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ホラー短編集

『312』

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/28

この作品には、

はっきりした怪異の説明はありません。


何が起きているのか、

なぜ起きているのかも書いていません。


それでも、

「おかしい」と感じていただけたなら、

それがこの話のすべてです。

挿絵(By みてみん)

椅子展示室・夜間警備記録(未提出)


 新人警備員としてこの美術館に配属されてから、三週間が経った。

 夜勤は静かだ。来館者のいない展示室を巡回し、監視カメラの映像を確認し、異常があれば報告する。それだけの仕事だと説明を受けた。


 問題の椅子がある展示室は、現代美術棟の最奥にある。

 白い壁、白い床、天井から落ちる柔らかな照明。その中央に、一脚の椅子が置かれている。


 作者不詳。制作年代不明。

 展示名はただ「椅子」。


 座面は木製、脚は鉄。無駄のない形をしている。触れてはいけない。座ってはいけない。囲いもなく、ガラスケースにも入っていない。ただそこに「置かれている」。


 初めて見たとき、正直な感想は「地味」だった。


 異変に気づいたのは、夜勤三日目のことだ。

 巡回中、椅子の前を通り過ぎた瞬間、足が止まった。


 ――昨日と、向きが違う気がした。


 確信はない。角度が数度ずれたような、そんな程度だ。

 照明の当たり方かもしれない。自分の記憶違いかもしれない。


 その日は報告しなかった。


 翌日、また同じ違和感を覚えた。

 椅子が、わずかに展示室の中央から外れているように見えた。


 監視室に戻り、該当時間の映像を確認する。

 カメラには確かに椅子が映っていた。


 再生を進める。


 ――動いている。


 音もなく、誰も触れていないのに、椅子が数センチ、滑るように移動していた。

 ゆっくりと、気づけば位置が変わっている。


 心臓が一度、強く脈打った。


 すぐにベテラン警備員に声をかけた。在籍十五年の、夜勤の相方だ。


「この椅子、動いてませんか?」


 映像を見せると、彼はしばらく黙って画面を眺めていた。


「ああ……それか」


 ため息のような声だった。


「気にしなくていい。問題になったことはない」


「でも、動いてますよね?」


「そう見えることはある」


 肯定とも否定とも取れない言い方だった。


「異常報告は?」


「出す必要はない」


「マニュアルには、異常があれば確認と報告って……」


「異常じゃない」


 即答だった。


 それ以上、彼は何も言わなかった。


 それから毎晩、椅子は少しずつ位置を変えた。

 ある日は右へ、ある日は斜めに。移動量は微細で、展示の範囲内に収まっている。


 監視カメラのログにも異常は記録されない。

 侵入者なし。振動なし。センサー反応なし。


 それでも、確かに映像の中で椅子は動いていた。


 ある夜、我慢できずに展示室へ向かった。

 確認する必要があるのか、自分でも分からなかった。ただ、行かなければならない気がした。


 展示室は静まり返っていた。

 椅子は正しく展示されている。ラベルも正常。床には薄く埃が積もっている。


 誰も触れていない証拠だった。


 監視室に戻り、再度映像を確認する。

 ――椅子は、動いていなかった。


 該当時間の映像は上書きされ、異常なフレームは存在しなかった。


 翌日、ベテランに尋ねた。


「前にも、こういう報告ってありましたか?」


 彼は少し考えてから答えた。


「あるよ」


「どれくらい?」


「さあな……」


 監視ログのファイルを開き、淡々と数字を指差す。


「君で、三百十二人目だ」


 背中が冷えた。


「全員、同じことを言った」


「それで……どうなったんですか?」


「どうもなってない」


 彼は椅子の展示室を見た。


「展示は続いてる。問題も起きてない」


 その日の巡回で、椅子は動いていなかった。

 いや、動いていたのかもしれない。判断がつかなくなっていた。


 報告書は書かなかった。

 異常の定義が分からなかったからだ。


 帰宅後、家の椅子に座ったとき、一瞬、同じ違和感を覚えた。

 座面が、ほんの少しだけ温かい気がした。


 翌朝、その椅子は、正しい位置にあった。



※本記録は異常判定に該当せず、

 参考資料としてのみ保管される。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


椅子は、特別な存在ではありません。


動いたから怖いのではなく、

動いているのに、

誰も止めようとしなかったことが怖いのだと思っています。


312という数字に、

明確な意味はありません。


ただ、

それだけ繰り返されてきた、

という事実だけがあります。


もしあなたが、

どこかで似たような「処理された異常」を見かけたら、


それが何番目なのか、

数えないほうがいいかもしれません。


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