3.目覚めよと呼びかける声 ◆3の7◆
私がジェニに尋ねたのは何も投げやりな気持ちからではない。クフナ・ウルを出てから今まで、アイシャーやジェニの言動に、思わせぶりな意図が、露骨に感じられたからだ。サトゥースの押し付けがましい態度にさえ、ひょっとして何か隠されているのではないかと、疑いたくなるほどだ。
どうも私は『賢すぎない』ようで、何に気付かなければならないのか皆目わからない。いい加減はっきり説明してほしいものだ。
「私は、何をすればよいのだ?」
「今夜アイシャー様にお聞きください」
「そんなにのんびりと構えていて、よいのか?」
「砂漠を越えてきた導師が動けるようになるには、少なくとも二昼夜が必要だとアイシャー様が言われました。アイシャー様は、今宵サトゥース様とその配下の兵士に、赫い洗礼を授けられます。ライト様はその後、知るべきことをお知りになるでしょう」
「姫君はもう、この男が殺されていたことを知っているのか?」
私はジュガタイの召使だった骸を見下ろしながら尋ねた。
「先ほど一人宿営地に走らせました。もう間もなくお知りになります」
「なあ、その、お前たちハサスの民の魔法の声で、姫様に知らせを送ることはできないのか?」
「私どもの戦闘言語は魔法などではありません。視えない踊り、舌を使わない歌、匂いの無い風です。私どもの血潮の中に流れる旋律を知らなければ、触れることも味わうこともできない喜びです」
「うーん、さっぱりわからん」
ジェニが声を出さずに笑った。
「まあ、戦闘中の動きや息遣い、そして臭いなど、言葉として発する以外のもので語り合うことができるということです」
「臭いもなのか?」
今度は声に出して笑い出した。
「ライト様は命をかけた戦闘のとき、己の血が沸き立ち硝煙のような香りを放つのを感じたことがありませんか? 深い悲しみに墜ちた時、ひとの鼻腔から滴り落ちる苦い涙の息に気付いたことはありませんか? 人間はその思いによって様々な臭気を流し出し、その心を語っているものなのです」
「しかもそれが喜びだと!」
「もしかしてライト様は友と語り合う喜びをご存じないと……?」
「いや、うむ……それとは違うのではないか……」
年上の男を、そんな可哀そうな奴を見るような眼で見るものではない、絶対ないぞ、ジェニ……。お前性格悪くないか!
野営地に戻るにあたって男の躯を放置するわけにはいかなかった。ジェニの馬に乗せてしまうと、とっさの時ジェニが弓を使えない。体重は私の方が重く馬には負担になるが、私の鞍の前に横たえるようにして死体を縛り付け、運ぶことにした。そろそろ死臭を放ち出していたが、供養だと思い我慢するしかない。
しばらく馬を進めた後、やはり尋ねずにはいられなかった。
「なあ、その道士とかいうのが動けないというのは確実なことなのか?」
アイシャーがそこまで危険視する相手なのである。万が一を考えずにいることは納得がいかなかった。
「帝国の魔導院の長老は、四百年近くあの墳墓のような場所の地下にいるはずですが、まったく動くことができません。その場所から一歩でも移動しようとしたら、長老の身体はたちまち崩れ、塵となって散逸してしまう……と、アイシャー様は言われました」
「じゃあ……」
「こ度姫様を追ってくるのは、長老の配下の者、生まれてからまだ二百年ほどしかたっていないモルという者だそうです」
「追手がその男だというのは確実なのか?」
「長老の下には四人の道士がおりますが、その者が一番年若く、この度のような任務に耐え得るのはモルだけです」
「他の奴ら、道士とかは、何をしているのだ?」
「魔導院は巨大な帝国をまとめ上げる蜘蛛の糸です。蜘蛛が糸で編みあげた巣の中央に座り込み、獲物が罠にかかるのを待ち構えている姿をご存じでしょう。獲物が糸に絡まり捕らえられると、その振動を蜘蛛は感知します。魔導院の力により皇帝は、キタイのどこで事変が起ろうと瞬時のうちにそれを知ることができます。その蜘蛛の役割を果たしているのが、長老とその配下の道士たち。魔導院には数多の人材がおりますが、かの五人以外は見習い修業中の名ばかり道士に過ぎませぬ」
「そんなお忙しい本物の道士様が出張って来るなんて、お前の姫様は大物なんだなぁ。だが、それにしてもモルとかいう奴が今この時にでも襲って来ないと、どうしてわかるんだ?」
「モルとて二百年も永らえているのは常ならぬ術によるものです。魔導院の道士たちが敵対する者たちに『生かされている屍』と呼ばれているのは故なきことではありません。強大な魔力を揮うとはいえ、常に仙薬魔薬を身に取り込み続けなければ白痴にも劣る意識しかなく、強い日差しや風雨に晒されたりすれば肉体を保つことができないほど脆弱な存在なのです。モルが砂漠を越えて来るためには、いえ単に長い旅をするだけでも、仮死状態になって運ばれて来るしかありません。その状態から目覚めるには二日以上かかります。その男を殺めたのは」と私の鞍の前に縛り付けられた躯を見やり「モルの身体を運び、警護する幽鬼と呼ばれる者の一人です」
「そんな大変な思いをしてまでそいつが姫様を追ってくるのは何故だ。おまけに、その大層な事情に君が詳しいのは何故なんだ?」
「たかが端女ごときが……ということでしょうか」
「いや、君はまだ十五だろう……けして貶めるつもりではないんだ」
「わかっています……。私が魔導院の内実を知っているのは、黒蓮の離宮と私どもハサスの者の出自が深い関わりを持っているからです」
その時私は、いつの間にかあのエディと呼ばれた男がジェニの乗馬の向こう側を速足で歩いているのに気付いた。
「おや、私は喋りすぎたようです」ジェニが両方の口角を釣り上げて笑った。「この他のことは、その時になったらアイシャー様がお話になるでしょう」
しばらく前から、遠くに野営地が見えてきた。まだ距離があり詳しくは分からないが、何事か奇妙な動きが始まっているようだ。三本の幡が高く翻り、そこにあの乱破者たちが集まっているのが見えた。