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偽りの神託で私を断罪した聖女候補様、その罰はすべてあなたに返るそうですよ? ~幽閉も没収も追放も、ご自分でどうぞ~

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/10/28

「神託により、悪女セレスを北の塔に幽閉せよ」


北の塔。……北の塔?


聖女候補ジゼル様の澄んだ声が、王宮の大広間に響きわたった。

楽団の音がぴたりと止まり、何百という目が、一斉に私のほうを向く。


私は扇を口もとに当てたまま、首をかしげそうになるのをこらえた。


「聞いたな、皆の者!」


壇上で、婚約者の王太子ギルベルト殿下が両手を広げた。

金の巻き毛を揺らして、それはもう楽しそうに。


「神は、この女の悪行をすべてご覧になっていた!聖女ジゼルを陰でいじめ、私の心を縛りつけてきた悪女、セレス・ハルトヴィヒとの婚約を、ここに破棄する!」


ジゼル様が、殿下の腕にすがってきゅるりと目を潤ませる。

亜麻色の髪に、白いドレス。絵に描いたような可憐な聖女候補様だ。


私は、ジゼル様をいじめたことは一度もない。


というより、話したことすらほとんどない。


十二の歳に婚約してから六年、殿下が狩りや賭け事に出かけているあいだ、私はずっと執務室で殿下の書類を片づけていたのだから。


胸の奥が、ずきりと痛んだ。


中指にはペンだこができて、目の下の隈はなかなか消えなくなった。


それなのに、たった一言、「悪女」だなんて……。


「……六年、ですのよ」


扇の陰で、思わず声が漏れた。自分でも驚くほど、かすれた声だった。


「六年、殿下の尻ぬぐいをしてまいりましたのに。それを、悪女、ですって」


幸い、殿下の高笑いにかき消されて、誰の耳にも届かなかった。


扇を握る指に、力がこもる。骨がきしりと鳴った。

泣いてなんか、やるものか。この人の前でだけは、絶対に。


「セレス……!」


人垣の向こうで、父が真っ青な顔をしていた。

侯爵家の当主で、優しくて、気が小さい父だ。今にも倒れそうになっている。


神託に逆らえば、罰は家ごと受けることになる。父は、それを知っている。


父の手が震えているのが、遠くからでも見えた。

喉の奥が、かっと熱くなる。



ごめんなさい、お父様。


私は父に向かって、小さく首を振った。


「……大丈夫ですわ、お父様。逆らいませんから」


声にならない声で、唇だけをそう動かした。父が、泣きそうな顔でうなずいた。


「神託執行官、前へ」


殿下が声を張ると、黒い法衣の青年が一人、人垣から進み出た。


背が高く、黒髪をきっちりと撫でつけている。

表情というものを、どこかに置き忘れてきたような顔をしていた。


「あの石頭の執行官か」


「去年、陛下の勅使にまで文面どおりに突き返したそうよ」


人垣のあちこちで囁き声がした。



「大聖堂神託執行官、ヴァルターと申します」


彼は、殿下にも私にも、同じ角度で頭を下げた。


「神託は一字一句、そのまま執行いたします。言葉を足すことも、引くことも、内容を曲げることも許されません。かつて神託を曲げ、私腹を肥やした者がおりましたので。……セレス・ハルトヴィヒ嬢。異議はございますか」


この国では、神託は王命よりも重い。


大広間の奥の玉座で、国王陛下が苦い顔をしておられた。

陛下でさえ、神託は覆せない。


膝が震えないように、足の裏に力をこめる。

私はドレスの裾をつまんで、静かに一礼した。


「……謹んで、神託に従います」


ジゼル様が、殿下の腕の陰で、にんまりと笑ったのが見えた。


殿下も、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。


けれど私の頭の中は、まだ一つのことでいっぱいだった。


北の塔。

百年前は罪人を閉じこめる塔だったと聞いている。けれど、今は確か……。



「……文書庫、ですわね」


北の塔の螺旋階段を上りきった私は、思わず呟いた。


扉の向こうは、天井まで届く書棚でぎっしりと埋まっていた。

古い紙と、黴と、蝋の匂い。


窓から差しこむ月明かりの中で、埃がきらきらと舞っている。

その奥の、鉄格子のはまった窓の下に、寝台が一つ申し訳程度に置いてある。


「幽閉の場所として、神託に示された塔です」


後ろから、ヴァルター様の平らな声がした。


「神託には『北の塔』とだけあり、『牢』とも『部屋』とも書かれておりません。ですので、塔の中であれば、どこにいらしても神託に背くことにはなりません」


「まあ。では、書棚のあいだを歩いていても?」


「ええ、塔の中ですので」


私は、少しだけ笑ってしまった。



「ヴァルター様は、わたくしの見張りなのですか」


「神託の執行が、私の務めですので。幽閉が正しく続いているかを見届けます」


彼は扉の脇に、背筋を伸ばして立った。

そのまま朝まで立っているつもりらしい。


「……朝まで、そこに立っていらっしゃるおつもり?」


「執行官は、座ってはならないとは定められておりません。ですが、座ってよいとも定められておりませんので」


「では、わたくしが『お座りになって』とお願いしたら?」


「お願いは、神託ではございません」


「まあ……お堅い人」


ヴァルター様は、しばらく黙っていた。

それから、部屋の隅の古い丸椅子を、ひどくぎこちない動きで引き寄せた。


「……ですが、お断りする理由も、書かれておりません」


背筋をまっすぐ伸ばしたまま、丸椅子にちょこんと腰かける。

その姿がおかしくて、私は扇の陰で唇を噛んだ。


笑ったら失礼だ。でも、肩から、すうっと力が抜けていくのがわかった。




私は燭台に火を灯して、書棚の間を歩き出した。


じっとしているのは性に合わない。それに、書類いじりは嫌いではなかった。

殿下の代わりに六年、王宮の書類を片づけてきたのだから。


税の記録、古い地図。百年前の祝宴の献立表……。

様々な書類が、入り混じって保管されている。


いちばん奥の棚の前で、私は足を止めた。


その棚は周りと比べて不自然に埃が薄く、最近誰かの手が入ったのは、一目瞭然だった。

棚の下段には、王家の封印をした木箱がいくつも積まれていた。

そして古い背表紙の列の中に、一冊だけ、真新しい黒い革の帳簿が差しこまれていた。


手に取って、開く。


見覚えのある、右に傾いた癖字が目に飛びこんできた。

それは、殿下の字だった。


「……あら」


ページをめくる。


軍費、北方守備隊の冬の装備。その金額の横に、小さく書き添えてある。賭場「銀の鹿」へ。


次のページも、その次のページも、書かれていたのは、軍費が賭場の借金の穴埋めとして流用されていたという、動かぬ証拠だった。


燭台の火が、かすかに揺れた。指先が、すっと冷えていく。


この数字には、見覚えがあった。

殿下の代わりに、私が守備隊の装備の書類に判を押した、あの日の数字だ。

私の判で送り出したはずの冬の外套が、賭場の借金に化けていた。


北方守備隊の兵士たちは、この冬、薄い外套で国境に立っていたのだろうか。


「……なんてこと」


声が、勝手に口からこぼれた。


頭の芯が、かっと熱くなった。

帳簿を持つ手が震えて、頁がかさかさと鳴る。


「兵士たちが凍えていたあいだ、殿下は、このお金で賭け事を……?」


誰に聞かせるでもなく、言葉が次々にあふれてくる。


「許せない。……許せませんわ、こんなの。あの方、国境に立つ兵士の顔を、一度でも思い浮かべたことがおありなのかしら」


悲しいのではなかった。腹の底から、怒っていた。


殿下はきっと、侍従に「誰も来ない場所へ隠せ」と命じただけなのだろう。


それがどこかも確かめずに。

侍従が選んだのが、書類を放りこむ下働きのほかは誰も上らない、この塔だった。


そして殿下は、帳簿がどこに隠されたかも知らないまま、「悪女は北の塔へ」という昔話の決まり文句のような神託を書いた。


「セレス嬢」


扉の脇から、ヴァルター様が声をかけてきた。


「その帳簿は」


「殿下の、裏帳簿のようですわ」


私は帳簿を閉じて、胸に抱えた。


「神託には、塔の中の書類を読むなとは書かれておりませんわよね?」


ヴァルター様は、少しだけ黙った。


「……書かれておりません」


「ヴァルター様。北方守備隊の冬の外套は、この冬、届いたのでしょうか」


「届いた、とは聞いておりません。国境では凍傷が出たと」


喉が、ひくりと引きつった。


「この装備の書類に判を押したのは、わたくしです」


声が震えた。止めようとしても、止まらなかった。


「殿下の代わりに、わたくしが押しました。わたくしの判で、兵士たちに外套が届くはずでした。それなのに……わたくしは、何も知らずに、次の書類をめくっていたんです」


帳簿を抱える腕に、力がこもる。革の表紙が、胸に食いこんだ。


ヴァルター様は、まっすぐに私を見た。


「判を押したのは、あなたです。ですが、金を賭場へ流したのは、あなたではありません」


平らな声だった。慰めの言葉でも、優しい言い回しでもない。ただ、事実を一字一句そのまま並べただけの言葉。


それなのに、胸の奥で張りつめていたものが、ぷつりと切れそうになった。


私は唇を引き結んで、帳簿を抱きしめ直した。


「……だったら、この帳簿、絶対に無駄にはいたしませんわ」


「はい」


ヴァルター様は、それだけ答えた。



幽閉は、思っていたよりずっと穏やかだった。


ヴァルター様は朝になると交代の執行官と入れ替わり、夜になるとまた戻ってきた。

そして毎晩、なぜか薄い茶と毛布を持ってくる。


「幽閉の神託に、茶を出すなとは書かれておりませんから」


「凍えさせよとも、書かれておりませんものね」


「そのとおりです」


真顔で言うので、私はとうとう吹き出してしまった。

ヴァルター様の眉が、ほんの少しだけ困ったように下がった。


声を立てて笑ったのは、いつ以来だろう。

毛布の温かさが、肩から胸へじんわりと沁みていく。


断罪の夜からずっと固まっていた何かが、少しだけほどけた気がした。


「ヴァルター様は、どうして執行官になられたのですか」


茶を飲みながら尋ねると、彼は少しだけ目を伏せた。


「子どものころ、父の家が、曲げられた神託で潰されました。神託を都合よく読みかえた者が、父の土地を手に入れたのです」


最初の夜、彼が言っていたことを思い出した。かつて神託を曲げて私腹を肥やした者がおりましたので。


「ですから、私は一字も曲げません。足しも、引きもしません」


胸が、きゅっと締めつけられた。この人の石頭は、ただの性分ではなかったのだ。


「……だから、あんなに石頭でいらっしゃるのね」


「石頭、とはよく言われております」


真顔で返されて、私は茶にむせそうになった。


三日目の朝、塔の下に侯爵家の荷が届いた。


「神託は『幽閉せよ』のみ。差し入れを禁ずる文言はございません」


ヴァルター様が中身を一つずつ改めてから、渡してくれた。


厚手の冬の外套。料理番のハンナが焼く、私の好きな胡桃の焼き菓子。替えの靴下まで。


底に、父の手紙が入っていた。


『食べているか、眠れているか?お前は何も悪くない。神託に背くわけにはいかないから、会いには行かない。だが、毎日待っている』


インクが、ところどころ滲んでいた。

父の字は、昔からこんなに震えていただろうか。


「……お父様の、ばか」


声が震えた。


「こんなに字を震わせて。ご自分のほうが、眠れていらっしゃらないくせに」


外套を抱きしめると、屋敷の暖炉の匂いがした。

私は手紙を胸に押し当てて、少しだけ泣いた。


お父様。何も悪くないと、言ってくださるのですね。


喉の奥がつまって、しゃくりあげる声が漏れた。慌てて顔を背けると、扉の脇で、ヴァルター様が窓の外へ顔を向けていた。


「……私は、何も見ておりません」


「……見張り、なのでしょう?」


「泣いてはならぬとは、神託に書かれておりませんので。見張る必要がございません」


涙が止まらないまま、私は笑ってしまった。泣きながら笑うなんて、子どものとき以来だった。


塔の中で、私は殿下の裏帳簿を一行ずつ写していった。


ヴァルター様は扉の脇で、それを黙って見ていた。


写し終えた夜、私は彼に尋ねた。


「幽閉されている者が、陛下に申し立てをすることはできないのでしょうか」


「執行官には、幽閉中の者の申し立てを陛下へ取り次ぐ務めがございます。神託に、それを禁じる文言はございません」


翌朝、写しは封をされて、陛下のもとへ届けられた。

その翌日の夕暮れ、殿下が塔へやってきた。


「ここに、私の……いや、王家の書類があると聞いた。調べさせてもらう」


顔が真っ青だった。

私が北の塔に入ったと聞いて、侍従が青ざめて白状したのだろう。


扉の前に、ヴァルター様が立ちふさがった。


「幽閉中の塔への立ち入りは、執行官の立ち会いのもとでのみ許されます。また、神託に『塔の書類を持ち出せ』とは書かれておりません」


「私は王太子だぞ!」


「神託は、王命より重うございます」


殿下は歯ぎしりをして、螺旋階段を下りていった。


私は、帳簿を抱えたまま、その背中を見送った。


あの人は、一度も私の顔をまっすぐ見なかった。

六年も婚約者だったのに。悔しさが喉もとまでこみ上げてきて、私は唇を噛んだ。


「……一度くらい、こちらをご覧になったらいかが」


遠ざかる足音に向かって、小さく呟く。もちろん、届くはずもなかった。


「お怪我は」


扉を閉めたヴァルター様が、振り返って言った。


「いいえ。……でも、悔しいですわ」


言葉が、勝手にこぼれた。


「六年、婚約者でしたのに。あの方は、一度もわたくしをまっすぐ見ませんでした。今日も。断罪の夜も、勝ち誇って見下ろすばかりで。六年のあいだ、ずっと」


ヴァルター様は、少しだけ考えるような顔をした。


「では、その分は、私が見ておきます」


「……え?」


「見張りですので」


真面目な顔だった。冗談のつもりは、たぶん少しもない。


顔が、かっと熱くなった。私は慌てて帳簿で顔を半分隠した。


焦った殿下が次に何をするか、だいたい見当がついていた。


その夜、ヴァルター様がぽつりと言った。


「大聖堂の正面の石柱に刻まれている予言を、ご存じですか」


「建国の大聖女様の予言、ですわね。言い伝えだと聞いております」


「執行官のあいだでは、戒めとして教わります」


ヴァルター様は、目を閉じて諳んじた。


「『いつか、偽りの神託を告げる者が現れるだろう。その者が告げた罰は、やがて、すべて自らに帰ってくるだろう』」


燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。


「神託を一字一句執行するのが、私たちの務めです。執行官に預けられた力は、嘘を封じる誓約の印ひとつだけ。大聖女様が遺された、本物の力です。だからこそ、執行官は誰よりも、神託が偽りでないことを願っています」


彼は、私の手もとの帳簿に目を落とした。


「……あなたが、悪女には見えないので」


「それは、執行官としてのご意見ですか」


尋ねる声が、思ったより細くなった。


ヴァルター様は、しばらく黙っていた。


「……いいえ。私個人の、です」


それきり、ヴァルター様は口をつぐんだ。耳が、ほんの少し赤かった。


私は、写していた手が止まっていることに気づいた。

胸の奥が、妙にくすぐったかった。


……違う。くすぐったいだけじゃない。

悪女と呼ばれてから、誰かがまっすぐ私を見てくれたのは、これが初めてだった。

目の奥がじんと熱くなって、私は慌てて帳簿に顔を伏せた。



二つ目の神託が届いたのは、幽閉から七日目のことだった。


「神託により、悪女セレスの持ち物をすべて取り上げ、聖女ジゼルに与えよ」


塔の下の広間で、ジゼル様が読み上げた。

殿下が隣で、にやにやと笑っている。


侯爵家の屋敷から、私の宝石箱やドレスが次々に運びこまれてきた。

ジゼル様は目を輝かせて、真珠の首飾りを胸に当てている。


「まあ、素敵! 悪女にはもったいないものばかりね」


真珠の首飾りは、亡き母の形見だった。

ジゼル様の白い首にそれが掛けられるのを見たとき、息が止まりそうになった。



返して。


叫びそうになる声を、私は奥歯で噛み殺した。

爪が手のひらに食いこんで、じんと痛む。今は、まだだ。


「……それは、お母様の首飾りですわ」


それでも、低い声が一言だけ漏れた。

ジゼル様は、ちらりとこちらを見て、くすりと笑った。


「あら。今はもう、わたくしの物よ?」


「……ええ。今は、ですわね」


私は、にっこりと微笑み返した。

微笑んでいないと、手が出てしまいそうだった。


殿下が、私の腕の中の黒い帳簿を指さした。


「その帳簿もだ! 悪女の持ち物は、すべて取り上げろ!」


「……やっぱり」


思わず呟いていた。

この神託の本当の狙いは、宝石ではなくこれだったのだ。


ヴァルター様は、帳簿の表紙をちらりと見て、首を横に振った。


「この帳簿は、セレス嬢の持ち物ではございません。殿下の筆跡の、殿下の帳簿です。神託は『悪女セレスの持ち物』と定めておりますので、取り上げられません」


殿下の顔が、引きつった。

ヴァルター様は、何事もなかったように、持ち物の目録を読み上げていく。


「真珠の首飾り、一。絹のドレス、十二。……それから、証書。セレス嬢の名義のものは、すべて持ち物に含まれます」


「書類なんていらないわ。全部まとめて、わたくしの部屋に放りこんでおいて」


ジゼル様は、宝石箱から目を離さずに言った。


私は、その証書の中身を知っている。


殿下の、賭場への借金の保証証書だ。


二年前、殿下は賭場への借金の保証人に、私の名前を書かせた。

「婚約者なら、保証人くらい引き受けろ」と言って。

断れば、侯爵家との縁談の約束を反故にすると脅されて。


そして証書を私に押しつけて、こう言ったのだ。

「この国では、証書の持ち主が名義人だ。お前が持っていろ」。


「ヴァルター様」


私は小声で尋ねた。


「わたくしの名義の保証証書も、聖女様に移るのでしょうか?」


ヴァルター様は、目録から顔を上げずに答えた。


「この国では、証書の持ち主が名義人です。神託が証書を移すなら、名義も移ります。神託に、例外は書かれておりませんから」


そして、ペンを走らせながら付け加えた。


「なお、名義が変わった場合、執行官は債権者に通知する決まりです。本日中に、賭場『銀の鹿』へ通知を出します」


ジゼル様が持ってきた神託の写しが、ヴァルター様の手もとに置かれていた。


私は、その紙にそっと目を落とした。


それは右に傾いた、見覚えのある癖字だった。


ジゼル様は真珠を首にかけて、くるりと回ってみせていた。

その足もとに、保証証書を含む書類の束が無造作に積み上げられていく。


私は、扇の陰でそっと目を伏せた。


「……ご愁傷さまですわ、聖女様」


扇の内側でだけ、小さく呟く。

隣でヴァルター様の肩が、ほんのわずかに揺れた気がした。



三つ目の神託は、大聖堂で告げられることになった。


殿下は焦っていた。


私が幽閉されても、婚約破棄に眉をひそめる貴族が少なくなかったのだ。

私の「悪行」を、皆の前ではっきりさせる必要があった。


大聖堂は、人で埋まっていた。


正面の石柱には、建国の大聖女の予言が刻まれている。

誰もが知っているのに、誰も気にとめない古い文字。


玉座には国王陛下。最前列には、青ざめた父。


祭壇の前に立ったジゼル様が、高らかに告げた。


「神託により、悪女セレスは殿下の前で、真実のみを語れ!」


殿下が、勝ち誇ったように私を見た。

それから、最前列の父へちらりと目をやって、私にだけ聞こえる声で囁いた。


「侯爵家が神託に背いたとなれば、どうなるかな。さあ、皆の前で……いじめました、と言え」


心臓が、どくんと跳ねた。

最前列の父が、すがるような目で私を見ている。


「……卑怯ですわ、お父様を盾にするなんて。それが、六年婚約者だった女に言うことですの?」


「卑怯で結構。さあ、言え」


……怖い。手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。


神託を自分で書いている殿下は、神の力など何ひとつ信じていない。

誓約などただの飾りで、家を人質に取れば、私は皆の前で嘘をつくと踏んでいるのだ。


偽物を作る人ほど、本物を侮るものだ。


恐怖の下から、もっと熱いものがせり上がってきた。

六年分の、言えなかった言葉だった。


「……いいえ、殿下」


私は、殿下の目をまっすぐに見返した。


「言わせていただきますわ。神託どおり、真実だけを」


ヴァルター様が、私の前に立った。


「神託の誓約を、執行いたします」


ヴァルター様の指先が、私の唇の前で、大聖女様の遺した誓約の印を小さく切った。


喉の奥に、ひやりとした白い光が灯った気がした。

この誓約がかかっているあいだ、私は嘘をつけない。


それなら、話は簡単だ。

私は、殿下をまっすぐに見上げた。


「わたくしは、ジゼル様をいじめたことは、一度もございません」


大聖堂が、ざわりと揺れた。


誓約の下では、嘘はつけない。誰もがそれを知っている。


殿下の顔から、笑みが消えた。


「わたくしは六年、殿下の代わりに執務室で書類を片づけてまいりました。殿下は、その間、狩りと賭場にお出かけでした」


「だ、黙れ!」



言葉にするたびに、胸の中で固く結ばれていたものが、一つずつほどけていく。こんなに息がしやすいのは、いつ以来だろう。


私は、抱えてきた黒い革の帳簿を開いた。


「北の塔で、この帳簿を見つけました。これは殿下の帳簿です。北方守備隊の冬の装備に充てるはずだった軍費が、賭場『銀の鹿』の借金の穴埋めに流れております」


大聖堂じゅうが、息をのんだ。


最前列の武官が、顔色を変えて立ち上がった。


「我が北方守備隊は、この冬、凍傷で三人が指を失いました。……装備の金は、そこへ流れていたのか」


「それから、この頁ですが……」


私は、帳簿の終わりのほうをめくった。


「神官長様への支払いの記録がございます。名目は、聖女認定の礼、と」


祭壇の脇に控えていた神官長が、ぐらりとよろめいた。


「そして、わたくしの持ち物を取り上げよという神託の写し。あの紙の字は、この帳簿と同じ、殿下の筆跡でございました」


私は顔を上げた。


「神託の文面は、殿下がお書きになっていたのです」


そこまで言って、私は大きく息を吸った。


「……六年分、ようやく申し上げられましたわ」



しん、と大聖堂が静まり返った。


殿下の唇が、わなわなと震えていた。

ジゼル様は、真珠の首飾りを握りしめて、真っ白な顔をしている。


そのとき、大聖堂の扉が乱暴に開いた。


「失礼!賭場『銀の鹿』の者だ!」


人相の悪い男たちが、ずかずかと入ってくる。

先頭の男が、一枚の紙を振りかざした。


「大聖堂の執行官様から、保証人が変わったってご丁寧な通知が届いてな!聖女のジゼル様ってのはどちらだ。今月の取り立てに参りましたぜ!」


ジゼル様が、ひっと悲鳴を上げた。


「な、何のこと!?わたくし、保証人なんかじゃ……」


「神託により、セレス嬢の名義の書類は、すべてあなたに与えられました」


ヴァルター様が、平らな声で言った。


「保証人の名義も、例外ではございません」


ジゼル様の顔が、白から土気色へと変わっていった。


「ち、ちがう、ちがうわ、こんなの……!」


ジゼル様は、祭壇の前で両手を振り上げた。


「神託よ!神託により、悪女セレスを国外へ追放せよ!今すぐ、この国から出ていって!」


叫ぶような声だった。


人々が、ざわりとどよめいた。

神託とは、そう都合よく、今この場で降りてくるものだったろうか。


人々の目が、すうっと冷えていくのがわかった。


私は、少し考えてから尋ねた。


「どちらの国境からでしょう?」


「え?」


「神託は一字一句そのまま執行されますので。国境は東西南北にございますわ。どちらから出ればよろしいのかしら」


ジゼル様が、口を開けたまま固まった。



その瞬間だった。

正面の石柱が、光り始めた。



刻まれた古い文字が、一文字ずつ、白く燃えるように浮かび上がっていく。


『いつか、偽りの神託を告げる者が現れるだろう』


ざわめきが、悲鳴に変わった。

それは、誰もが言い伝えだと思っていた文字だった。


『その者が告げた罰は、やがて、すべて自らに帰ってくるだろう』


最後の一文字まで光が走った瞬間、ジゼル様の体が、びくりと跳ねた。


「あ……あ……」


ジゼル様の唇が、勝手に動き始めた。


「わ、わたくし、神託なんて聞いたことないの。殿下が書いた紙を読んでただけ。王太子妃になりたかったの。殿下が神官長様にお金を払って、わたくしを聖女候補にしてくれたの。セレス様にいじめられたなんて嘘。全部、嘘……!」


自分の口を両手で押さえても、言葉は指の隙間から溢れ出てくる。


真実のみを語れ。


ジゼル様自身が告げた罰が、ジゼル様に帰ってきたのだ。


首にかけていた真珠の首飾りが、ひとりでに留め金を外して、私の足もとに転がってきた。

ジゼル様の部屋に積まれた私の宝石箱もドレスも、今ごろは同じように戻ってきているのだろう。


それだけではなかった。

ジゼル様自身の白いドレスの飾りも、胸の聖女候補の徽章も、指輪も、ひとりでに外れて床に落ちた。


持ち物をすべて取り上げよ。

自分が告げた罰が、今度は自分の持ち物に向かったのだ。


ただ一つ、保証証書の名義だけは、ジゼル様から離れなかった。


そう、保証の契約は、とうに賭場の帳場でジゼル様の名前に書き換えられていたのだから。



足もとに転がってきた真珠の首飾りを、私は両手ですくい上げた。

冷たい粒が、指のあいだで小さく鳴る。


「……おかえりなさい、お母様」


胸に抱きしめると、こらえていたものが、喉の奥までせり上がってきた。


「予言が……成就しています」


ヴァルター様の声が、かすかに震えていた。


「偽りの神託の罰は、告げた者に帰ります。北の塔への幽閉。持ち物の没収。真実の誓約。……そして、国外への追放」


「い、いや!いやよ、殿下…助けて!」


ジゼル様は、殿下の腕にすがりついた。


殿下は、その手を振り払った。


「わ、私は知らん!この女が勝手に……!」


「ギルベルト」


玉座から、低い声が落ちた。


国王陛下だった。


「帳簿の写しは、幽閉中のセレス嬢から申し立てとして、とうに余のもとへ届いておる。だが神託は、余にも覆せぬ。偽りと証される日を待つほかなかった。……筆跡が誰のものか、余が見間違えるとでも思うか」


殿下の膝が、がくりと床に落ちた。


「軍費を賭場に流し、神官長を買収し、偽りの神託で婚約者を陥れた。……偽りの神託を告げた者は、神が裁かれた。それを書かせたそなたの罪と、王太子として民を裏切った罪は、余が裁く」


陛下は、静かに告げた。


「本日をもって、王太子の位を剥ぐ。北方守備隊が凍えた冬を、そなたも北の砦で一度過ごしてくるがいい」


殿下は、何も言えなかった。


神官長が衛兵に両腕をつかまれて連れていかれ、賭場の男たちが、泣き叫ぶジゼル様の両脇に立った。


「北の塔の幽閉が先です」


ヴァルター様が、一字一句を確かめるように言った。


「そのあと、国外へ。国境の指定がございませんので、東西南北のいずれかを、ご本人にお選びいただきます」


「どの国境から出ようが、どこまでも追いかけますぜ」


賭場の男は、にやりと笑ってから、床に膝をついた殿下を見下ろした。


「それと、元殿下。保証人がどうなろうと、元本の借り主はあなた様だ。北の砦まで、ちゃんと取り立てに伺いますんで」


殿下が、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。


ジゼル様の泣き声が、大聖堂の扉の向こうへ遠ざかっていった。


北の塔は、文書庫だ。


埃と黴の匂いの中で、少しは古い書類でも読めばいい。

北の塔が今は何の塔なのかくらいは、覚えて出てこられるでしょう。



大聖堂を出ると、父が駆け寄ってきた。


「セレス……!セレス、よかった、本当に……」


父は、私を抱きしめて、子どものように泣いた。

私の肩が、父の涙でじんわりと濡れていく。


「お父様、お手紙……ありがとうございました。外套も、焼き菓子も、全部」


「字が、ひどかっただろう」


「ええ。ひどく震えておりました。……だから、うれしかったんです」


気づけば、私の目からも涙がこぼれていた。

断罪の夜から、殿下たちの前では一滴もこぼさずにこらえてきた涙だった。


「ご心配をおかけしました、お父様」


「逆らわないと言ったから、本当に何もしないつもりかと……」


「何もしておりませんわ。神託に従っただけですもの」


父は、泣き笑いの顔で私を見た。


「お前は、昔からそういう子だったな…」


ジゼル様の首にかかっていた母の形見を、すぐに身につける気にはなれなかった。

真珠の首飾りを、父の手に預ける。

父がそれを大事そうに懐へしまうのを見届けてから、私は振り返った。


大聖堂の階段の下に、黒い法衣の背の高い人影が立っていた。


ヴァルター様は、私が近づくと、いつもと同じ角度で頭を下げた。


「幽閉の執行は、本日をもって終了いたしました」


「長いあいだ、見張りをありがとうございました。お茶も、毛布も」


「……神託に、書かれていなかったことですので」


彼は、懐から一枚の紙を取り出した。

きっちりと角を揃えて二つ折りにされた、小さな紙だった。


「これは、神託ではありません」


ヴァルター様は、紙を私に差し出した。

指が、少しだけ震えていた。


「私個人の願いです。ですので、言葉を足さず、引かず、曲げず。文字どおりに受け取っていただけますか」


紙を開く。


そこには、几帳面な字で、一行だけ書かれていた。


『私と、結婚してください』


胸の奥が、きゅうっと熱くなった。心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

足すことも、引くことも、曲げることもできない一行だった。


顔を上げると、ヴァルター様の耳が、見たこともないほど真っ赤になっていた。


私は、紙を胸に抱いて、笑った。


六年、殿下の言葉の裏ばかり読んできた。

けれど、この人の言葉に裏はない。


「はい」


私はあふれる涙を拭いながら、笑顔で答えた。


「文字どおりに、お受けいたします」



【おわり】

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