、立ち居振る舞いから一角の者だと思われるのに、ずいぶんと神妙なものだ。
一体、このアイシャーという姫君は何者なのだ? 私は再度その疑問に捕らわれた。
2013.09.30.投稿後一部訂正