終章 CANCER 1
そこは病院の一室だった。昨夜遅く、救急車で搬送され、そのままずっと眠っていたらしい。左腕は点滴の管が天井から降りてきている。まだ完全に目は覚めていない。枕もとでは看護師の話声が聞こえた。
「あの奥さん、大丈夫かしらね。もうすぐ子供が迎えにくるらしいけど」
だんだんと意識が戻ってきていた。看護師の会話もはっきりと聞こえてくる。
「あの……、私はいったい……」
目を明け、話途中の看護師に意識が戻ったことを伝えた。体はどこも異常はなさそうだし、痛みなども一切ない。少し倦怠感は残っているが、固いベットで寝ていたせいだろうと思う。
「あっ、目が覚められたのね。先生を呼んできます」
そう言うと看護師は慌てて部屋から飛び出して行った。看護師の話相手は、どうやら事務員のようだ。看護師がいなくなると、そそくさ自分の持ち場へと戻る。
数分すると、先ほどの看護師が医師を連れて戻ってきた。
「お加減はいかがですか?」
愛想のいい五十代くらいの男性医師であった。どう見てもメタボリックなお腹を隠そうともせず、白衣のボタンは今にもはち切れて飛んでいきそうである。頭の毛も薄くなってしまっているが、愛嬌があるので、可愛らしいと評されることが多いだろう。
「ええ。もう大丈夫です。何か病気なのでしょうか」
どうして意識を失ったかまでは思い出せない。貧血かなにかだろうか。今まで貧血になったことはなかったので、貧血の症状がどんなものかは知らなかった。
「今、詳しい検査の結果待ちなのですよ。あと二、三日入院してもらわなければなりませんが、結果次第ではすぐに退院できると思いますよ」
五十を超えてからも、特に病気という病気はしたことがなかった。風邪を引いても医者になどかかったことはない。年に一回の会社の健診も真面目に受けており、異常を指摘されたことなど一度もなかった。
「この後は病棟へと移ってもらいますね」
そう言って中年医師は、看護師にあれこれと支持を出し、去って行った。彼が主治医なのだろう。
「パンクレー先生は面白い先生ですけど、名医よ、安心してくださいね」
看護師の微笑ましい笑顔にも救われ、すこしほっとした。あの風貌とキャラクターから、患者受けは良さそうだ。
看護師に言われるまま、病棟へと移され、そこには妻が待っていた。
「心配掛けたが、もう大丈夫だ。検査が残っているみたいだから、たまにはのんびりするよ」
三歳年下の妻は、専業主婦でいつも家事に追われている生活を送っているが、今回ばかりは彼女にも主婦業を休ませてあげることが出来てよかったと思った。
「仕事の無理が祟ったのよ。これからは働きすぎないように気をつけてね」
普段は、夫婦の会話らしい会話もなく、慌ただしい日々の繰り返しだ。妻の優しい声が、こんなにも心地良いものだと改めて気付かされた。