最終章(完結)
本当の完結です。ふせんをいろいろはりましたが、ここですべて出てきます。解決はありませんが憶測することは出来るでしょう。
空気が急速に変わったと思った。冷たさと数瞬の沈黙はやがて薄い霧を運んでくる。
すぐに霧が覆って、真っ白な視界は二メートルほどしかなくなった。生命力を感じさせない無機質な匂いが心を取り囲んでくる。冷気が漂い、それは霧状の風を寄せてやんわり肌を絞める。周りの木々の幹は黒く浮かび上がり、生身のものの気配はなく、それがこちらを見つめながら待ち構えているようだ。嫌悪すべきで、人型のように威圧する。
彼はどこかでこちらを見つめているに笑いながら違いない。そんなやつに付き合ってはいられない。
やがて風も大きく草木を揺らしはじめ、自分の身体をも左右に揺さぶる。白い霧が粒状に変化しはじめるのに不安に覚えながら、下山し始める。すぐに霧は小さな粒とかし、スプレーを顔面に浴びている気持ちのまま、そんな呼吸不全を味わいながらも足だけは動かした。
遠くに聞こえていた渓谷の声音は全く聞こえない。大粒の雨音だけが周囲を支配している。ほんの少し前までは湿った砂利道がすでにぬかるんで、幾筋もの細い川が表し、下方へ下れば下るほど合わさり泥水を突貫的に排出しようとしている。そこにいる人間などお構いなしで、邪魔だと脅迫してくるのに抗いながら、その水流の中に足を取られ、姿勢を持ち直しては進み、自分の息が激しく悲鳴を上げる。道沿いの風景など眺める余裕もなく、そこに石像が本当にあったのかさえあやふやに思え、駆け巡る水流の音は怒涛と化し、それは身の危険性を脳に伝え、呑み込まれようとしている自分をあせらせた。
そのときの山はまるで自然に還れと強制的な態度そのもので、そして、手伝ってやるから土に還れという。誰もそんな同化は望まない。促しても抵抗する。僕はその周囲の迷彩色に翻弄されながらも足を上げる。立ち止まったら終わりだと歯を食いしばり言い聞かせていた。
暴風雨でもって迫りくる山は凶暴性を隠そうともせず、道の行く先々でほぼ垂直に土砂が道になだれ込む。僕の進路を阻みそこをステップにしてさらに下方へ何もかも押し流す。もはやあらゆるものを吸収する粘着性を伴っていて、とてもここで立ち止まるわけにはいかなかった。その泥水は勢いよく土砂をいとも簡単に呑み含み、それを濁流として吐き出す。小さい石ころがごろごろと川となった砂利道を無造作に転がり、ゴミや木の枝あらゆるものを老廃物として流していく。たまに大きな石まで視界に止めながら、それに驚く余裕もなく帰路を急ぐ。いつ雷雨になったかもわからない状況で、たまに轟音によって身体が沈みそうになるのを踏ん張り、雨の音だけが身体に沈殿していくばかりだ。衣服に重たさが加わり、疲労にさらに重石を加えてくる。
最後の日にこれだ。何かが違ったのだ。傘はどこにいったのだろう。確か挿したが全く役に立たなかったのだ。どこかに投げ捨てたのだろうが覚えがない。まさかパトロールをやって自分でゴミを捨てるとは、悪態を口の中に含む。
山に取り残される恐怖に五体が震えている。ぽつんと誰の助けもありもせず、あるわけもなく、彼さえもこの呪縛する土地の住人だったのを思うとこれまでのことが混乱する。
これが山の別の一面なのだ。緑豊かな森だったが、あっという間に暗色系の風雨を激しく拡散している。土砂降りとはこういうものだ。その力に否応なく合流しながら急斜面を駆け下りる。もはや流されているのかもしれないとふと諦めかけた。流れるプールで溺れているようで翻弄されている。それでも姿勢を立て直し、すぐに崩されふらつきながらバランスを何とか保っていた。
長靴にはすっかり湿った靴下の感触は長靴の中で足を凭れるようで、冷たさを感じていた足は痛くなる。こんなにこの道は長かったか。一瞬道が違うのではないかと思いつつ、いや一本道だから間違えるはずはなく、と思い直す。
息は荒く乱れっぱなしで休むところも時間もない。
やはり彼のことが脳裏を掠める。彼は大丈夫だろうか。たぶん違う意味で大丈夫だろう。
展望台でタバコを吸っている男も山の住人。画家志望の彼は本当に存在したのか。化かされるのはこういうことかもしれない。山に込められた複数の残留思念が混和して押し寄せている。
すべてが走馬灯のようりに脳裏をめぐり、不安を惹起していたがもう通り過ぎている。
ここに来たとき物干しはきれいだったけど、何も置いていない生活感のなさは確かに首をひねった。五銭玉を紐で幾重にも結んで、首に提げる。そんなもの今時妻から渡されるか。戦争中じゃあるまいし、いつの時代の人間なのか。
何とか転ぶように麓の軽トラにたどり着く。運転席のドアにしがみつき、鍵を回す。半ば強引に開けた。
そして、のって慌てて発進。免許もないのにそれしか方法が思いつかなかった。なんとか彼の見まねだがエンジンがかかり、動き出した。エンスト寸前になりながらも何とか進む。雨で視界は悪く、気ばかりあせり、曲がり角の先ですぐに車体が何かに乗り上げる。
土砂が崩れ、道路を半分塞いでいたのだ。もうタイヤは泥に動きを封じられスリップばかりで空回り。前にも後ろにも行かず、エンストしてしまう。それでもエンジンをかけ、アクセルを踏むがそのまま段々道の外側へ滑っていく。
軽トラでは移動できない。
それでも家はあと少しだ。
前方見覚えのある家のかたちが薄っすらと見え、運転席からよろめくように降り、そちらへ向かう。普通歩くうちにその形がはっきりするものだが、なぜか朽ちていく。
やるせない気持ちが湧き上がる。家は原型を留めていない。廃墟になっていた。後ろを振り返ると軽トラは草に埋もれ錆びそこには林道さえなかったように。
僕はさすがにくたびれて膝をついた。肩に圧し掛かる重みに耐えられず、うなだれ倒れた。ぜいぜいと息を吐きながら、重い静けさだ。雨音が聞こえない。突っ伏した身体の前には泥を跳ねる無数の雨跡。しかし、音が消失したような感覚は朦朧とさせる。
意識を消していくとはこういうものなのかと虚ろに思う。お経みたいのが聞こえてきた。そのまま自分が消滅するのを恐れ、半ば強引に意識を戻す。
それが自分の鼓動だと気づくのはしばらくしてからだった。それはまだ生きている証拠だが、こんなにはっきりと聞こえると何か瀕死の状態なのかもしれない。
おかしさをごまかしていたがそのつけが一気に回ってきた証拠だ。彼はいつか誰かが林道に棒を立てたと言っていた。誰かそこに来ていたと説明するために。しかしよく考えれば、もともとそこに棒など建っていなかったのだ。その人物の足跡すらもなかったのは当たり前だ。つまりそれは事実そのもので、僕が気づかないうちに、彼は自分でその棒を建て倒したのに嘘をついていたのだ。
それではなぜだろう!
不安で胸騒ぎがする。
新聞の記事は彼自身の話か。時代は違うだろう。それが土地に篭ったものが表出した結果なのか。彼がこの土地に来たことで心身に蓄積されいたのではないか。
そのときは疑問にも思わなかったが、今思うと腑に落ちないことが多い。
壁に架けられた水銀の古い温度計。その温度は壊れていて常に38度。彼は気持ち悪いことを述べていた。人の体温ではないか。……本当はその亡くなった妻の微熱だと言いたかったのではないか。
熱を発したまま寝込み死んでいると記事にあった。
いつか彼の絵を見たときがあった。それは見覚えのある女性が描かれていた。それはガードレールに花束を手向けていた女性に似ていた。
この地方は冬でも暖かく、雪も滅多に降らないと聞いていたが、今思うと暖かすぎた。まるで残暑の香りがした。だいたい普通に考えれば月見草が二月に咲くなどありえない。
感謝状を贈られた記事のあと彼は妻を殺したのがばれて逃げ、あのガードレールに衝突し、死んだのではないか。いや彼女はかつてガードレールはなかったと言っていた。
もうひとつ根拠のない推論が浮かぶ。不法投棄の現場を押さえたとき、軽トラが一台降りてこなかった。僕らが取引した男性があのガードレールで死んだのではないか。いや、……本当に男性はいたのか。
彼には納戸にレシートが入っていたと述べていたが、たぶん遺影が入っていたんだ。本当は死んだ彼女の写真が一杯入っていたんだ。多分彼が破り捨てた。捨てても捨てても開けると入っている。そんな映像がなぜか思い浮かぶ。
腕で身体を持ち上げ這うように廃墟に向かった。自分が寝泊りしていた借家はガラスが割れ、内部に入るとほこりまみれだ。
謎ばかりだ。それが土地の残留思念の影響とでもいうのか。
埃を被ったテレビはリモコンのではなく、回すタイプのものでしかも壊れている。そこには夥しい数の昔の写真。主に若い夫婦の並んだ写真で、やはり古ぼけてはいるが彼の面影がある。誰が持ち込んだのか、マネキンが立っている。彼の服装を着ている。その胸の古ぼけたネックレスをとる。彼が妻からもらったという五銭玉だ。意味はたぶん四銭より上だからだ。もっとも戦争の時代に家庭用テレビはなかった。時代が混線しているとしか表現しようがない。
それでも会社へ確認のメールを送ってみた。すぐにあて先はないとの画面が液晶を揺らす。
胸の鼓動が激しくなっていく。
そして、初めて気がついたが、割れた窓の先に石塔が建っている。
鈍く立ち上がり、廃墟を出でてそちらに向かう。
覆っている蔦を掻き分け、その薄く爛れた岩肌を確認する。
彫られた文字には牧場の名前が刻まれている……そして、携帯が鳴りはじめる。あのメロディーだ。僕はおもむろに立ち上がり、山を降りようと決意した。
家のすぐ下方のように茶色の水が溜まっている。彼が言っていた沼は現れた。地中に沈んでいた思念が収まりきれずに地表に出てきたのだ。
あの女性は諭すように言葉を投げかけていた。
「牧場跡を見つけたら山を降りなさい」と。無性にあの女性の絵を描きたいのはなぜだろうか。結構意識はしっかりしてきて、ふとひとつの理解が脳裏を掠めた。
……それでも僕は死線を越えているようだ。
カタチにならなかった最後の作品です。非常に残念ですが、これも世の中の厳しさ。正直疲れた。
これまで読んでいただいたのべ600名あまりの方へ。
良い風に何かの足しになったかどうかわかりませんが、そうなることを願っています。ホラーとしては自分の精一杯です。
根気強く最後まで読んでいただいた方がいましたら、本当にありがとうございました。あなた様のご多幸を願っています。