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12.神の道化《ジェスター》   ◆12の7◆

「えっ、何か?」

 耳聰みみざとくメルキオが私の呟きを聞きつけたらしく、顔を上げてこちらを見た。

「いや、この先どこかでひと休みして喉をうるおしたいと言ったのですよ」

「おお、なるほど。この陽気で馬車に揺られると喉も渇きますな。それでは、と」

 メルキオは悪戯っぽく笑うと座席の肘掛けに手を掛け片側を持ち上げる。するとその部分が蓋のように開き、中は物入れになっているのが見えた。メルキオはそこからワイングラスを四つ取り出し、それぞれに配った。次に引っ張りだしたのはコルク栓にろうで封をした葡萄酒ワインの瓶だった。

「これは!」

「いや、伯爵を驚かせることができるとは、この葡萄酒ワインも果報者ですな!」

「ジョシアはこうやって他人を驚かせるのが好きですのよ。まったく困った坊や(モン・ベベ)

「おいおい、モニ!」

「あら、ごめんなさい」

 睦言むつごとは二人だけでの時にしてもらいたいものだが、注がれた葡萄酒ワインは美味かった。

「これは……冷えている」

「朝一番に地下の酒蔵から出させて、この」と、物入れを示し「戸棚ポケットに入れておいたのです。ここに詰まっているおが屑の中にうずめておくとしばらくは冷たいままです」

 なるほど、おが屑は断熱だけでなく葡萄酒ワインに馬車の振動が伝わっておりで濁るのを防ぐ意味もあるのだろう。それにしてもこの旅行用馬車は六頭でくだけあって大型で、車室の中もゆったりしている。四人どころか倍の人数が乗っても十分な広さだ。おまけに贅沢な仕掛けもついていて、いろいろ愚痴ぐちる割にはメルキオの暮らしは豪勢なものである。

「美味しゅうございますわ」

 ジェニがいかにも上品な声でニッコリ微笑みながら言うと、メルキオが瓶を掲げて応えた。

「よければこの瓶を空けてしまいましょう。まだ何本もこの中には入っています」

「あら大公様、そんなことをしたら私、酔ってしまいます」

 おいジェニ、そんな目つきで見たらメルキオの奴が勘違いするぞ。メルキオ、お前ペジナと同じ目にあいたいのか? そういえばペジナとあのビットという少年はどうなったのだろう? 無事に陸地まで泳ぎ着いているといいが。


 調子に乗ったメルキオが二本目の瓶を取り出したところで馬車が止まった。そこは狭い切通しになっていて、馬車がすれ違えるほどの幅しかなく、両側の崖は切り立っている。馬車の窓から頭を出してみると、道の前方に何本かの樹木が倒れ行く手をさえぎっていた。

 先頭を進んでいた六人の護衛兵が騎兵刀サーブルを抜き、それぞれの馬に足踏みをさせてその場でぐるっと旋回した。お互いの馬がぶつからないようにしながら八方を警戒する乗馬技術はたいしたものだ。殿しんがりにいた護衛兵たちも同様に馬上で抜刀しあたりを警戒している。

 突然ダァーンという銃声がした。メルキオがハッと首をすくめ、侯爵夫人が小さな悲鳴を上げて抱きつく。マスケット銃を持った三人の男が倒木の向こうに姿を現し、銃口を護衛兵たちにむけた。様子をうかがうがこちらに怪我人の出た気配は無い。どうやら今の一発は威嚇いかくのための発砲のようだ。

「おい、馬から下りろ! おめぇたちは囲まれているんだ! おとなしく言うとおりにしろい!」

 三人の中で一番大柄な口髭を生やした男が怒鳴った。先頭にいた護衛兵が後をふり返って顔をしかめる。馬で倒木を飛び越えようと考えたのだが、後がつかえていて助走の余地がないことに気づいたのだろう。無理をしなければいいが。

「待て!」

 メルキオが扉を開けて馬車から降り、列の先頭に向かって歩き出した。ご婦人たちにいいところを見せようというのかもしれないが、何とも無茶な坊やだ。勝算はあるのだろうか? 私はジェニに侯爵夫人をまかせ、距離を置いてメルキオの後を追った。

 主人が現れたので護衛兵たちは馬を下り、そのうち二人が仲間に馬をあずけてメルキオと男たちの間に立った。メルキオは騎兵刀サーブルを持つ二人を制し前に出て声を掛ける。

「まあ、待て。何が望みだ?」

 男はチラリと他の二人を見ると倒木を乗り越えてメルキオの前まで歩いてきた。倒木の陰に隠れているような臆病者ではないと仲間に示して見せたかったのだろう。メルキオの挑発に乗ったわけだが、銃を突きつけられているこちらが不利なことはまだ変わらない。

「望みだって! いわずと知れたお宝よぉ。立派なお馬車を連ねた貴族様だぁ。さぞかし懐にゃあ、たんまり金貨が昼寝をしておいでだろうさ」

 髭の男は下卑げびた口調であたりを見回しながら言った。

「金か、よしこれをやろう」

 メルキオはそういうと上着の隠し(ポケット)から絹の財布を取り出し男の足元へ放り投げた。

「百エキュある。それで十分だろう。さっさとその倒木を片付けろ!」

 髭の男がチラリと後を見るとあの二人の男たちも倒木を乗り越え、男の後ろでマスケット銃を兵士たちに向ける。髭の男は財布を拾って開け、ジャラジャラと手の平に中身を出し確かめた。

「ほぉ、さすが貴族様、銀貨ダルジャンじゃなくて金貨ドールじゃないか」

 髭の男たちの目に欲の光がギラリと宿る。

「いやいや、まだこんなもんじゃ満足できねえな。俺たちのねぐらにゃあ、腹を空かした餓鬼どもが沢山いるんでなぁ。洗いざらい出しちまいなぁ」

 眉をしかめたメルキオは馬鹿なことを言う奴だと思っていることを隠しもせずに答えた。

「お前は知らないようだが貴族は現金を持ち歩かんのだ。小切手というものがあってな、高額な支払いは銀行を利用するものなのだ。金貨や銀貨を持ち歩いては重くてかなわんからな。陽はまだ高い。いつ巡視隊がやって来るかもしれん。あまり欲をかかない方がいいぞ」

 小切手と銀行取引についてはフランツに着いてから私も勉強中だが、キタイの宝鈔ほうしょうとの大きな違いはその価値を保証するのが皇帝ではなく銀行という組織だということだ。どちらにしろこの男たちは見たことも聞いたことも無いだろうし、説明しても理解できないだろうとメルキオが思っていることは明らかだ。メルキオの言った内容は理解できなくても馬鹿にされたことだけはわかったらしい髭の男は、ムッとした顔をして銃を持ち上げメルキオに向けた。その時私の後ろにジェニが滑り込むように近づき、メルキオの後に立つ私にささやいた。

「小間使いだという女に侯爵夫人をあずけてきました。それからこれを」

 私に葡萄酒ワインの瓶を手渡すジェニの姿を見た髭男は目を見開き、歯をむき出して笑った。男は一歩前に飛び出すとマスケット銃を振り回し、不意を突かれて下がるメルキオたちの間に入ってジェニの腕をつかむ。引きずるように後退りするとジェニの首に腕を廻し、勝ち誇ったように叫んだ。

「おおっと、おとなしくしないとこの娘っこの首をへし折るぞ! こいつは人質だ! この娘と引替えに、十万エキュ用意しろ。その何とか言うものじゃなくて現生げんなまでな!」

 あわててメルキオも大声を出す。

「おのれ、その手を離せ! 金ならいくらでもくれてやる。今すぐその手を離せ!」

「おやぁ、この娘は十万エキュ以上の値打ちがあるようだな。勘違いのトントンチキめ、おめぇたちは囲まれてるんだ! 条件を出すのはこっちの方なんだ!」

 勝ち誇ったように言う髭男に対しメルキオの顔には焦りの表情が浮かぶ。どうやら私の出番のようだ。左手でメルキオたちを制して前へ出た。

「ジェニ!」

 そう声を掛けると一瞬伸び上がったジェニは、それで緩んだ男の腕からストンと腰を落とすことで脱け出し、再度伸び上がって男の顎に頭突きをかました。顎先をかすられてよろめいた男から転げるように離れたジェニは、私の側に立ち上がると衣装の埃を払う。

「くっ、こ、この小娘め!」

 よろめくだけで倒れはせず、両足を踏みしめるように立った髭男はほめてやっていいだろう。普通だったら白目をむいてひっくり返っているところだ。きっと最後の瞬間に自分で首を振り、衝撃を受け流したのだろう。

「まあ、待て。確かにこのの値打ちは十万エキュどころではないが、お前も勘違いしているぞ」

「なんだとぉ!」

「そら、これを持て」

 私はそう言って髭男に葡萄酒ワインの瓶を手渡した。

「?」

 怪訝な顔をする男の腕に手をえ、高く揚げさせる。私が手を離し一歩下がった瞬間、ターンという銃声と共に男が掲げた瓶の先が吹き飛んだ。あわてて男が瓶を手放しそうになるところを、一歩前に出て、もう一度今度は左手をえて支えてやる。

「おっと、落とすなよ。いい酒なんだぞ、これは」

 男は声も出せずに目をむいている。立っているだけでもたいしたものだ。なかなか肝がすわっている。私は顔を近づけ男にささやいた。

「いいか、お前の仲間たちは今頃私の手のものが押さえている。そして私が合図すると」

 そう言って私は左手を離して下がり、右の親指をパシッと鳴らした。ターンという施条銃ライフルの音が響き、男の持っていた瓶が砕け散る。

「お前の頭が今の瓶のようになるというわけさ」

 顔から胸にかけて赤い葡萄酒ワインを浴び、硝子の破片が刺さったのか顔から血まで流している髭男はよろよろと後退りすると、ストンと尻餅しりもちをついて言った。

「はぁー、まいった。降参だぁ。もう、煮るなり焼くなり、どうにでもしてくれぇ」

本作品に登場する、人物、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。

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