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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋愛メインで短編集

ボーダーライン

作者: 橘高 有紀

 この気持ちに名前をつけることを、長い間恐れてきた。

 自分の中のなにかと日常が壊れそうだったから。

 だからそっと蓋をして、心の奥底に沈めて、気づかない振りをしていたんだ。


     *

     *

     *



 親友、律のキスシーンを目撃したのは、偶然だった。

 二人は人目を忍んで図書室の奥にある本棚の影にいたようだが……見てしまったのだ。なんて間が悪いのだろう。


 結衣子ゆいこは図書委員だ。返却すべき本を大量に抱え歩いて、そんなシーンに出くわすとは予想もしていなかったのだ。

 パニックで頭は真っ白だったが、騒がずその場からそっと結衣子は離れた。咄嗟に隠れたので二人は恐らく気づいていない。


 本を抱えたまま、大急ぎでカウンターへ戻った。

 しばらく席についていたが、心臓がばくばく跳ねて落ち着かない。結局立ち上がって教室の隅へ移動した。だれもいない場所で、思う存分混乱したかったのだ。


 放課後だった。

 十一月も半ばにさしかかり、夜の訪れがぐっと早くなったこの時期は、夕日が一層赤く燃えていた。


(駄目だ。どうしよう。顔が熱い。絶対真っ赤だ、これ)


 自覚した途端、結衣子はしゃがみ込んだ。自前の強く癖づいた茶髪が、顔にかかっても気にしていられない。こんなみっともない姿は、常の結衣子であればだれにも見せないのに。


 キスシーンが目に焼きついていた。朱色の光が差し込む図書室の片隅で、唇を重ねた二人の姿が、何度も繰り返される。


(しかも、女の子同士だった)


 親友のひどくプライベートな部分を盗み見た気分だ。知ってはならない領域を垣間見た居心地の悪さと罪悪感が、結衣子を一層混乱させる。


 相手の顔に覚えはなかったが、一つ年上の先輩だった。一瞬だったが、紺色のリボンは見逃さない。結衣子たち二年生はえんじ色なのだ。

 そこまで考えて、結衣子の唇から溜息が漏れた。……どう考えても同じ学校の生徒である。制服を見間違うはずがない。


 十七歳の結衣子が通う学校は女子校だ。中高と男子がいない。エスカレーター式に進学すると大学も女子大だ。十年間男子と関わらずに生きていける。

 とはいえ、彼氏のいる子は意外に多いものだ。キスをしていた親友の律にだって、結衣子にだっている。


「昨日告白されちゃってさ、どうしようかなって悩んでるんだ。どうしよう、ゆいこ」


 そんな相談を親友から持ちかけられたのは一週間前だ。そして、その二月前にも同じような相談を請け負っていた。

 たびたび彼氏を変える親友に「またぁ?」と呆れるのは、毎度結衣子の役割だった。


(そうだ。律には彼氏だっているのに)


 相手は大学生だと聞いた。(本当は禁止されているが)バイト先で知り合ったらしい。画像を見せてもらったが、感じのよさそうな人だった。


「ほんと、律は安定しないなぁ。前の人だって悪くなかったのに」

「仕方ないよ、合わないんだから」


 前回、律に告白してきた相手は二週間で終わった。理由を結衣子は聞かされていないが、「振られた」と親友は苦笑していた。逆のパターンも多い。

 短期間で終わるなら最初から付き合わなければいいのに、と溜息をこぼしたものだ。


「ゆいこのところはもう半年ぐらい続いてるんだっけ」


 そうだよ、と答えた結衣子の彼氏は幼なじみだ。同い年で、律が付き合う相手ほど大人ではないが――不器用ながら結衣子を大切にしてくれる。一緒にいて安心できる貴重な相手なのだ。


 別々の高校へ進学し顔を合わせなくなるうちに、ばったり駅で遭遇した。中学のころと比べて、雰囲気が大人びていて驚いた。

 好きだと、半年前に告白されたのだ。


 頬の染まった結衣子をにんまり笑って、「ああ、やだやだ。理由なんて聞いたら惚気られちゃう」と律は話題を切り替えたのだった。


 そんな彼女が、なぜ同性とキスをしていたのだろう。

 それとも、アレは女子校特有のコミュニケーションの一つなのだろうか。


 高校から女子校へ入った結衣子は、当初戸惑ったものだった。

 女子ばかりの空間は、一種独特の雰囲気があった。彼女たちは他人との距離が、予想以上に近いのだ。


 並んで歩くと、肩や腕が触れることは多々あった。それどころか、手を繋ぎたがる人や腕を組んでくる人、飛びついてくる猛者もいる。

 恐ろしいのは、ごく自然に彼女たちが触れ合っていることだ。特に『身内』と認定された人間に対しては、『寄り添う』という言葉ほどに近い。


 過剰なほどのスキンシップだ。

 彼女たちは自分と同じ女の子と群れながら、不安を誤魔化しているのかもしれない。自分は一人じゃないのだと確認しているのだろう。

 だから――キスぐらい許せるのだろうか?


(でも、アレはなんていうのか)


 結衣子が彼氏とするものとは、別種のように感じたのだ。

 そう、まるでなにかの儀式のような、性的ないやらしさを感じさせない、女の子同士だからできるようなキスだった。現実感がなかった。夢だったと言われれば、そうだったのかと納得したくなるほどに……。


「ゆーいーこっ、そんなとこでしゃがんでどうしたの。なにやってるの」


 気がつくと、律にのし掛かられていた。

 わ、と反射的に身を捩った結衣子は、目と鼻の先のあった律の顔に仰天した。唇が重なりそうな距離だ。

 思わず律を押しのけてしまう。


「ちょ、ゆいこ、なに?」

「ご……っ、ごめん律。だっていきなり抱きついてくるし」

「こんな隅っこで連れがしゃがんでたら、普通なにごとかって思っちゃうよ」

「だからって抱きつかなくていいじゃない」


 けらけら律は笑う。いたずらに成功した少年のような仕草だった。

 律は過剰なスキンシップを好まない。それでも結衣子に対しては、時々箍が外れる。それは、心を許してくれている証拠だ。


(でも慣れないんだよね。ベタベタされるの、今だって苦手だし)


 親友から結衣子は目をそらした。

 彼女の唇を意識してしまう。顔だけじゃなく全身の体温が上昇していた。じっとりと掌に汗をかいている。

 なにがこれほど調子を狂わせるのか、わからない。


 すると、無造作に手が伸びてきて結衣子の額に触れた。


「ねぇ、顔赤いけど具合悪いの? 冗談でもなんでもなく、熱ある?」


 言いながら顔を近づけてくる。

 結衣子はどきりとした。律のあんなシーンを目撃したからとは告白できない。まして彼女は真剣に心配してくれている。


 逃げるタイミングを逸し、結衣子はぎゅっと目を閉じた。目を開けると心中を見透かされそうで怖かったのだ。

 額がぶつかり、息が頬や鼻にかかる。親友の体温を露骨に感じ、結衣子は緊張に全身を強ばらせた。


「うん……熱はないのかな。でもちょっと心配だよね。最近風邪流行っているから」


 身を離した律は、今日はクラスで五人も欠席したしなぁ、と見当違いなことを言い出す。

 欠席しただれかがインフルエンザだったらしい。結衣子もその可能性があるから気をつけたほうがいいと、大真面目に警告してくる。


 結衣子の肩から緊張が抜けた。

 律は嫌になるほど普段通りだ。


「そうだね、そうなのかも……。なんか気怠いんだ」


 あえて否定せず、となりに座った律の肩に結衣子はもたれかかった。「大丈夫?」という心地良い声を聞きながら、ぼんやりと目線を漂わせる。


 律の髪が揺れてシャンプーの匂いがした。結衣子の使っているものとは違う匂いだ。

 ワイヤーのように真っ直ぐな黒髪は、触ると少し冷たかった。結衣子のふわふわした癖っ毛とは違う、背中まで伸ばされたストレートヘアだ。


『ゆいこの天然ふんわりヘアって憧れるけどな。とってもキレイだもん』

『そんなことないよ。律のほうが絶対キレイ』


 そう主張すると彼女は苦笑して「じゃあゆいこのほうが、絶対かわいい」と肯定してくれた。

 コミュニケーションが苦手な結衣子の前に、彼女は突然現れたのだ。


 律は、結衣子の目から見ても格好良かった。

 面倒見がよくて、言いたいことを口にする率直なタイプだが、なぜか周囲が許してしまう雰囲気をしていた。

 背中まで届く艶のある黒髪がよく似合っている。少年のようなところのある女の子だ。


 同じ格好で統一された学内だからこそ、律は目を引いた。

 特別美人ではなかったが、姿勢がよく、肌が白く、まるで優等生のような品があるのだ。

 実際はいい加減なところが多く、隙だらけで不真面目なのだが。


(でも律がもてるのって、男子限定なんだと思っていた)


 親友に憧れる同性の気持ちは、不承不承であるが理解できた。

 きっと律を好きであることは、一時的な風邪のようなものだ。異性ほど隔たりのない同性から選ばれた、ごっこ遊びの恋愛対象で、アイドルを追いかけるのとよく似ている。


 律にもたれた結衣子の指先が、無意識に自分の唇をなぞった。

 かさついていて「リップ……」と機械的に手が制服のポケットを探る。しかしリップクリームは鞄の中に入れっぱなしだった。


 立ち上がるのが億劫で、結衣子はまぁいいか、と軽く目を閉じる。

 並ぶ本棚に夕焼けの赤が広がっていた。残像に占められた脳裏では、あの光景が繰り返される。


(私、どうしてこんなこと気にしてるんだろ)


 律は、今までだって付き合ってきた男子と唇を重ねただろう。

 それを咎めたことも、気にしたこともなかったのに。


「ゆいこ、リップ使う?」

「え?」

「だからリップ。私の」


 手渡されてしまったリップクリームを、結衣子はまじまじと見やった。

 これは律の唇をなぞっているものだ。唇をつやつやにするグロスの効果もある、律のお気に入りである。


「使っていいよ」


 促されるままにキャップをはずし、スティックを回す。恐る恐る唇をなぞった。

 律のようになったのか、と彼女を盗み見たときだ。


 律と唇が、重なっていた。


 持っていたリップクリームがからりと床に転がる。

 律が、してやったりと笑った。

 結衣子のまなじりがあがる。


「ちょ……、今、律、」

「あはっ、キスしちゃったね」


 何でもないように言う律の手が、結衣子の手に重なった。学校指定のセーターに隠れた結衣子の指へ、当然のように絡まった。

 絶句した結衣子は瞬間的に顔を赤く染め、ややあって溜息をこぼす。怒ったとしても後の祭りだ。絡めた指を払うようなことはしなかった。


 律の手は彼氏である京平のそれより小さくて、ふっくらしている。やわらかくてあたたかい。

 男子が持ち得ないものを彼女は持っているのだ。


「ふふ、ゆいこの唇って、あまい」

「……きっとリップの味だよそれ」


 そうかな、と律は小首を傾げた。

 そして、確認するようにもう一度唇が重なった。


「そんなことないよ。ゆいこだから、あまい」


 今、だれと比べたの。


 そう問うことはできなかった。

 今まで付き合ってきた男たちとなのか。それともさっきの上級生か。


 彼女の空いている手が、結衣子のウェーブのかかった長い髪に触れた。

 ――律にとって、キスに意味はないのかもしれない。単なるコミュニケーションの一種なのかも。

 そう考えて、結衣子は傷ついた自分に気づく。


「ゆいこは隙がありすぎる。簡単に許しちゃ駄目だよ、キスなんて。好きな人としなきゃ」

「それを律が言うか」

「一応、殴られてもいいやって覚悟はしたんだ、これでも」


 じろりと結衣子は睨みつけたが、俯いた律の横顔は冗談を語っていなかった。

 そのときになって、彼女のようすがおかしいと遅まきながら気づいた。


 姿の見えない結衣子を探したのだって、律のほうに用があったのだ。

 浮ついたテンションは、どこか心あらずなせいだ。なにかで自分を誤魔化しているような――


 考えを巡らせるうちに、となりで律が小さく呟いた。セーターに隠れた指先で自分の唇に触れながら、震える声で、


「ねぇ、記念にキスしてって言われたんだ」

「へ?」


 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。


「先輩からね、記念にキスしてって。……ずっと私のこと好きだったんだって。そんなこと言われても困っちゃうよね」


 付き合ってとは言わない、ただ思い出にキスだけさせて欲しい。

 そんな申し出だったようだ。律を困らせると承知の我が儘である。律が中学からお世話になっていた相手のようだった。


「ゆいこだったら、どうする?」

「私だったら逃げる」


 逃げるんだと律は一頻りけらけら笑い、ゆっくりと膝に顔を埋めた。話す声は泣きそうなものだった。


「受験前でストレスだったのかな。なんて言うか、発作的に言っちゃった、みたいな雰囲気だった。事情はわからないけど、追い詰められてたのかなぁ。ぼろぼろ泣かれちゃったし、お願いって、縋られたらどうしていいかわからなくなっちゃって……」

「律は人が良すぎだよ!」


 気色ばんで結衣子は断じた。

 親友が傷ついているとわかるから抑えられない。


 自分を犠牲にしてまで『少女たちの王子さま』を演じる必要などないのだ。

 彼女らの願望に応じるべきではない。そんなのはただの生贄である。都合がよいだけの道化だ。


「律も同じ女の子なんだって、どうしてわからないの。律の感情はどこへ向かえばいいの」


 彼女たちは律の度量に甘えすぎではないか。律も、自分勝手な彼女たちを許さなくていいのに。

 すると律はきょとんとなって、苦笑した。


「ゆいこがそこまで怒るとは思わなかった」

「怒るに決まってるよ。律を蔑ろにするなんて許さない。何なら、その先輩に私が言ってもいいよ。記念ってなに。訳わかんない自己満足に律を巻き込むなって」


 スキンシップにだって限度がある。

 許される境界と踏み入ってはならない境界が。

 それを犯してだれかを傷つけたなら、ただのセクハラである。


「嫌なら嫌って言いなよ。付け入られるよ」


 すると、律が嬉しそうに笑みを広げた。繋いだ手がぎゅっと握りしめられる。


「ふふっ、やっぱゆいこっていいな。見た目すっごい女の子らしいのに、かわいいのに、カッコイイんだから」


 う、と結衣子は言葉に詰まる。

 ふわふわした髪とコミュニケーションが苦手なせいで、内向的な性格だと勘違いされやすいのだ。実際には、得心できないと考えなしに発言してしまう、融通の利かない頑固者だ。


「ほんと、人がいいのは私じゃなくて、ゆいこだよね」


 意味ありげな発言に、結衣子は身じろぎした。


「さっきのはやっぱり実験だったんだ。私を巻き込んだんだ」


 ぶんぶんと手を振っても律はにこにこして手を放さない。


「ごめん。でもさ、ゆいこは特別だから。……私には意味があったんだ」


 ぎくりと由衣子は息を呑んだ。

 恐る恐る顔をあげると、ひどく真剣な律と視線がぶつかった。嘘や冗談を話す表情ではなかった。空気が張りつめていく。


 どうしようと結衣子は瞬いた。どうしたらいい。

 視線が足下を彷徨う。もう一度顔をあげられない。律のキスシーンを目撃した以上のパニックに襲われている。どう答えるのが正解なのだろう。『特別』の意味を考えられない。


 そのとき携帯が着信を告げた。ディスプレイに描かれた文字は、『京平』だ。はっと我に返った。


(そうだ。私には京平がいる)


 そして律にも彼氏がいる。

 結衣子が答えるべき言葉なんて、端から決まっていたのだ。


 律が、タイミングを計ったように繋いでいた手を放した。出なよ、と何ごともなかったかのように微笑む。

 その表層的な笑みに由衣子はどきりとした。たった今まで結衣子のものだったぬくもりは消えた。鳴り続けるコール音が、大きくなった気がした。


「……もしもし」

『あ、結衣? なぁ、まだ学校? 今日遅くなるって言ってたよな』


 うん、と答えながら、結衣子は自分の身体から急速に火照りが引いていくのを感じていた。ぎゅっと自身を抱きしめる。


『ならよかった、駅で待ち合わそうぜ。何時がイイ?』


 時間をチェックすると、図書委員の時間はとっくにすぎている。下校時刻である。

 あれほど鮮やかだった夕日はどこかに失せて、夜が足早に訪れようとしていた。暗さを意識した途端、結衣子は身体を震わせる。

 さむい。先ほどまで寒さは感じなかったのに。


 待ち合わせ場所と時間を確認し、携帯を切った。すでに立ち上がって律はコートを羽織っていた。結衣子のコートとスクールバックも持ってきてくれている。


 帰り支度を済ませ、図書室を出た。昇降口まで二人並んで歩く。

 足音が廊下や階段に響いた。もう校舎に残っている生徒の数は少ない。見渡す限り、だれもいない。

 窓から見えた体育館と校庭の一部だけ煌々と灯りはついていたが、すっかり夕闇に染まっている。吐く息が白くなっていることに、結衣子は気づいた。もう冬なのだ。


「律。さっきの……特別ってどういう意味?」


 この問いかけが卑怯だとわかっていて、結衣子は口火を切った。律は髪を揺らして振り返る。

 階段の上段から見おろす格好になった結衣子は、その姿に見とれてしまう。やっぱり律は、結衣子の自慢だった。


「うん。……ゆいこは特別。大好きな私の親友だよ」


 そう切なげに応じた彼女は、とてもキレイだった。





 結衣子は付き合っている京平と、駅で落ち合ってからバスに乗った。二人並んで座ることができたのは、幸運だった。

 この時間は、学生より会社帰りの大人のほうが多い。くたびれた空気が車内を支配しているのはそのせいだ。

 きっと夜であることも、この空気を重くする一因だろうか。夜が長ければ長いだけ、気分も沈むのか。


「なぁ、元気なくない? 結衣」


 バスの窓から夜の街並みを眺めていた結衣子は、小さく微笑んだ。

 さすがに京平は目聡い。


「うん、なんでもないんだけど……寒いなぁって」


 結衣子は彼の手にそっと触れた。

 京平は驚いたようだったが、俯く結衣子になにかを問うことはしなかった。無言で掌を返し、指を絡めてくる。

 律とは全然違うかたい手の感触だ。

 体温もどこか違う。苦いものが胸中に浮かんだ。


「今日そんな寒い?」

「前から寒いよ。マフラーも手袋もカイロも必須でしょ」

「今からそんな装備じゃ、一月や二月はどうすんだよ」

「厚着するから平気」

「だるまみたいになるんだ?」


 くだらない会話で間を埋めるのは、沈黙を避けるためだ。沈黙すると律のことを考えてしまう。

 結衣子は無意識のうちにコートのポケットで、リップクリームを弄んでいた。律のものではない結衣子のそれだ。


 律とは、学校の最寄り駅まで一緒だった。乗る電車の路線が違うため、改札へ入ってしまうと別々のホームへ進む。

 律は、嫌になるほどいつも通りだった。じゃあね、と告げて彼女は背を向ける。


 咄嗟に「律!」と結衣子は呼びかけていた。律が、黒髪を揺らして振り返る。

 なに、と問いかけてくる眼差しに、「ま、……また明日」とかすれた声で伝えるのがやっとだった。


(また明日も、今までと変わらないまま、一緒にいてもいいんだよね?)


 そんな不安をぶつける資格が結衣子にはない。

 だが律はふっと顔を歪ませながら、笑みを返してくれた。


「うん、また明日ね。ゆいこ」


 その返事がどれだけ結衣子を救い――どれだけ心を潰したか。

 姿勢のよい彼女の後ろ姿はすぐに見えなくなった。後味の悪さだけが胸中に渦巻いている。


(本当に、私は卑怯だ。……質が悪い)


 バスを降りて並んで歩くときも、京平と手を繋いでいた。別れ間際、結衣子は「ねぇ、キスしていいかな」と尋ねた。

 京平が狼狽える。

 当然だろう。結衣子は人目のある場所での接触を嫌ってきたのだ。手を繋いで歩くことさえ、今までは嫌な顔をしてきた。それがキスまで要求したのだから。


「結衣、どうしたんだよ、今日」

「わからない。……不安でたまらなくて」


 寒いと感じたくなかった。

 空っぽの手のひらに、ぬくもりが欲しかったのだ。


 淡々とした結衣子の反応に、京平は顔をしかめた。そして四方へ目を飛ばす。


 七時をすぎ、住宅街に人気はないに等しかった。自転車の細いライトが近づいてくる。それが通り過ぎるのを待って、彼は結衣子の長い髪に触れ、躊躇いがちに抱き寄せた。


 京平の匂いがする。

 コートとコートの厚みのせいで、いまいち「あたたかくない」のが、由衣子にはおかしかった。

 それでも抱きしめられている。ぎゅっと身体を締めつける感触に安堵する。


 街灯と街灯の合間の暗がりに寄り添っていると、世界で二人きりのような気持ちになった。

 京平と唇が重なる。

 その刹那、抱いたのは失望だった。


(ちがう、なぁ)


 嫌でも彼女と比べてしまう結衣子自身への、失望である。


(律のと違う。そうだね、律。ちっとも甘くないね)


 涙が溢れた。それが頬を伝って唇に落ちた。

 京平のことは好きだ。

 きっと――二番目に。


(律。律。律……)

(私もだったよ。好きだった)


 特別だと言って貰えて嬉しかった。

 律としたキスは甘かった。

 ずっと一緒にいられたらよかった。

 触れ合っていたかった。


 でも、結衣子は律を「恋人」というカテゴリに当てはめるのが怖いのだ。――嬉しかったのに、気持ちをぶつけられて逃げたのだ。


 特別な存在だったから一歩を踏みこまずにいた。同性だからと気軽に接触できる女の子たちが、理解できなかった。


 しかし結衣子だって、女の子ばかりの園で暮らす住人なのだ。律にキスを迫ったあの女子生徒と変わらない。

 相手が女の子でもいいならなぜ自分では駄目なのか――そんな感情を抱いてしまっていた。


 何度もキスを繰り返し、京平に「好きだよ。大好きだよ」と伝えながら、結衣子は自分の気持ちを確かめる。

 そして口の中だけで「ごめんね」と呟いた。

 律と比べてしまって、律に惹かれてしまってごめんね、と心のうちで謝罪した。律と京平では求めるものがまるで違う。


 まるで、違うのだ。

 その夜、結衣子はひとしきり泣いた。




 翌日、いつものように学校へ登校し、結衣子は律を見つけた。

 校門前に集まる女子生徒たちの中からたった一人、背筋をぴんと伸ばして歩く彼女はすぐに見つけられた。

 律とはちがうリップクリームを塗った唇に、弧を描く。そうして「せぇの」と地面を蹴った。華奢な背中に、初めて飛びつく。


「おはよう、律!」


 律は驚いたように目を丸くして、少しだけ切なそうに微笑んだ。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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2012/11/28 20:13 退会済み
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