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てっぺい

 ゆうさくは田舎への帰り支度をしていた。といっても気に入った本と下着を何枚か鞄に詰めただけだった。もっと必要かも、と彼は思った。けどこれ以上詰めたくなかった。長い道中を重い荷物を背負って行くと考えると嫌な気分になったのだ。彼は鞄のジッパーを閉じることにした。

 彼の田舎は名古屋にある住宅街で、久しぶりに帰ってみるとずいぶん景色が変わっていた。誰も住んでいなかった古い民家は消えていた。マンションが建っていた。道路が広くなっていた。「八百屋は無くなってしまったんだね」彼は母に言った。彼の母は買ってきた買い物袋からいろんな食べ物を冷蔵庫に移しながら言った。「ゆうさくが前に来たときにはもう無くなっていたよ。ずいぶん前のことだよ」ゆうさくは冷えた梨を食べながら「そうだったかなあ」と言った。「そうだよ。ずいぶん前なんだよ」と母は言った。「そうだったかなあ。思い出せないなあ」とゆうさくは言った。「そうなんだよ」と母は言った。「ずいぶん前なんだよ」母は何度も屈んだり身を起こしたりした。ゆうさくはシャリシャリとお腹がいっぱいになるまで梨を食べた。

 彼が名古屋に住んでいた高校生の頃、近所にてっぺいという名前の男の子がいた。彼はよくその男の子と遊んだものだった。てっぺいは小学校低学年の男の子で、じゅんすいで可愛らしい子どもだった。猫毛の柔らかな髪をおろしていて、風が吹いたり走ったりするとふわふわなびいた。身長の低い男の子だったから、いつも上を向いて話した。白い肌の女の子のような顔をしていた。ゆうさくはてっぺいの小さな鼻をよく覚えている。子供の鼻の穴はこんなに小さいのだな、とてっぺいの顔を見るたびによく思った。それから、てっぺいの小さな指先を。それは同じ人間のものとは思えなかった。なにか別のものの、別の器官のもののように思えた。小さな白い指に爪が付いているのはもっと驚きだった。てっぺいはその指先を珍しい虫でも見るように眺めたのだった。 

 てっぺいにはその年頃の男の子に見える生意気さが無かった。

 「どこへ行くの?」とてっぺいはよく聞いた。

 ゆうさくが同じ年頃の仲間とでかけに行こうとすると、道の途中でてっぺいに出会うのだ。てっぺいはとりかかっていたこと――道路へのらくがきだとか蟻の行進を妨げるというような――を放りだしてゆうさくに話しかけた。ゆうさくは仲間への気恥ずかしさから戸惑った。ところが、仲間の方が面白がっててっぺいと遊びたがるのだった。

 「サッカーボールがしたい」

 てっぺいはよくそう言った。サッカーがしたいと言うでも、サッカーボールが欲しいと言うでもなく、サッカーボールがしたいと言った。それはゆうさくが田舎を離れるまでとうとう直らなかった。

 「サッカーボールがしたい」

 てっぺいはよくそう言った。

 ゆうさくが田舎を去る前の最後の年に、街に雪が降った。一帯を覆う積もる雪だった。屋根には雪が積もった。道路にも積もった。夜のあいだ雪を降らせ続けていた空は朝には晴れていた。空気が澄んでいた。雪によってあたりはぜんぶ白くなって、空の澄んだ空がひんやりと広かった。

 ゆうさくは笑いがこみ上げるような気持ちで外に出た。景色が変わって見えるのはたのしかった。知った家や、そばの畑や、黒いぴかぴかの車に雪が積もっているのは、なんだかせいせいする気分だった。ねこのひたいにすら雪が積もっているように思えた。

 公園へ向かう途中の道で、てっぺいに会った。

 「どこへ行くの?」

 てっぺいはそう言った。

 「公園へ行くんだよ」

 ゆうさくはそう答えた。

 「なんで?」とてっぺいは言った。「わかんないよ」とゆうさくは答えた。「雪が積もっているよ」とてっぺいは言った。「どうしてだろう。公園がどうなっているのか知りたいからだよ」とゆうさくは言った。雪を踏むぎゅうぎゅうという音がした。「公園はどうなっているの?」てっぺいは言った。「わかんないよ」とゆうさくは答えた。てっぺいはゆうさくを見上げていた。背の小さな子供だった。マフラーをしていなかった。寝巻きだった。灰色の上下に毛玉がついていた。胸の位置に英語でなにか言葉が書いてあった。「わかんないよ。それを見に行くんだよ」とゆうさくは答えた。

 てっぺいは走りだしていた。ゆうさくも追いかけた。公園はしばらく行った先にあるはずだった。ゆうさくはてっぺいの小さな姿が曲がり角に消えるのを見ていた。てっぺいのように一生懸命走ることは出来なかった。代わりに、ゆうさくは大人ぶってゆっくり走った。ほとんど歩くぐらいの速さだった。

 角を曲がった先の公園で、てっぺいは地面に伏していた。公園の入り口のところだった。ゆうさくはかけよって近づいた。ゆっくりとてっぺいの顔を上に向けた。ひたいのところが傷ついていた。黒と赤の混ざった濃い血が出ていた。ゆうさくはてっぺいのひたいに空いた深い空洞を見ていた。

 「どうしたの?」ゆうさくが言った。

 てっぺいは何も答えなかった。

 「大丈夫?」ゆうさくが言った。

 てっぺいは何も答えなかった。

 その代わりに泣き始めた。顔がすこしずつ歪んでいった。身体のおくそこから湧くような、深い泣きかただった。てっぺいは声を出して泣く代わりに、しゃっくりみたいに音をたてた。それからぽろぽろ涙をこぼした。

 ゆうさくはてっぺいをだきかかえててっぺいの家へ向かった。てっぺいは小さな子供だったから、持ち上げるのはかんたんだった。てっぺいは小さな手のひらを目にこすりつけて、泣いているのを隠そうとした。けど、歪んだ口元は見えていた。

 「どうなってるの?」とてっぺいは言った。

 「どうにもなっていないよ」とゆうさくは答えた。

 「縫うの?」とてっぺいは言った。ぎこちない言い方だった。覚えたての言葉だったのかも知れない。「ねえ、縫うの?」とてっぺいは言った。「縫わないよ」とゆうさくは答えた。「ほんとうに?」とてっぺいは言った。「本当に縫わないの?」てっぺいの言葉はたどたどしくて、「ぬう」という言葉をうまく発音出来なかった。覚えたての言葉を使うぎこちなさがあったのだ。「縫わないよ」とゆうさくは言った。

 てっぺいは親の車に乗せられて病院へ運ばれた。ゆうさくは心配したようにはてっぺいの親には責められなかった。むしろ彼らはゆうさくにお礼を言った。母親は慌てたようすでてっぺいを心配しながら何度もお礼を言った。てっぺいはその間も声を出しては泣かなかった。ただ、しゃっくりみたいな音をたてて泣いた。

 しばらくして道でてっぺいに会うと、額に大きなガーゼをしていた。ほうたいでその上を押さえてあった。てっぺいはゆうさくを見ると言った。

 「僕、縫ったんだよ」

 「そうかあ」とゆうさくは言った。

 「ななはり縫ったんだよ」

 てっぺいの言い方は自慢気だった。

 「痛かっただろう」とゆうさくは言った。

 「痛くなかったよ。ますいをしたんだ」

 てっぺいは自慢気にそう言ったのだった。

 


 ゆうさくが田舎に帰って来て3日が過ぎた日、彼は駅まで父親を迎えに行くために車を出した。家から表の道路へ出るまでには民家の間を過ぎていかなくてはならなかった。その中にはてっぺいの家もあった。ゆうさくは民家の間を、人が飛び出るのを心配してゆっくり走った。

 てっぺいの家を過ぎた時、てっぺいの家から一人の少年が出てくるのが見えた。ゆうさくはそれをバックミラーで見た。彼はちゅうぐらいの背をした高校生ぐらいの少年だった。柔らかな髪があった。小さな鼻があった。それから太い眉があった。ゆうさくはバックミラーを見ながら、彼はたぶんてっぺいだろうと思った。剃った髭の後があった。髪は整えてあった。濃い眉は子供の時は無かったものだ。女の子のような白い肌は失われていた。彼の肩から胸にかけての骨格は、男っぽくがっしりとして見えた。

 ゆうさくはバックミラーの中で、てっぺいと目が合ったように思った。鏡の中で彼はゆうさくを直視しているように思えた。ゆうさくは幼いてっぺいを思い出していた。それから、それにくっついてやってくる古い記憶を。雪の景色や、すでに無くなった公園のことを。広くおおきな記憶だった。その世界を映すにはバックミラーでは狭すぎるほどの。それは色を持った鮮やかな一瞬だった。

 てっぺいはすぐに目を逸らしてしまった。彼はもう携帯電話を見ていた。ゆうさくは車を走らせて父のいる駅へ向かった。彼の見た一瞬は、長いこと車内に残っていた。

 











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