第二章(1)
いつものようにパトロールで
第二章
指示メ会社ール(2月某日)
メールにての報告は端的に行うこと。自分の気分など入れる必要なし。それから状況報告が足りない。次回のメールにて、道路と不法投棄のあるなしについて、また適宜必要と思われる巡回方法をとり、その所作を知らせ、その結果を報告すること。
僕らは軽い打ち合わせしていた。昨日の下見の後、ゴミはかなり捨ててあるが家電製品や雑誌などで、悪質な産廃はなくたぶん業者はほぼ来ないだろうという意見で、彼と一致していた。そういうわけで幾分気分は楽になっていてハイキングのようなものだが、何度も見回るために体力的に消耗し、仕事の内容よりもむしろそちらの方が苦痛になっていた。
僕らは軽い打ち合わせをして午前中はほとんど不法投棄はないだろうから、午前中は交互に林道を巡回することにし、その間互いの休憩時に家で浅い睡眠をとり、午後三時ごろから一緒に歩いてパトロールすることにした。そして、暗くなってから軽トラに乗りパトロールをし、朝方帰る方法をとることにした。
山なのに珍しく電波が届くので、一人で見回るときは携帯で連絡を取り合うことにした。そして、午前中は交互にパトロールし、山菜取り中年の夫婦が林道付近を歩いていたくらいで異常は見られなかった。その夫婦を見かけたのは彼だが僕が二時間後に出かけた後はもう帰っていた。予定通り三時を過ぎた頃からふたりで巡回に出かけていた。
パトロールで歩いていって林道の分岐点に戻ってくるのに、早足で九〇分ぐらいで歩きなれない僕は足はマメだらけで足を引っ張り上げるように疲れているのに対し、彼は足取りも確かで疲れた様子もない。普段もたぶん散歩で山を歩いているのだろう。歩きたくはないが馬鹿にされるのは嫌で黙って彼の後に付いて、足を運んでいた。
途中動物の糞の塊があった。彼に聞いたのだが、この山にはリス、猪、ハクビシン、狐、イタチ、野うさぎ、野ねずみ、熊といったそれだけの四速歩行の野生動物が棲息しているそうだ。それらが食物連鎖にさらされながら逞しく生きているのは救いだとして、糞が至るとことにあってもおかしくない。しかし、僕があまりに一塊の量の多さに驚きを示すと、彼は長靴を履いた右足でそれを踏み潰しながら馬だと述べ、かなり遠いが山の北側に牧場があり、たまにそこから抜け出して山を散策していると説明した。
彼が踏みつけたその馬糞には細長いきのこが何本も生えていた。その残像が焼きつく。そうなると急に気が付くもので、土手や倒木に無数のキノコが生えていて、赤いキノコ、青いキノコ、茶色キノコと多様なキノコ世界があった。
それぞれキノコの特性が出ていて、細いものから背の高いものどれが毒があるかもわからないが、赤いキノコはやはりきれい過ぎて毒がありそうだ。青いキノコはやはりその冷たい彩色から毒がありそうだ。茶色のきのこはスーパーに並んだキノコ類に近いがハイカーが来ているのに採られていないことから、やはり食べられそうにはない。結局全部毒があるではないかと意味のない思考を持ちながらそんなキノコ世界に注目して見入られていく。そうなると群生しているというのだろうか。周りを囲まれているような感じは奇妙だ。その中でも一際目立つ大きなキノコは気味悪いので、思わず見つめてしまった。透けるような白いキノコ。この世には存在しないような漂白された繊維は十分存在感を示している。おぼろげに人形に見えてくる。僕は息を呑んで注視していた。
後ろから「おい!」と彼から声がかかる。
条件反射で振り向くと、……いない。
周囲を探すが姿はない。
辺りにはキノコがただ無言で佇んでいるし、それに圧倒されるような森の静けさが肌を逆立てる。それらの傘の群れは環境から受けるものはそんなほほえましいものでもない。
「どこだ?」
声が震えている。近くにいるはずの彼の位置は周りのキノコたちに拡散されていた。それらから無言で観察されていると息苦しさが喉を締め付ける。
「ここだよ」
もう一度振り向く。
彼を認めて安堵した。
「どうしたんだよ。ぼけっとして」
「いや、キノコが一杯だな。そこらへんに大きなのあったろう」
「何、どれ?」
彼のあたりには何もない。
彼を一瞬見失ったように、白いキノコがない。
なんであんな大きなものがと一瞬めまいがした。疲労で僕はどうかしている。
寒いが晴れていて、歩くのに支障はない。しかし、足に力が入らない。それでも再び歩き始めた。少し抜かるんだ泥に踵を沈ませながら、前を行く彼を観察していた。僕のスポーツもろくにやったことのないひ弱な足取りに対して、彼は画家の特有のイメージで細い体だが、そのわりには歩きなれている感じだった。
しばらく行くと彼の携帯がなる。着信メロディーは微かに聞いたことがあるような感じだがもともと歌の名前を覚えないたちで、昔の歌謡曲のようだ。軍歌ではなくどこか退廃的自由さを感じる。大正時代に流行ったものだろうか。死んだ祖父がよく自分の青年期に聴いていた曲のCD復刻版を購入し、毎日聴いていた。
しかし、彼は飄々と歩くままで、彼はとらない。そのうち、着信音は止んだ。
しばらくしてまた、同じメロディーがなったが、何事もないように周りを見渡しながら歩いていく。結構着信音は高いので聞こえないはずもなく、僕は疑問に思って聞いてみた。
「どうしてとらないの?」
「携帯の調子悪くて」
ちょっと彼の顔が少し険しくのが気になったが、「ふうん」とあまり追求しなかった。
ずっとしばらく着信メロディーは鳴り続け、たぶん曲調が戦前のものではないかと思うが、そんなものを今の携帯はダウンロード出来るのだろうかと思った。彼が携帯に詳しく、自分でメロディーを作ったなら多少はわかるかもしれない。彼の姿と家の様子から察するにあまり電子機器に詳しそうには思えないし、仮に見た目の印象と違っても、なぜそんな曲を着信音にしているかがわからなかい。
しばらくして止まったが終点付近にきたときにまた鳴り出し、重い口調で彼は話し始めた。
「この着信音を聴くとよく思い出すことがあるんだよね。おれが高校時代、ラジカセがあってね。それが買った当初から調子が悪くてしょうがないんだ。CDつけても、空回りするし」
「それはおれもあった。そのうち壊れるだよな。最近のはとくに早く壊れる。メーカーがそうして買わせようとしているみたい。修理するより、買ったほうが安い時代だから」
「そんな時代なんだけども、……しかしね、おれのはちょっとニュアンスが違うな」
意味を量りかねた僕は足を前に出しながら、彼の言葉を待つ。
「人はどうだか知らないが、俺の場合は鳴っていたメロディーが突然切れたり、タイマーもかけた覚えもないのにいきなり鳴り出したりするんだ」
「電波の状態が悪いか何か?」
CDに電波は関係ないので言ってから僕は苦笑した。
「まあ、そんなところだな」
彼は笑って浮かべた。
終点では夕陽が淋しげに草木に語りかけていて、ふたりでその光景をしばらく黙視していた。すると冷たいそよ風が揺らしながら急に体温が下がるような錯覚に陥る。実際急に温度が下がり大気中の湿度が増したのか、草木に露が溜まるのは何の現象なのだろうか。それらが全体に相乗していき、オレンジから次第に赤い液に変わり、黒く景色を染めていく。寂しげな空気にさらされるのを拒みながら、体温も下降してきて呼吸も整い始めた。
「誰か……」
彼は聞き取り出来ない声で言ったので、視線を向ける。
「誰か来たんだな」
「なぜわかるの?」
「ここに午前中棒を立てていたが、倒れている」
「なんで立てたのさ?」
「なんかまっすぐの棒だったので突き刺してみたくなっただけ。意味ない」
「風で倒れたんじゃない」
僕は応えながら、倒れた一メートルぐらいの枝を眺める。
「結構深く挿していたから、倒れるはずはない」
そのとおり、棒の根元の泥がえぐれていて、明らかに倒した形跡だが付近に足跡がない。これだけ土が湿っていれば何か形跡がありそうなのだが、動物さえないのだ。いや、僕らの足跡だけが雑然と残っている。
「何だろう?」
「さあ、誰か来たことは確か。まあ、そのうちわかるかもしれない。とにかく異常はない。降りよう!」
彼は身軽に踵を返した。僕は促されるまま降り始めた。