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12.神の道化《ジェスター》   ◆12の2◆

「皇帝などと言っても、所詮は『カエルたちの王』でしかない」

 王からフランツへ行けとの命を受けた後、私がアイシャーに呼び出され陽光の間に出向いた時のことだ。アイシャーは紫檀したんの卓の上に置かれた茶器の向こうで気だるげな眼差しを私に向けながらそう切り出した。

「かつて王たちは民の運命を導くため、己自身で大いなる苦痛の中の死を選んだものじゃ。だが旧帝国の皇帝たちは自分自身の代わりに初子を生贄とするようになり、次には我が子ではなく身内の誰かに、そしていつの間にか関わりの無い人間を犠牲として選び出すというように変えていった。己の苦痛と死を怖れるあまり、神に対して代価を値切るようなまねを始めたのじゃ。カエルの王もカエルでしかなくなったということじゃな」


 アイシャーは三人の星読みたち(マグス)からフランツ帝国内の事情を聴聞し、帝国の支配層の弱点を探っていた。同じ支配層に属しながらその主流とは対立している三人から得られる情報は、それぞれの立場により偏ったものではあったが、アイシャーはそれを精査した後統合し、全体像を得ようとしていたのである。

「あの三人が共通して抱いている不満は支配層の腐敗に発するものだが、それは結局王たる者に王である自覚が無く、怯懦きょうだに囚われていることが原因なのじゃ」

 キタイ産の白い磁器の茶碗に注がれた薄緑色の液体は、冬季の海を渡って運ばれてきた緑茶を石臼でゆっくりと挽いた粉末を湯がいたものだった。緑茶は東方の島国の産で、湿度と温度が低く保たれる冬季にだけトゥランに送られてくる。少しでも船旅の日数が延びたり温度や湿度の管理に失敗したりすると、茶葉が発酵して茶色くなってしまうのだ。そういう運搬の手間やリスクのため、トゥランでは緑茶は高価なものであった。

「私にフランツの皇帝が何を怖れているのか探れと?」

 湯の底に沈んだ深緑色の茶の粉を竹の匙でかき混ぜながら私は尋ねた。

「エラムによる霊的攻撃によってフランツがあれほどの恐慌を来たしたのはなぜじゃ。皇帝自身が霊的抵抗力を失いつつあるのだ。支配者というものは民からの崇拝によってカリスマという賜物たまものを得、霊力を保持しているものなのだからな」

「神からカリスマを賜った支配者が民衆から崇拝されるのではないのですか?」

「誰がそんなことを言ったのか考えてみよ。真実を隠そうとする怯懦きょうだな詐欺師の王じゃ! 王権は苦痛の器、民の崇拝は素面しらふの口には苦く、酔いしれた眼に未来は見通せぬ」

「まあ、民衆の支持無くまつりごとはできないでしょうが」

「お前もまつりごとを金と物の動きでしか捉えていないわけではなかろう」

「それではいけませんか?」

「それでは今回の任務は果たせぬからな」

「どうすればよろしいのですか?」

「茶を味わってみよ。苦いだけではなかろう。よく味わうのだ」


 そう言われても私には茶の微妙な味などわからない。同じように帝国の支配者たちの機微など見分けることができそうになかった。



 日没から一刻後、月明かりの海を神の瞳号(レルベ・デ・デュ)は滑るようにひた走っていた。私の側にはアルトとヴェルデがいて、昼間のキャスパとバルタザルの様子を報告している。

「えっと、キャスパの奴はずっと書き物をしてて、船室から出てきません。ライトの旦那」

「エンテネス伯爵様だ! それに狭い船の上だ、言わないでも奴が船室から出てこないのはわかるだろう」

 ヴェルデの言葉遣いをアルトが訂正する。

「あ、船室から出てこないんで何を書いてるのかはわかりません。えー、伯爵……様」

「バルタザルは反対に船内を歩き回り、船員に気軽に話しかけています。典型的な市井しせいの下級神官としか見えません」

 アルトの言葉を聞いて私は考え込んだ。人当たりのいい態度、熱狂的ではあるがキャスパのそれとは違って真摯な神への信仰、バルタザルの生き方を頭から否定することはできない。だからこそ私にとっては厄介な相手かもしれない。他の二人と違い、いざという時にこの男を突き放して考えることが私にできるだろうか?


 ジェニが下の甲板から上がって、話している私たちのところへやって来た。

「ペジナは?」

「メルキオの船室です。灯りは点いていません」

「はー、何していやがるんだろね?」

 ヴェルデが下品な笑みを浮かべて言った。

「ほっておけ。いざとなったらメルキオを脅す材料に使える」

 私が無関心を装って言うとジェニが眉をひそめた。

「よいのですか?」

「あの子もどういうことかわからない歳でもない。承知の上でやっているのだ。それよりヴェルデ、キャスパの書き物を気取られぬように持ち出せるか?」

「難しいスね。船室から出るのは食事の間ぐらいで、戻ったとき書類が無ければバレちまいまさァ」

 ヴェルデの返事に私があきらめかけた時、ジェニが口を挟んだ。

「考え方を変えてみたらどうでしょう?」

「うん、どういうことだ?」

「キャスパを船室から引っ張り出せばいいのではないでしょうか」

「どうやるんだ?」



 次の朝、甲板での作業が一段落した後、中央マストのあたりで歓声が聞こえた。ヴェルデとアルトが水夫たちに声をかけ、索具登り競争を始めたのだ。それを見たペジナが自分も参加すると言い出すと、メルキオが賞金を出し改めて勝負することになった。水夫四人とペジナ、ヴェルデ、アルト、それにバルタザルの計八人による勝ち抜き戦だ。狭い船の上での騒ぎに、さすが引きこもっていたキャスパも船室から顔を出した。好都合なことに、それを見たバルタザルがキャスパに審判を引き受けてくれるようと声を掛けた。

 私に与えられた時間はトーナメントの七回勝負の間だけだ。上甲板から降りキャスパの船室に入ると、狭い船室の中の書き物机の上に書きかけの手紙が散らばっていた。急いで目を通していくと博学なキャスパらしく、書簡はフランツ語で書かれているものばかりではなかった。それらの中で私は、機械の神の教会の公用語である旧帝国の言葉で書かれた一通の手紙に目を留めた。シャルニーの僧院長の名前で書かれたその書簡は、フランツ国内で商工業に投資している貴族に向けて書かれたものらしかった。暗喩に満ちた文面であったが、それはどうやら私たちがフランツに到着してからのキャスパが考える計画を知らせるものであった。

 相変わらずキャスパは私を己の駒として利用する目論見をあきらめてはいなかった。トゥランを離れ、母国であるフランツへたどり着けばアイシャーのかいなから逃れることができると思い込んでいるようだった。だがアイシャーがキャスパとの長い対話の中で奴にかけたしゅのことにキャスパは気づいていない。リブロの部屋からコデン王が去った後、アイシャーははたを織るようにしゅの糸を奴の中に織り込んだ。それは奴を傀儡くぐつにするような、稚拙な類の技ではない。あからさまにキャスパの様子がおかしければ周囲の者は異常に気づくであろうし、それは外交という面においてよい結果をもたらすはずがないからだ。よってキャスパは今も自分の意思で自由に振舞い、私をトゥランからの交渉使節としてフランツへ入国させるのも、自分の計画の実現のため自分が交渉した結果だと信じ込んでいる。だからキャスパが私たちの利便を図り、しかるべき時まで私の身の安全を望むのは当然と言えた。

 キャスパが書簡で、私たち一行がフランツ皇帝に謁見できるよう根回しを依頼していることを確かめ、私は船室を出た。


 甲板では索具登り競争が佳境に入っていた。準決勝にまで残ったペジナの相手は、これもさして歳の違わない水夫の少年だった。

 この競技のルールはこうだ。中央メインマストの左右を支える縄梯子状の横静索(シュラウド)を二人の競技者がそれぞれ左舷と右舷から登っていく。三段の帆のさらに上、マストの頂上に結び付けられた鐘を鳴らし、甲板までどちらが早く降りてくるかを競うのだ。海の上では強い風が吹いており、波にあおられれば船全体が大きく傾いて揺れるが、高い帆桁の上まで登るのは、帆布の縮展という水夫の仕事にはどうしても必要な能力である。


「ペジナが勝ち残ったのか?」

 私はジェニの側までゆき、小声で尋ねた。

「レクサンドリアの港を出る前から、面白がってマストに登っていましたからね」

「大人は身体が重いからな、早さだけならあの二人が上か」

「でもアルトも先ほど勝ち残りました」

「では決勝はアルトとこの勝者か?」

「はい」


行け(コメ)!」というキャスパの掛け声で、二人の少年は横縄ラットラインを駆け上がった。縦索シュラウドにはほとんど手を触れていない。檣楼下静索ファトック・シュラウドに手を掛けるとあっという間に檣楼しょうろうを越える。中帆の上に達する頃には、意外なことにペジナが先行していた。

「これは、ペジナが先に鐘を鳴らすぞ!」

「無理をしなければいいのですが」

 ジェニがそう言った時、ペジナがほんの少し早く上帆の帆桁ヤードの上に立ち上がり、鐘舌の下に垂らされた短綱に右手を伸ばし鐘を打ち鳴らした。

「カンカン」

 ペジナが右手を離し降り始めようとした時それは起こった。ふいに風向きが変わり、船体が右舷に大きく傾く。マストの頂点にいて大きく振られたペジナの右手が空をつかんだ。一瞬左手が帆桁ヤードに掛かり宙ぶらりんになったペジナだったが、振り子のように大きく振り回される力に耐え切れずその手を離してしまった。

 もしそこから甲板に向かって落ち叩きつけられたとしたら、ペジナの骨は打ち砕かれほとんど即死していたに違いない。だが揺り返しがくる前に手を離した少年は、海面に向かって弧を描いて落下し、白い水飛沫みずしぶきをあげて姿を消した。

「しまった! あいつ、泳げるのか?」

本作品に登場する、人物、国家、民族、神等はすべて架空の存在であり、実在のものとはまったく関係がありません。


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