52:祝祭の影と、ミントの香り
学園中がもうすぐ行われる「聖ミカエル文化祭」の熱気に包まれ始める中、音楽講堂の片隅には、冬の訪れを予感させるような冷たい空気が溜まっていた。
ヴァイオリンの演奏で聖ミカエル文化音楽会に出る予定のリルセリアは、放課後の練習を終えて自分の鞄を開け、動きを止めた。
「……また、だわ」
ヴァイオリンの予備の弦が、すべて鋭利な刃物で断ち切られている。昨日書き上げたばかりの練習用譜面には、黒いインクがぶちまけられ、一文字も判読できない。
リルセリアは震える指先でその譜面をなぞった。母リディアから譲り受けた紫の瞳には、悲しみよりも「負けたくない」という微かな光が宿っている。
「あら、リルセリア様。まだそんな無駄な努力を続けていらしたの?」
静寂を破ったのは、フェリシア・モンフォールだった。黒髪を揺らし、深紅の瞳でリルの窮状を眺める彼女の口元には、残酷な愉悦が浮かんでいる。
「楽譜も弦も、貴女の不注意でダメにしてしまうなんて。音楽の神様は、努力の甲斐もない無能な女に、舞台に立つ資格はないと仰っているのかしら」
フェリシアが取り巻きと立ち去った後、講堂の入り口に人影が二つ現れた。
ティアリアと、その助手のナターシャだ。
「……お姉様。状況を確認させてください」
ティアリアの声はどこまでも平坦だった。彼女はリルの手から黒く汚れた譜面を受け取ると、事務的に魔導板を取り出した。
「弦は買い直せば済みます。譜面も、私が書き直しますわ。……ナターシャ、貴女は予備の弦を確保しに街へ行きなさい」
「はい、ティアリア様! ……あの、リルセリア様、これ……。少しは元気が出ますわ」
ナターシャは憤慨した表情を見せつつも、リルセリアの手にそっと小さな包みを握らせた。それは彼女が好んで食べているミントのチョコだった。
「……ありがとう、ナターシャさん」
リルの表情が少しだけ和らぐ。ナターシャが講堂を出ると、そこにはレオンハルトの侍従、ベネディクトが音もなく立っていた。
「……ナターシャ様。街へ行かれるのであれば、お供いたします。レオンハルト様からも、お二人の安全を確保するよう仰せつかっておりますので」
ベネディクトは表情一つ変えず、淡々と告げた。だが、彼はナターシャの手に自分のポケットから取り出した「ミントの飴」を無造作に握らせる。
「……あ、ありがとうございます、ベネディクトさん。いつも私が欲しがっている時に飴をくださるのですね」
「……偶然です。糖分は思考の助けになりますから。……行きましょう」
冷静沈着な侍従に促され、ナターシャは少しだけ頬を染めて歩き出した。
一方、講堂に残ったティアリアは、窓の外を眺めていた。そこには、幼馴染のルイスフォルテを捕まえ、その妹であるフェリシアの行いについて詰問しているシエルの姿があった。シエルの碧眼は氷のように冷たく、ルイスフォルテは申し訳なさに肩を震わせている。
「文化祭当日まで、あと三日。……お姉様。最高に美しい『復讐』の調べを、準備いたしましょう」
ティアリアの紫の瞳に、獲物を捕らえる計算高さが宿った。




