54:臆病者の決断と、歪んだ鏡
深夜の学園、モンフォール侯爵家が音楽発表会のために占有している特別練習室の廊下は、重苦しい沈黙に包まれていた。しかし、その扉の向こう側からは、静寂を切り裂くような高笑いと、神経を逆撫でするような言葉が漏れ聞こえてくる。
ルイスフォルテは、冷え切った扉の前に立ち、激しく肩を震わせていた。握りしめた拳は白くなり、血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「……ふふ、あんな真珠色のドレス、舞台の上で真っ赤に染めてあげれば、少しは見栄えが良くなるかしら。それとも、泥の色の方が、あの方にはお似合いかしらね?」
中から響くのは、紛れもなく実の妹、フェリシアの声だった。彼女は自身の傍らに控える数人の侍女たちに、楽しげに指示を飛ばしている。
「いい? 舞台の床には、事前に透明な油を撒いておきなさい。光の加減で見えなくなるようにね。あのお飾りの王太子妃が、自慢のヴァイオリンを抱えたまま無様に転び、ドレスを真っ赤に汚して泣き叫ぶ……。ああ、想像するだけで最高の音楽になりそうだわ」
侍女たちは、主人であるフェリシアの狂気じみた形相に怯えながらも、機械的に頷いている。フェリシアは手元のヴァイオリンを乱暴に構えると、耳を劈くような高音を響かせた。
「私の演奏こそが至高。あんな、ただ美しく音をなぞるだけの空っぽな人形に、この私が負けるはずがない。あの方は、観客の嘲笑の中で、自分がどれほど不相応な場所に立っているかを知るべきなのよ。……お兄様も、そう思うでしょう?」
扉越しに視線を感じたような気がして、ルイスフォルテは息を呑んだ。
今まで、彼は妹が何をしても見て見ぬふりをしてきた。彼女の歪んだ自尊心を、自分が兄として、あるいは次期当主として叱咤することができなかった。自分が不甲斐ないから、妹は「モンフォール家の誇り」を「他者を踏みにじる権利」だと勘違いしてしまったのだ。
(……これ以上は、ダメだ。これ以上、彼女を……僕たちの一族を、汚させてはいけない)
ルイスフォルテは、肺が破れそうなほど深く息を吸い込み、勢いよく扉を蹴開けた。
「……もう、やめるんだ、フェリシア!」
室内が凍りついた。侍女たちが悲鳴を上げて後退る中、フェリシアだけが、ゆっくりと首を巡らせた。その瞳は、実の兄に対する敬意など微塵もなく、ただ不快な害虫を見るような冷酷さに満ちていた。
「あら、お兄様。こんな夜更けに何の御用かしら? まさか、ティアリア・アルバレートの毒気に当てられて、私に説教でもしに来たの?」
「フェリシア、君のやっていることは音楽じゃない。ただの卑怯な嫌がらせだ! 楽譜を奪い、ドレスを汚す計画を立てて……それが、モンフォールの名を継ぐ者のすることか!」
「黙りなさい!」
フェリシアがヴァイオリンの弓を、鞭のようにルイスに向けて振った。
「一族の恥である貴方に、何がわかるというの? 貴方はただ、隅で震えながら、私が手に入れる栄光を眺めていればいいのよ。……さっさと失せなさい、出来損ないの兄上」
突き放されたルイスフォルテは、言葉を失い、再び廊下へと追い出された。侍女たちによって乱暴に閉められた扉の向こうから、またフェリシアの冷笑と、狂ったようなヴァイオリンの音が響き始める。
しかし、今のルイスフォルテには、以前のような絶望しかなかった頃とは違う場所があった。
彼は夜の回廊を、なりふり構わず走り出した。心臓が早鐘を打ち、視界が涙で滲む。それでも、彼は自分を「次期当主」として扱い、勇気という名の劇薬を授けてくれた少女の元へと急いだ。
暗い校舎の踊り場、月光が青白く差し込む場所に、彼女はいた。
ティアリア・アルバレート。彼女はまるで、彼が来ることを予測していたかのように、静かに窓の外を眺めて立っていた。
「ティアリアさん……っ! 聞いてくれ、フェリシアが……あの子、本気でリルセリア様を、舞台の上で……!」
ルイスフォルテは膝を突き、喘ぎながら、耳にした全ての計画を吐き出した。油、ドレスへの細工、侍女たちへの命令――。
ティアリアは表情一つ変えず、ルイスフォルテの乱れた呼吸を冷静に聞き届けていた。彼女の紫の瞳は、月光を反射して、深淵のような深みを見せている。
「……そうですか。油に、汚濁の魔術。……随分と独創性のない、古典的な罠ですわね」
ティアリアはゆっくりとルイスフォルテに歩み寄り、その震える肩に細い手を置いた。
「情報、感謝いたしますわ、ルイスフォルテ様。……貴方が今日、あの方に抗い、ここへ来た。その事実こそが、この計画における最大の不確定要素です」
ティアリアの口元が、冷酷に、けれど満足げに弧を描く。
「……これで、あの方に贈る最高の『処刑台』の図面が、一ミリの狂いもなく完成しましたわ。ルイスフォルテ様、貴方には当日、その処刑台の『執行人』を担っていただきます。……よろしいですね?」
ティアリアの瞳に見据えられ、ルイスフォルテは恐怖を上回る使命感に、力強く頷いた。
祝祭の幕が上がるまで、あと少し。




