第三章(1)
第三章
会社指示メール(二月某日)
環境等の影響は会社側で考えること。それは報告する必要はない。
ただ、日々変化がないか報告せよ。それから午前中の巡回はやらなくてよい。
何の変哲もないただの寂れた砂利の山道をおもむろに見つめているとそこがかつてトロッコが走っていたという話を鵜呑みにするわけにはいかない気がした。その面影らしきものを探そうにも、枕木さえも見当たらない。それもそのはず、道路にする予定だったため戦後会社は国から独立し、観光事業に手を出し、トロッコの道を舗装しようとしたがその前に倒産。経緯はわからないがその後会社は社名を変えて復活、しかしそれ以来その土地は放置されたままだ。
風は視覚には入らないものなのに感じられるのは、当然自分の身体に触れるからでもあり、その周辺のものを揺さぶって視覚を刺激し、物音が出ることによって聴覚に囁くからで、それが僕の前の事実であり、自分ごときには薄っぺらいものだけれども世界の一員である証左である。それが眺望を眺めることで癒しだとする人間の悲哀だとしても、それを求めることで自分をごまかす世界への依存者である僕には有り難い。それは事実から目を背け単なる社会からの逃避者に過ぎないが自然を感じているだけまだマシだ。
風はどこから来てどこから行くのか。天気予報を見てもそれは低気圧で説明され、本当のところをそんなものだけで済ませるが社会的な人間だが、本当のところはこちらのほうを考えていたほうが僕はいいのだ。これを機会に堪能しておきたいのは差し迫った不安を抱えているのに前に進めない現実である。
人のことでわずらわしくて、自然のことすらも見えなくなるのが当たり前で、そんな日常はむなしくて、そんな社会から放り出されているから、歩いている道路や横断歩道やその地域に住んでいることや、地球すべてのものを共有しているはずなのに、あまり感じられず、人から感じるのは野卑な興味に彩られた自分に対する噂話ばかりで疲れはとれない。そのまま埋もれるのを抑えながら生きているわけで、今回の仕事はその嫌な意識を誤魔化す悪いものだが、息をつなぐものでもあるのだ。
まず風がうなり声をあげて空から斜めに降ってきて、その次に局地的に草木を揺らす、そんなものは世間に気を取られていると気づかない。風が固まってくることがあると知ったのは新鮮な気づきで、それを味わったのは待人堂と呼ばれる一帯であった。
そこには古びた展望台があり、使われなくなった公衆トイレがあり、草むらに埋もれた古びた石碑があり、そこが幾分開けているのは駐車場があったためだろう。スギが生い茂り、一時の繁栄の名残でも、その後管理されなければ無駄な場所に思える。現在はそのまま無駄な場所。今ではさびしいところだ。
待人堂。郷愁を誘うその名のとおりかつてお堂があり、よく連れ合ったお参りの客が待ち合わせをしていたらしい。そしてそのとき固まった一陣の風が何かを運んできたのだろうか。一瞬砂埃が舞い上がり、目を抑えながら立ち止まる。
そして、気配がある。異音に気づいたのだ。
静かなので山にいるとよく枝が折れたりしても音が響くのだ。枯れ葉が風で少しづつ飛ばされ道を擦るように動くと、人の足音のように聴覚を錯覚させる。軽トラを置いてきたT字路に乗用車がなかったことから、今日は誰も会社の道を歩いていない……と思っていた。ゆっくり後方から近づいてきて、僕らを枯れ葉が通り越し、不思議なもので少しずつ足音を立てながら、展望台の方に上っていく。それを目で追っているとやがて唐突に階段を上っている足音に気づいた。階段なんてものは展望台しかない。枯れ葉から目を放してそちらに顔を上げた。
別に隠れる必要もなく、それまでの歩調でゆっくり進むと、展望台にやはり人影が見える。
錆びた手すりに両手を乗せて、しばらく眺めを堪能しているのだろうか。やがて、黒いコートの胸元からタバコを取り出し吸い始めた。猫背のその男性はどこかくたびれた印象がした。こちらには気づいていないようで、それともあまり気にしないたちなのか、煙を吐き出しながら立っている。
男性は気づいた様子はない。僕らも段々近づいていき階段に回り、足をかけ、展望台の上へ向かった。そして、段々上の様子が見えてきて、男性の姿が見当たらないのに気がついた。
上がりきるとテーブルが無機質に置いてある。もっとも階段が左右にふたつあるから、僕らがあがってくるのに気づいて、別な方へ降りていったのかもしれない。
「どこに行った?」
彼は下方を眺めるが、蔦にからまれた樹木があるだけで何も見えない。さきほど男は何を眺めていたか、僕は不思議に思った。なぜなら展望台を背の高い木々が視界を塞いで、その展望からは遠くの景色は望めるべくもなく、微かに山道の筋がわかるくらいなのだ。
「ハイキングね。たぶん」
能天気に彼は行った。
「それにしては格好が変だった」
「そうだね。いろんなやついるから、『わかば』かー」
そういう彼の右手の指に吸殻が挟まれていた。
「おっさんのタバコだ」
僕は答えた。
「まだ暖かいからやはり幻ではなかったんだな。それにしても変だ」
「何?」
「ほれ、そこに紙のマッチがあるだろう。今時ライター使わないなんてめずらしい。というか山でマッチ使うか。風は吹くのに」
展望台の上には固定されたテーブルとベンチがあり、色あせた白のセメントで、しかも何年も風雨にさらされ汚く、とても座った形跡はない。
そのテーブルに使いっぱなしの紙マッチがあり、彼は手にとり、眺める。
「鉱山株式会社か」
それを覗き見ると、その絵柄は古そうだ。
「ここら辺の人かな」
そういうと彼は駆け足で降りていき、男の姿を探した。
男がもしくはトイレに隠れていると思って、僕は覗きに行きかけた。
「そこのトイレは入るな!」
後ろから彼が鋭く言う。
あまりに声に力があったので、振り向いた。
「なんで?」
「……汚い」
「……」
茶化されたと思って僕はしかめたが結局笑ってしまう。
「うそ。開けてみろ」
笑って彼は気を逸らす。
僕は朽ちかけたドアを引っ張る。それでも強引に引っ張ると急に開いて倒れた。壊れた。「あちゃー」
罰が悪くて僕は頭をかいた。
「まあ、誰も使ってないからな」
ありきたりで俗に言うぼっとん便所で虫の死骸や鳥の死骸や蜘蛛の巣でとても用をたす気になれない。便器は白かったはずだが、黄ばんで変色していて、乾いている。
「ほんとにきったねー」
鼻孔をつんざく腐臭に吐き気を覚えた。
彼は深呼吸して目をつぶり、ポツリと呟いた。
「竜の声が聞こえる」
「竜の声?」
「そう」
彼は鼻で笑ってとぼける。
僕は見上げる。木々の枝から微かに覗ける上空には飛行機雲が伸びていく。飛行機の音にしか聞こえない。