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第五章(2)

 網戸越しに森のひんやりした空気が浸透してくる。少し曇り気味の山は湿気を多分に含み、小さな物音さえも反響して自然をいやがおうでも感じる。

 谷を翔るその音は渓谷に納まりきらずに部屋に染み込んでくる。渓谷の水量が増しているのだろう。ここからさらに上の森は重い雲が覆っているので雨が降っていたのだろう。重力に従って低いところに集まってくる雨粒は合流しながら勢い増しているのだ。

地上にもたらされるすべてのものを人は感じられないものだし、都合の悪いことは避けるものだし、なまじ世間にいると煩瑣な現実で気づかないものだ、とここに来てわかった。人には広大な森林の息吹さえ一瞬歓喜しても讃えきれないものかもしれないと、どこか陰気な心持ちがするのはやはりこれまでの生活にやりきれない思いがあるからだろう。

地球は陽光と雨によって生命を支えるのは頭ではわかる。昔は純粋に信じていたものだ。水の音を聞き流れゆく月日を忘れ、自然を思った。恵みの水分を与えながらも、それを含みきれずに山は身を削りながら自助力とでもいうべき発汗作用を起こす。そうしながらお互いに調和を求め、背筋を伸ばし鎮座している。

 その深閑とした体内にいる僕は寄りかかっているに過ぎない。

「何外みてんだよ」

 彼の声が静かに脳裏を横切り、引き戻そうとする。

「いや、静かだなと思って」

「町に比べたらそうだろう。もういい加減慣れたろ」

僕ら以外に息を潜めて寄りかかるものもいる。動植物だけでなく、そのほかの存在。寄りかかるものは互いに共生なんて……本当は生存するための闘争かも知れない。

 ここにいる僕らでさえいつ不毛な闘争に巻き込まれるかわかったものではない。そんなことを思いながら、今自分のいるべき状況に帰った。

 麓のコンビニにへの買い物の帰りに、谷底から入ってきた男性に出会い、家へ連れてきた。疲労感はあったが、軒先で寝転んでいた彼に事情を説明し、彼の招きで男性ともども家に入ったのである。

 するとテーブルには湯呑み一式が用意されていた。それも来客用のものだ。

「誰か来たの?」

 僕が居ない間に誰か訪ねてきたのかと思ったのだ。

「いや、おれのために買い物行ったから労うつもりで。俺の人徳だな。用意したのが湯呑み茶碗が三つ。さあ、どうぞ」

 そういうと慣れない手つきで男性にさし出し、そして僕、そして自分。

湯気が出ていない。出されたものは冷たい。

「あれ?さっき沸かしたのになー。やり直しますね」

「いや、歩いてきたからちょうどいい。助かった」

 男性はお礼を言ってお茶を少し口にする。そのあと、僕に述べた経緯を再度彼に話し、最後に牧場の場所を聞いてきた。

「さあ、ここらにはないですね。本当にこの近辺ですか?」

「おかしいな」

 男性は不思議そうに思案しています。

「どんな方たちですかね?」

「若い夫婦が経営している。そりゃーべっぴんの奥さんで身のこなしはしなやかだし、食事はうまいし、気が利いた方でしたよ。風呂も薪の風呂だけど焚いてくれて、しかも布団は羽毛のものだし、突然現れて今時泊めてくれる人なんていない。私はこの辺に子供の頃からちょくちょく来ていたがあんなべっぴんさんがいたとは……」

「で、なんで来たんです?」

 彼はどういうわけか不機嫌になっていた。スケベに感じたからだろうがそれは誰しも持つもので、しかし彼にはあまり愉快な話題なのだ。それくらいの性格の狭さなど彼の人間性に比べたら問題ないように僕には思える。人は自身が自分に許していることを他人には許さないものだ。確かに男性の口ぶり全般に野卑な匂いがしていた。

 男性はその雰囲気に気がついて戸惑ったのか、ちょっと黙り込んで

「いやー。だんなさんはどうも厩舎にいたもので遠くから眺めただけ。ちょうどおまえさんみたいにすらりとして格好良かった」

 ご機嫌を取るように男性は笑いましたが、

「で、なんで来たんです?」 

 彼は目じりを細めて冷たく言います。

「いやー。ドライブで……」

「本当ですか?軽トラに何か載せていたんじゃないですか。調べりゃわかるんですよ。」

「何を…!なんでもない。ただドライブだ!何を警察でもないのに若造がえらそうに。おれは帰る」

 怒鳴るように男性は立ち上がろうとした。

「別にしらを切るならきりなよ。あんたの軽トラは谷底、あんなところでは動かしようにも動かせない。仮に落ちたとき何も荷台に載せていなくても、荷台のカバーと縄ぐらいは残っている。そんなものなんの証拠もないと言い切れる?今ゴミの投棄の風当たりは強いよ。世間は少しのゴミ捨てぐらいは自分に許しても、あんたをざまーみろとばかりにたたくよ。警察も建前上放っておけないし、中には真面目に仕事する人もいるからくどいぐらい調べるね。会社から委託されているとは言え、産廃業者を取り締まる側にいるわけで私らが会社と警察に連絡すればどうなるかね?ただの転落事故で済めばいい。あんたが帰ってもナンバー調べればあんたの名前も出てくるだろうし、カッターナイフ持っているだけで銃刀法違反で逮捕される世の中だから、ましてやあんたの経歴をねほりはほりほじくるしね」

 自分が言われたら不快な言い回しで彼の顔が端正なだけに冷たいし、男性がどういった態度が出てくるか不安に感じた。もし男性が何もせず本当にドライブで来ていたらどうするのかと、成り行きを案じつつ平静を装った。

「うーむ。何もしていないって」

「じゃーなんであんな時間に来たのよ。実はナンバーも控えているし、写真も撮っているんだ」

 彼の言葉ははったりだ。僕らは昨日軽トラを見たが遠くて霧も深く、ナンバーさえも見ていない。

「……あんた見てたの?まいったなー。警察には連絡せんでくれ」

「だめだね」

「若造、なめんなよ!おれのバックには」

 二人はにらみ合う。

 僕は動悸が激しくなるのを感じながら、息を詰めて成り行きを見守っていた。

「便利なもので先ほどメールを書いて送っておいた。先ほど事情をある程度書いて、隠し撮りしたあんたの顔も添付しておいた。もし僕らがここで殺されてもあんたがここにいたのは間違いない。少々大げさに深刻ぶって書いてあるからね。もしおれらが死んだら谷底の軽トラからあんたは割り出される」

「まいったねーおれは人は殺せねい。取引しないかい?」

「条件によりますね」

「警察では取引なんてしないからな。あんたまだおれが不法投棄したとは言っていないんだろう。それならおれのことは黙っていて欲しい。変わりに明日おれの仲間が軽トラ数台で産廃をしにくることになっている。おれは下見がてらゴミを捨てたんだ」

「証拠はないじゃない?」

「明日待てばいい。どちらにしろ、おまえの言うとおり軽トラは谷底。あそこはおまえらとおれしかしらない」

「私が通報すればあんたも捕まる」

「それはおまえに任せる。おれはほとぼりが冷めた頃、警察に事故を届ける。こちらは歩が悪いが仕方ない。でも、もしおれのことで通報したらまず間違いなく仲間の恨みの矛先はおまえら。さらに仲間のバックの組織に知られる。にいちゃんその辺で手を打てよ。あんたらなんて誰も気遣ってくれんて、つまらん正義で命失った馬鹿をみるって」

「わかった」

「じゃ、そういうことで。お茶あんがとな」

 男性はそういうと出て行った。 

「いいのか?」

 僕は男性が林道を歩いていく後姿を追いながら尋ねた。

「あれでいいって、あいつにも一理ある。人が人を裁くなど本来不遜な考えだ。世間は昔は常識で動くと思っていたがでもそこから疎外されているからずっとやるせなかった。逆切れ気味で過ごしてふと、世間は本当は常識でなんて動いてないんだと思ったね。何で動いてるかは人間のパワーゲームよ。力ないものは社会の底辺で生きて我慢するしかない。力にこびれば多少楽できるって。おれらも力に身をまかせればいいのさ。どうせ突っ張ったってよくならない。警察でもあるまいし、おれらはとりあえず会社に連絡すればいい」

「そうだな。しかし、メール送ったなんて気転が利くね。いつの間に」

「あれウソ」

 ひょうきんに言う。唖然としていう。半ば唖然として僕は答えた。

「冷や汗ものだったんだぞ」

「いやー、成り行きでつい。おれも汗で下着がびっしょり」

 シャツがべとついていた。

「明日本当に来るのかね?」

「たぶん。男の言っていることはおおまかで本当だよ」

「おおまか?」

「どうだっていいじゃん。そんなの善悪二分法じゃわからないし、明日確認してあとは会社の対応だって」

 そう言いお茶を飲み干す姿はどことなくやる気に満ちていて、僕も「そやね」と少し興奮気味に答えた。


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