前世と現世。
ティリレイに転生する以前。レオノーラは《地球》という惑星の、《日本》と呼ばれている小さな国に生きていた。
前世での名前は豪徳寺椿。
お嬢様、なんて呼ばれていて、住んでいた邸の敷地も随分と広かったので、実家は相当な資産家だったのだう。
そうは言っても、レオノーラの記憶に残っている風景といえば、敷地の隅にひっそりと建てられていた離れという場所の中がほとんどだった。
生まれつき体が弱かった椿は学校へ通うこともできず、そのほとんどを、離れにある自室の布団の上で過ごしていた。
当然ながら、椿には友達と呼べるような存在はいなかった。
出来ることも行ける場所も限られていた椿は、音楽を聴いたり、本を読んだり、庭の景色を眺めたり……。そんな毎日を過ごしていた。
『家族』と呼ばれる人達がいたのは確かなのだが、その誰もが滅多に離れを訪れることは無かった。
椿は世間で言うところの『不義の子』という物らしく、義理の母や姉弟は勿論、唯一血の繋がった父からでさえ疎まれる存在だった。
分かりやすい増悪を向けてくる義母や姉弟よりも、何の感情も感じられない父の視線が怖かった。まるで自分など存在してはいないような気持ちにさせられる。椿の全てを否定する。そんな視線だった。
相容れることのない両者にとって、離れという場所は実に都合の良い避難所であり、隔離所だった。
そんな離れでの生活の中でも、わずかながら椿に親身になってくれる人達がいた。
一人は住み込みで働いていた家政婦の美代さん。ちょっとふっくらとした笑顔の素敵な女の人。たぶん50歳を少し過ぎたくらいだったと思う。
椿の衣食住の世話はもちろん、季節ごとに庭に咲く花や木々の名前、字の読み書きを教えてくれたのも美代さんだった。
よく熱を出しては寝込んでしまう椿を心配して、朝まで付きっきりで看病してくれた。
ティリレイに転生した今でも、美代さんの作ってくれたお粥と自家製の梅干しを懐かしく思い出したりする。
親身……。とは違うかもしれないけれど、忘れられない強烈なキャラクターなのが、椿の主治医である伊織先生。
クールって言葉がぴったりの美形で、伊織先生が往診に来る日は、一目見ようと沢山の使用人達が離れの周りをうろうろするほどだった。
確かに、伊織先生は見ているぶんには、とても綺麗な顔をしていると思う。しかし残念なことに、顔が綺麗だからといって心まで綺麗とは限らないものなのだ……。
一度、使用人の女の人が、伊織先生に告白をしている場面に遭遇してしまったことがある。
勿論わざとではない。トイレから自室へ戻る途中。縁側の脇にある中庭で事が行われていたのだ。行くも戻るも出来ず、仕方なく聴こえてしまったのだ。(多少の好奇心があったのは否めないが)
その時の先生の返事は、
「お前…、自分の顔を鏡で見たことがないらしいな?良かったら評判の良い眼科医を紹介してやろうか?」
だった…。
使用人の方は、何を言われたのかわからない様子でしばらく呆然としていたが、言葉の意味に気付くなり、「酷過ぎる〜〜っ!!」と泣きながら走り去って行った。
何だか使用人が気の毒に思えた椿が、「なにもあんな言い方をしなくてもいいのに……」
と言うと。
「向こうも俺の顔が目当てなんだ。俺が顔を理由に断るのも自由じゃね〜のか?万が一、俺の内面が好きだってんなら、あの程度の言葉で傷付かねぇだろ?」
そう言って伊織先生は、笑った。
確かに、伊織先生は椿にも「ほんと頭弱ぇな」とか「見苦しい顔で寝てやがったな」とか平気で言ったりする。勿論、ムカっとすることはあるが、傷付いたりはしない。それが伊織先生って人だってわかっているからだ。
「まあ……。そう言われれば、そうかもしれませんね」
何だか妙に納得してしまった椿に、
「まあ、泣き顔を見るのは趣味みたいなもんだがな」
クククッ……と伊織先生は邪悪な顔で笑った。
まさに、『悪魔』のような男。それが黒瀬伊織だった。
そんな悪魔と正反対の『天使』のような人。それが美代さんの息子の雪村紫苑さん。
ティリレイき転生した今でも、記憶の中にくっきりと刻まれている人だ。
椿が中学校へ上がる年頃になると、美代さんに代わり家庭教師として勉強を教えてくれたのが大学生の紫苑さんだった。
少し長めの、クセのある色素の薄い栗色の髪に、ダークブラウンの優しげな瞳。形の良い唇の下にある小さなホクロがなんだか色っぽくて、幼心にドキドキしたのを憶えている。
そんな椿の動揺に紫苑が気付くはずもなく……。
いつも落ち着いたの美声で、
「お嬢様、本日はどの本をお読みいたしましょうか?」
と優しく微笑んで、勉強の合間に様々な本を読み聞かせてくれた。
その中でも、特に椿のお気に入りだったのは、『赤い髪の魔騎士』というドラゴンや魔法使いの出てくる冒険物の童話だった。
椿は、隔離された孤独な生活から逃避するかのように、旅する騎士や、華やかな王子と姫の恋物語に思いを重ねた。
紫苑は、もっともっととせがむ椿に呆れることなく、繰り返し同じ本を読み聞かせてくれた。
他にも、一緒にテレビゲームに興じたり、DVDを観たり、体調の良い時には庭を散策したりもした。
僅かではあるが、普通の子どもらしい楽しみを椿に教えてくれたのが紫苑だった。
椿にとっての紫苑は、物語から抜け出してきた憧れの王子様そのもの……。
近くにいるだけで幸せだった。
きっと、あれが椿の初恋だったんだと思う……。
そんな優しく楽しい毎日が暫く続いた、ある朝。椿は目覚めると―――
ティリレイに転生していた。
何の予兆も前触れもなく。突然、明るい光に包まれて薄く目を開けると、忍は柔らかく温かい腕に抱き上げられた。
「初めまして……、愛する我が娘、レオノーラよ」
そう言ったのは、美しい金髪の美女だった。
(…レオノーラ?!誰のこと?)
言葉にできず、只々泣き叫ぶ椿を、母上と父王、兄達が笑顔で覗き込んだ。
まるでテレビのチャンネルを切り替えたように、レオノーラの前世の記憶は唐突に途切れた。
その後、椿がどうなったのか?どんな事が起きたのかも全く記憶には残っていない。
元々、椿は不治と言われる病を患っていたので、きっと自分でも気付かないうちに死んでしまったんだろう……。とレオノーラは結論づけている。
それに…、思い出せないってことは、きっと椿にとって、それほど重要なことじゃなかったのかもしれない。
『紫苑さんと出会えた』
きっとそれだけで…、椿にとって充分に幸せな人生だったんだと思う…。
だから……、ティリレイに転生した今でも、時々思いをはせるのかもしれない…。
私を見て微笑む、紫苑さんの優しい眼差しを……。