14.機械たちの神学 ◆14の17◆
アシュ王を通じてトゥラン・エラム連合軍がジプトの三つの都市、サァド、レクサンドリア、ケイロを制圧したと連絡があった。
ジプト王国イテル河の北端、テラニア海に流れ込む場所にある巨大な三角州。その三つの頂点に位置する三つの都市、王都ケイロ、そして海岸沿いの二つの港町レクサンドリアとサァドである。ジプトで最も重要と言われるこの三つの都市をトゥラン・エラム連合軍は占領した。
この三角州には、年に一度の氾濫期に上流から流れ下った泥水が押し寄せ覆い尽くす。この泥のおかげで三角州の土地は常に肥沃なままに保たれ、豊かな恵みを約束する。数千年前からここには人が住み着き、農耕を始めていた。今では四千万人と言われるジプト王国の総人口のうち八割がこの三角州に住んでおり、そのほとんどが何らかの形で農耕に関わって生活している。
「王族とフランツの軍事顧問たちは逃亡し、イテル河沿いに奥地へ向かった。だが海へ出ねばフランツと連絡はとれぬ。厳しい逃避行になるであろうな」
アシュ王がそう話す。暗黒大陸の奥地のことはエラム人である王の方が詳しい。その王が言うのだからよほど難儀な行程なのだろう。
「どこへ向かったのだろう?」
「暗黒大陸西岸にあるフランツの植民地が距離的には一番近い。だがイテル河の上流から向かうのであれば大地峡を越えねばならないぞ。あそこは前人未到の地で地図もない」
「素直に降伏すれば粗末には扱わぬものを……」
「それは顧問団が許さなかったのだろう」
「属国の王族とは、こうなると惨めなものだな」
ジプト王国を支えていた官僚たちはケイロに残り、自ら占領地に乗り込んだコデン王の足元にひれ伏して忠誠を誓った。これでコデン王はトゥラン・ジプト連合王国の元首を名乗ることになる。
「さて、コデン王はどんな政策をとるかな?」
私がそう言うとジェニが首を傾げた。
「どういう意味ですか、伯爵様?」
「何、征服してしまえばジプトはコデン王の民だ。民は養わねばならん。だがジプト産の小麦の収穫量は、トゥランやエラム、シュバールで消費するには多すぎる。フランツの半分以上を養っていた量だからな。キタイの主食は米が中心だ。結局敵国のフランツに輸出するしかなかろうということだ」
「それは……」
「うん、いろいろな意味で難しいだろうな。今年、アイシャー后妃はペスカドルに命じて『密輸』という形で在庫を処分した。だが来年の作付けはどうする? 売れるめどのつかない小麦を播く農民はいない。だがジプトの産業は農業に偏っている。このままではジプトの国中に、仕事が無い人間が溢れる」
「それはまずいですね。騒動の元です」
「だから結局コデン王はジプトの民に、小麦はフランツに売ると言わなければならないだろう」
「戦争相手に食料を輸出するのですか? ずいぶん奇妙な戦争です!」
「フランツも買わないとは言わないだろう。そんなことをしたら餓死者が出るからな。国が持たない」
「コデン王が売らなければ、フランツの民草の恨みも買うことになるのですね」
「ジプトの王族が残ってさえいれば、その恨みはそちらにいったんだがな」
ついにフランツ帝国の閣僚から私に、内密に面会したいという打診があった。商務大臣のジョルダンという男だ。正式にはド・ジョルダン商務大臣と呼ばねばならぬらしい。内容はやはり来年度の小麦の輸入についてだった。交渉がまとまれば私に勲章をくれるという。そんなもの欲しくはないが、正直にそう言ったらフランツ帝国への侮辱になるとアイシャーに言われた。正確にはアシュ王を通じてアイシャーから警告されたのだが、そんなことはどうでもいい。とにかく勲章をくれると言われたら素直にもらうしかないようだ。しかもくれるという勲章はかなり上等なもので、皇帝陛下が直々に手渡すことになるそうだ。ソンブラだったら絶好の機会とばかり、喜び勇んで皇帝を暗殺するところだろうが、それも許されないという。なにしろこちらとしても小麦の輸出先が無くなるのは困るのだ。ちゃんと話をまとめたらトゥランでも勲章ものだと言われた。
今や私の身辺は秘密警察が守っている。フランツ帝国の秘密警察だ。フランツにとって、来年以降の小麦の輸入枠を確保するためには、私が暗殺されたりしては困るのだ。
こうしてトゥラン・エラム・ジプト連合王国とフランツ帝国の間には秘密の休戦協定と交易条約が結ばれた。つまり戦争はうやむやになったのだ。
私はトゥラン王国全権大使として秘密裏にフォンテモンターニュ宮殿を訪れ、コデン王の代理として秘密条約に署名した。フランツ側はナブリオネ三世陛下、つまりカルロ・レオン・ナブリオネ・ボナパルテが直々に署名し、その後手ずから私の首に大十字なんとかという勲章を掛けてくれた。ナブリオネ一世が『人を操る道具』と呼んだそれは金鍍金と七宝で飾られており、大層重かった。ただし私が『ベベ』に贈った小さなペンダントの方がずっと値打ちものであることは、自信を持って断言できる。
「それで、その安ピカ物は、一体全体何の役に立つのですか?」
「ナブリオネ一世によると、こいつを首に掛けてやらないと軍人や官僚は勝手気ままに走り出すので、国の運営にはぜひとも必要なものなのだそうだ」
「つまり言うことを聞かない馬鹿な駱駝を沼に沈めて始末する時、勘違いして浮かび上がってこないようにするための重りということですか?」
「ジェニ、そんな話をどこで聞いた?」
「例の『使徒たちの備忘録』です」
「クソッ、どこからか剽窃したに違いない」
「何故そう思われるのです?」
「例の『十三人』は全員、歴代皇帝からの叙勲を辞退しているからだ。本当の意味が理解できていたら、黙って受け取っていたろう」
「本当の意味とは?」
「今ジェニが言った通りの代物さ」
『初めの十三人』は特別なのだ、皇帝を頂点とするフランツ帝国の制度など超越しているのだ、勲章を受け取らないという傲慢な態度はそういう矜持を示していた。確かに『機械の神の教会』は国境を越えてフランツ帝国の外にまで布教団を派遣し、宣教師たちが建設した教会堂は全世界に点在している。あのキタイの帝都にさえ、一つ教会堂が存在するそうだ。
だが『忘備録』を見るとルズという人物が、その本人の強烈な個性とは裏腹に、謙虚と寛容を布教の大原則としていたことがわかる。例えばまず、『機械の神』は他の信仰をまったく否定しないのだ。どんな神を信じることも個々の人間の自由と認めている。ただ他のすべての神に絶望し、行き場の無くなった人間だけが『機械の神』のところへたどり着けばよいとしている。だがこのような大きな目の網で漁られた魚たちは多く、いつの間にか『機械の神の教会』は、フランツ帝国の国教とまで言われるようになってしまった。はたしてこれが、ルズという人物の意図したことだったのだろうか? もしそうであれば、この人物は何故謀殺されねばならなかったのだろうか?
デュレ通りのアパルトマンは今、トゥラン・エラム・ジプト連合王国の領事館のような扱いになっている。小麦の輸入についていくつかの詐欺事件があった後、ここに窓口を一本化し、他は連合王国とは無関係であるとフランツ政府に通告した。騙される者が無くなったわけではないが、その後フランツ政府側からの苦情は来なくなった。
ペジナはここで週何日間か書記官の手伝いのような仕事をしている。なにしろフランツにはトゥラン語の読み書きができる人材が少ない。ましてやトゥランでの公式文書に使われるキタイ官語をまがりなりにでも解する者といったら、一部の研究者に限られる。リブロとコデン王の書記官たちに鍛えられたペジナは、本人が思う以上に貴重な人材なのである。
そのペジナがサクレーの邸にトゥランからの連絡文書を持ってやって来た。ダズは今コデン王と共にジプトにおり、シューリアに帰ったアイシャーからの連絡はレクサンドリアまでは早馬で送られ、そこから船便に、そしてマシーリアからパリスまではフランツの郵便馬車で運ばれる。通信文は無論、暗号で書かれていた。
「何て書いてあるのさ?」
ペジナが聞く。
「知りたいか?」
「そりゃね、おいらの故郷みたいなものだからね、シューリアは。あそこからの便りとなれば気になるさ」
「故郷か」
ロマの仲間たちと放浪の旅を続けていたペジナが実際にどこで生まれたかは、ペジナの父親であるロマの頭にでも聞いてみなければわからない。だがペジナにしてみれば、初めて一つところで一年以上暮らしたというシューリアが、故郷と思えても不思議はなかった。
暗号文を解読してみて私は驚いた。
「これは……」
「どうしたんだい?」
「私にシューリアに戻れという命令書だ。ジェニとカルロも連れて行くことになる」
「おいらは?」
「特に指示は無いな」
「おいらも連れてってくれよ」
「ビットはどうする?」
ビットは神の瞳号の船長の息子でペジナが海に落ちた時助けた命の恩人であるばかりでなく、右も左もわからないペジナをパリスまで連れてきてくれた。
「あいつも海を恋しがっている。パリスには飽きたとさ」
「そうか。カルロだけでは淋しいだろうから、お前たちも連れて行くことにしよう」
「やった!」
こうして私たちは、パリスを離れることになった。




