53:暗譜の調べと、蜂蜜色の休息
文化祭まであと二日。夜の静寂に沈んだ音楽室に、鋭く、それでいて柔らかな音が重なり合っていた。
譜面台には何もない。ただ、ティアリアが奏でるピアノの旋律が道標となり、その上をリルセリアのヴァイオリンが自在に舞う。
「第十七小節、二分音符が僅かに走りましたわ。もう一度」
「ええ……。呼吸を合わせるわ、ティア」
ティアリアの厳格な指摘を受け、リルセリアは再び弓を引く。
楽譜を奪われ、弦を切られた。その卑劣な行為が、皮肉にもリルセリアの中に眠っていた真の音楽を呼び覚ましていた。視覚情報を失ったことで、彼女の耳はより鋭敏に、音の「魂」を捉え始めていた。
指先が弦を捉え、木製の胴が震えるたびに、音楽室の空気が微細に振動する。それは、ただの練習の域を超えていた。静謐なピアノの土台の上で、リルセリアのヴァイオリンは時に嘆き、時に力強く明日を渇望する。姉妹だけで音を重ねるこの時間は、冷徹な計算と理詰めの世界に生きるティアリアにとっても、言葉を超えた絆を再確認する無二のひとときだった。
そこへ、扉が音もなく開いた。
現れたのは、重厚なバスケットを手に持ったシエルだった。彼は二人の邪魔をしないよう隅で立ち尽くしていたが、一曲が終わるのを待ってから静かに歩み寄った。
「……もう、夜も更けている。少し、手を休めないか」
シエルはピアノの蓋をそっと閉じ、二人を促した。バスケットを開けると、そこにはまだ温かいパイとスープが、香ばしい匂いを立てていた。
「学園の厨房に命じて作らせた。……君たちは、自分の体力を過信しすぎる」
シエルはリルセリアの前に腰を下ろすと、不器用な手つきでスープの器を差し出した。温かな蜂蜜をたっぷりかけたパイの甘い香りが、張り詰めていた音楽室の空気を柔らかく溶かしていく。
「……シエル様。わざわざ、ありがとうございます」
「……礼には及ばない。私はただ、君が明日も笑っていてほしいだけだ」
シエルは、ヴァイオリンの練習で赤くなったリルセリアの指先に、そっと触れた。
彼は知っている。彼女がどれほど怯え、それでもなお誇りを守ろうとしているかを。シエルの瞳に宿る深い熱は、彼女を傷つけるすべてへの静かな憤りと、ただ一人この少女だけは守り抜くという、執着にも似た誓いに満ちていた。
「リルセリア。君の音は、誰にも奪えない。……罠も、謀略も、私の前では無価値だ。だから君は、ただ一番美しい音を出すことだけを考えればいい。……後のことは、私に任せておけ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも強くリルセリアの心に響いた。パイの温かさと、彼の静かな決意。リルセリアは、一人で耐える孤独な戦いが、いつの間にか、自分を愛してくれる人たちとの共闘に変わっていることに気づき、小さく微笑んだ。




