3.目覚めよと呼びかける声 ◆3の8◆
日没まであと一刻ほどあった。陽はかなり傾き、風も冷たくなってきていた。
馬溜りにたどり着き、鞍を下ろして馬の汗を藁で拭い、そこにいた兵士に水を飲ませてやってくれるよう頼んだ。
無論その前にあの骸を下ろすよう手配したのは言うまでもない。男の体はすでにかなり硬直が進んでおり、運んでいったハサスの者たちの手助けがなければ、馬から下ろすだけで一苦労だったろう。
野営地の中には、アイシャーの天幕と馬溜りと井戸の三つを頂点とする三角形の大きな空き地が作られていた。それは一辺が三百尺ほどの正三角形になっていて、今見直してみると天幕と馬溜りは最初から井戸に対してそのような位置に設営されたのだろう。
その三角形の内側にあった荷馬車や器物をすべて移動し、数箇所に大きな篝火の準備がされていた。これだけの量の薪を運ぶのは、荷馬車を使ったにしろ大仕事だったに違いない。
天幕の前に高さ二尺ほどの方形の壇が設けられ、その四隅に立てられた十尺余りの竿の先には細い吹流しが付けられていた。壇の前には長さ十五尺ほどの細長い卓が置かれていたが、その上には何も載せられていなかった。
馬溜りの兵に鞍と鞍袋を預かってくれるよう頼んだので、私は右手に銃だけ持って天幕まで歩いた。
「これは、何をしているのだ?」
「遁甲式です」とジェニ。
天幕の裏側にアイシャーとその随員の馬車が置かれていた。そのさらに向こう側に先ほど見かけた幡が立っていた。朱の幡旗は縦に細長い三角形の形で、三十尺もありそうな竿に一つの長辺に沿って括りつけられていた。他の辺は黄色の炎のような形の房布で縁どられ、朱の旗面には金箔で太陽と四大を表す記号が大きく印されていた。
天幕から乱破たちを取りまとめる太った男が出てきてジェニに会釈し、天幕の後ろへまわって姿を消した。
「あいつも戦闘言語を使えるのか?」
「いいえ、ハサスではありませぬゆえ」
「姫様は?」
「姫様の使われる言語はもっと強力で、ハサスのそれなど呑み込んでしまわれます」
「言語が言語を呑み込む?」
「はい。遁甲式も戦闘言語もすべて呑み込む巨きな龍語、それが姫様の声です」
「遁甲式というのは魔道士の扱う魔方陣のようなものとは違うのか?」
「今はこの野営地自体がそれです。モルの配下の幽鬼たちが、うかつにこの陣に踏み込もうものなら、たちまち絡めとられてしまいます。姫様に対抗できるのはモルのみ。彼の者が回復し動き出すまでにはまだ一昼夜はかかります」
三本の幡旗が間を置いて動き出した。それぞれに十数名の乱破者が列を作って付き従い、金鼓を打ち甲高い音色の喇叭を吹き鳴らしていた。三つの隊列は等間隔で野営地の周囲をゆっくり巡り始めた。
天幕の前までたどり着いた時、私の頭の中ではジェニの言葉がぐるぐる廻っていた。一言たりとも理解できない、私の中の『誰か』がそう判定していた。ジェニが誤魔化そうとして偽りを語っているわけではないだろう。だがこの娘の話は、私にとってまったく意味をなしていなかった。
お前の眼前の現象を見つめ、世界がお前に聞かせる音だけを聞け……それが目覚めるということだ……私の中の『誰か』がそう告げていた。
「それで、ジェニ、君は何者なんだ?」
「それは……」
「ジェニはハサスの巫女ですよ。そして流浪の王国の王女でもあるのです」
アイシャーが天幕の帳を開いて現れた。
「姫様……」
「お前だって姫ではないか、ジェニ」
「ジェニが王女だって……」
「ただの王女ではありませんよ! 『どこにもない王国』の王女です! お伽噺の王国です」 ジェニが腹を立てて言った。
「待てよ、その王国のお伽噺って、ロマの女王の話じゃなかったのか? あれは君の話なのか?」
「まったく! アイシャー様もライト様も、生き死にが懸かっている時に、子どもの頃のお伽噺など持ち出して……」
「これはすまなかったな。妾が余計なことをこの男に教えたばかりに、ジェニを煩わせてしまった。だが、この唐変木には察しをつけるなどということを期待しても無駄なのじゃ。ライト、お前も自分が手にしているものの価値をよく考えるがよい」
またもや、私には発する言葉が無かった。
「姫様! ライト様は五日間の記憶を取り戻していないのです!」
「まことか!」アイシャーは猫のように機嫌よく笑った「ではあの五日間をジェニと過ごしたあの男は『誰』であるのかな! ジェニには気の毒なことだが……、妾はモルがその男と出会った時が楽しみじゃ!」
アイシャーが天幕の中に後ずさって姿を消した後も、そこに人の悪い笑いだけが残って漂っているように見えた。




