『312』
この作品には、
はっきりした怪異の説明はありません。
何が起きているのか、
なぜ起きているのかも書いていません。
それでも、
「おかしい」と感じていただけたなら、
それがこの話のすべてです。
椅子展示室・夜間警備記録(未提出)
新人警備員としてこの美術館に配属されてから、三週間が経った。
夜勤は静かだ。来館者のいない展示室を巡回し、監視カメラの映像を確認し、異常があれば報告する。それだけの仕事だと説明を受けた。
問題の椅子がある展示室は、現代美術棟の最奥にある。
白い壁、白い床、天井から落ちる柔らかな照明。その中央に、一脚の椅子が置かれている。
作者不詳。制作年代不明。
展示名はただ「椅子」。
座面は木製、脚は鉄。無駄のない形をしている。触れてはいけない。座ってはいけない。囲いもなく、ガラスケースにも入っていない。ただそこに「置かれている」。
初めて見たとき、正直な感想は「地味」だった。
異変に気づいたのは、夜勤三日目のことだ。
巡回中、椅子の前を通り過ぎた瞬間、足が止まった。
――昨日と、向きが違う気がした。
確信はない。角度が数度ずれたような、そんな程度だ。
照明の当たり方かもしれない。自分の記憶違いかもしれない。
その日は報告しなかった。
翌日、また同じ違和感を覚えた。
椅子が、わずかに展示室の中央から外れているように見えた。
監視室に戻り、該当時間の映像を確認する。
カメラには確かに椅子が映っていた。
再生を進める。
――動いている。
音もなく、誰も触れていないのに、椅子が数センチ、滑るように移動していた。
ゆっくりと、気づけば位置が変わっている。
心臓が一度、強く脈打った。
すぐにベテラン警備員に声をかけた。在籍十五年の、夜勤の相方だ。
「この椅子、動いてませんか?」
映像を見せると、彼はしばらく黙って画面を眺めていた。
「ああ……それか」
ため息のような声だった。
「気にしなくていい。問題になったことはない」
「でも、動いてますよね?」
「そう見えることはある」
肯定とも否定とも取れない言い方だった。
「異常報告は?」
「出す必要はない」
「マニュアルには、異常があれば確認と報告って……」
「異常じゃない」
即答だった。
それ以上、彼は何も言わなかった。
それから毎晩、椅子は少しずつ位置を変えた。
ある日は右へ、ある日は斜めに。移動量は微細で、展示の範囲内に収まっている。
監視カメラのログにも異常は記録されない。
侵入者なし。振動なし。センサー反応なし。
それでも、確かに映像の中で椅子は動いていた。
ある夜、我慢できずに展示室へ向かった。
確認する必要があるのか、自分でも分からなかった。ただ、行かなければならない気がした。
展示室は静まり返っていた。
椅子は正しく展示されている。ラベルも正常。床には薄く埃が積もっている。
誰も触れていない証拠だった。
監視室に戻り、再度映像を確認する。
――椅子は、動いていなかった。
該当時間の映像は上書きされ、異常なフレームは存在しなかった。
翌日、ベテランに尋ねた。
「前にも、こういう報告ってありましたか?」
彼は少し考えてから答えた。
「あるよ」
「どれくらい?」
「さあな……」
監視ログのファイルを開き、淡々と数字を指差す。
「君で、三百十二人目だ」
背中が冷えた。
「全員、同じことを言った」
「それで……どうなったんですか?」
「どうもなってない」
彼は椅子の展示室を見た。
「展示は続いてる。問題も起きてない」
その日の巡回で、椅子は動いていなかった。
いや、動いていたのかもしれない。判断がつかなくなっていた。
報告書は書かなかった。
異常の定義が分からなかったからだ。
帰宅後、家の椅子に座ったとき、一瞬、同じ違和感を覚えた。
座面が、ほんの少しだけ温かい気がした。
翌朝、その椅子は、正しい位置にあった。
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※本記録は異常判定に該当せず、
参考資料としてのみ保管される。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
椅子は、特別な存在ではありません。
動いたから怖いのではなく、
動いているのに、
誰も止めようとしなかったことが怖いのだと思っています。
312という数字に、
明確な意味はありません。
ただ、
それだけ繰り返されてきた、
という事実だけがあります。
もしあなたが、
どこかで似たような「処理された異常」を見かけたら、
それが何番目なのか、
数えないほうがいいかもしれません。




