56:祝祭の影と、林檎飴の誓い
文化祭当日の学園は、朝から熱狂の渦に包まれていた。華やかな出店が並び、生徒たちの笑い声が響く中、人混みを縫うように歩く二人の姿があった。
「……ナターシャ様。あまりあちこちに気を取られていると、はぐれますよ」
冷静な声で忠告したのは、レオンハルトの侍従、ベネディクトだった。公務で来られない主の変わりに、ティアリアの手伝いのために学園にきているのだ。彼はいつものように隙のない身のこなしで、ナターシャを護衛するように寄り添っている。
「ごめんなさい、ベネディクトさん! でも、このお店のミントチョコ、すごく美味しそうで……」
ナターシャが目を輝かせて出店を指差すと、ベネディクトは小さく溜息をつき、けれど無造作にポケットから「ミントの飴」を取り出して、彼女の手に握らせた。
「……今はこれで我慢してください。仕事(任務)中ですから」
「あ……! ありがとうございます。ふふ、やっぱりベネディクトさんのミント飴が一番落ち着きますわ」
ナターシャが幸せそうに飴を頬張る。その微笑みに、ベネディクトの鉄面皮がわずかに緩んだ――その瞬間。彼の鋭い聴覚が、出店の裏から聞こえる低い囁き声を捉えた。
「……準備はいいわね? 発表会の開始直前、舞台袖の目立たない場所に『これ』を撒くのよ。あの侯爵令嬢を、観客の前で這いつくばらせてやるの」
ベネディクトの瞳が、一瞬で鋭利な刃物に変わる。彼はナターシャの肩を軽く叩き、視線だけで「静かに」と合図を送った。
二人は影に紛れるようにして、急ぎティアリアのもとへと辿り着いた。報告を聞いたティアリアの表情は、ぴくりとも動かない。
「……ご苦労様。想定の範囲内ですわ。ベネディクト、貴方はナターシャを連れて、その油を『無害なもの』にすり替えておきなさい。……いえ、せっかくですから、あの方が舞台に立った時にだけ『最高に滑る』魔法を付与しておきましょうか」
「かしこまりました」
無機質なやり取りの後、二人は再び喧騒の中へと消えていった。
ティアリアは、横で先ほどからガタガタと膝を震わせているルイスフォルテに冷ややかな視線を向けた。
「……見苦しいですわよ、ルイスフォルテ様」
「ひゃっ!? す、すみません……。でも、本当にあの子、やるつもりなんだ……」
ティアリアは近くの出店で買ったばかりの林檎飴を、ルイスフォルテの口元へ無作法に突き出した。
「食べなさい。糖分は恐怖を和らげます。……ルイスフォルテ様、そろそろお時間ですわ。実の妹を絶望の淵から救い出す、兄としての覚悟はできましたか?」
真っ赤な林檎飴を呆然と受け取り、ルイスフォルテはその甘ったるい香りを吸い込んだ。自分を変えてくれたこの少女の期待に、今度こそ応えたい。彼は震える手で林檎飴を強く握りしめ、力強く頷いた。
同じ頃、祝祭のメイン通りでは、リルセリアとシエル、そして背後に控えるカサンドラが穏やかな時間を過ごしていた。
「リルセリア、あのアザレアの細工物はどうだ? ……君によく似合う」
「まあ、シエル様。ありがとうございます。……でも、今はそれよりも、あちらの焼き菓子の匂いが気になりますわ。ティアたちにも買ってあげたいのです」
「ふっ、君らしいな」
シエルの瞳には、かつての空虚さなど微塵もない。カサンドラは、主たちの平穏を守りながらも、時折、遠くの音楽講堂を鋭く見据える。
発表会まで、あと一時間。
それぞれの想いが、開演のベルを待っていた。




