第二章 プロセス(進化) 9
朱里はしばらく直立不動であったが、やがてゆっくりと両手を俺の背中へと回した。
そして、俺の胸に顔を埋め、回した手に力を込めた。
どのくらい時間がたっただろうか。おそらく数分、いやそれほど経っていないのかもしれないが、ものすごく長い時間に感じられた。その一瞬が永遠だった。
ただ、愛おしく、そしてそれは二人だけの時間だった。
「でも……、でもね、ルイ。もし、あなたの言うことが本当だったら……。父と母がそのようなことに手を染めていたとしたら。私、生きてはいけないわ」
朱里も、世間の流布を知らないわけではない。だが、信じてはいなかった。地位や財産があると、それをよく思わない人たちがいるものだと、常々教育されてきたからだ。
「朱里が悪いわけじゃない。君は潔白だろ。だったら、生きるべきだ」
子は親を選べない。不運にも不幸な家に生まれたとしても、どう生きるかは自分次第だ。
「俺は今回で、殺し屋の仕事から足を洗おうと思っている。それは、任務を遂行できなかったからだ。君を殺すことが出来ない……」
足を荒らう。そんなことは出来るはずがない。それは、つまり、爺を敵に回して戦い続けることを意味する。爺に指令を出している組織が、俺を許すはずがないからだ。
「でも、後悔はしない。それが俺の生き方だから」
朱里にも、朱里の人生を歩いて欲しかった。
親が決めた人生など、なんの価値もないことを。
他人のために生きるのではなく、自分のために生きてほしかった。
「手紙の返事なんだけど……」
俺が朱里の前からいなくなる前に渡していた置手紙。あの時は、まだこのような運命になるとは思ってもみなかった。
「その答えは、今度会った時に聞くよ。その時まで生きてなきゃいけないね」
まだ伝えたいことはいっぱいあった。聞きたいことも山ほどあった。もっと長く、少しでも近くにいたかった。
だが、俺にはやらなければいけない事がある。
自分のために、朱里のために。
まだ、感情に流される時ではない。
朱里には、決行の日、巻き添えにならないようにと、建物の中にいないことを約束させた。
その後も、長期雲隠れできる体制と準備をするように指示し、誰にも他言しないとをを約束させた。
これで準備は全て整った。
朱里の結婚式まであと一ヶ月。街中は少しずつ警備員などが増え始めており、お祭りムードに包まれ始めていた。
ホテルは、特に監視の眼があったので、俺はシーズの家に身を寄せていた。
車には武器弾薬が積んであるので、納屋を借りて隠しておかなければならなかった。
シーズがいなければ、ここまでしっかりとした計画は立てられなかっただろう。
「シーズ、いろいろと世話になったな」
明日の決行の日を前に、最後の晩餐だった。シーズは、離婚後してから一人暮らしをしていたので、隠れ家としては打って付けだった。
「ま、退屈しのぎにはなったな」
最初は嘘をついて警備員見習いにさせてもらったのに、彼はそんなことを気にしない大きな懐の持ち主だった。
いつものビールに、いつもの愚痴。
結構楽しい毎日だった。
「死ぬなよ、ルイ」
シーズにはまだルイスが偽名であることも話していた。
彼との友情はきっとこれからも続くであろう。
「幸せになれるといいな」
俺が朱里に好意を持っていることも、シーズは知っていた。
その上で、今回の計画に賛同してくれたのだ。
多くの犠牲を出すかもしれない。しかし、俺がやらなければならないのだ。