第一章 シグナル(刺激) 10
どのくらい歩いただろうか。
追っ手は来ない。
車のところへ戻るのも危険だったので、このまま先へ進むことにした。
ここは秘境の山奥。
街まではどのくらいあるのか見当もつかない。
「でも、どうしてあなたがここにいらっしゃるの」
朱里は落ち着きを取り戻し、懸命に歩いている。
「偶然さ」
世の中に偶然なんていうものはそうはない。俺が朱里暗殺を引き受けたことも、偶然ではないのだろう。爺は俺が引き受けるのを分かっていたのだと思う。あのいい加減で嘘の資料は、俺をその気にさせるためのお膳立てだったというわけだ。
しかし、朱里があまりにも素敵な女性だったこは偶然だが。
「どうして警備員をお辞めになられたの」
警備員をしているときには、毎朝声をかけてくれた。いつも笑顔が素敵だった。
「二十歳の誕生日に結婚するのかい?」
俺は、朱里の質問には答えなかった。なるべく素性は知られたくない。
「ええ。するわ。親が決めたことかも知れないけど、それが私と、韻一族、牽いてはこの国の安泰へとつながるのですから」
朱里は素直だった。だが、心の強い女性だった。全てを受け入れ、それが幸せだという。
俺には全く理解出来ない世界だった。
自殺に見せかけるには、いい期会だったのかもしれない。
だが、俺が朱里と去る所を、朱里の護衛の二人に見られている。
ここで殺せば、俺が殺したものと疑われるであろう。
いくら遺書を残しても意味がない。
俺は、一度朱里を家へ帰すことにする。
今すぐに朱里を殺さなくてよい……という事実に、少し安堵していた。
こうして俺と朱里、二人の旅は始まった。
それは、ただの旅ではなく、運命との戦いの旅だ。決して結ばれてはいけない二人。
一緒になってはいけない定めだというのに、二人は出会ってしまったのだ。それもまた、運命なのかもしれない。この時の俺は、辛く、切ない未来が待っていようとは、知るよしもなかった。
辛く、長くて険しい道のり。
過酷な旅の始まりだった。
「さあ、帰ろう」
俺の差し出した右手を、朱里はしっかりと掴んでくれた。
細くしなやかな指先が、俺の平常心を奪う。
初めて望遠鏡で朱里と眼を合わせた日のこと思い出し、再び自分の心臓が脈打つ音がうるさく、どこか心地よく聞こえた。