51:銀髪の残照と、忍び寄る影
ルイスフォルテが、何かに追い立てられるように研究室を去った後、室内には古い羊皮紙の乾燥した匂いだけが残された。
ティアリアは散らばった資料を一箇所にまとめ、羽ペンの先を丁寧に拭う。窓から差し込む夕光は、彼女の背筋を真っ直ぐに伸ばしたシルエットを縁取り、さらりと流れる銀髪を透き通るような白金色に輝かせていた。その瞳――母リディア譲りの高貴な紫は、解を求める数式を見つめる時のように、冷徹で静かだった。
「ほーっほっほ! ティアリア君、君も案外お節介じゃな。あんなに熱心にルイスフォルテ君の背中を叩くとは、驚いたぞい」
山積みの魔導書の中から、オルセン教授がボサボサの白髪を揺らして顔を出した。彼は丸い眼鏡を指で押し上げながら、楽しそうに目を細める。
「……彼が自立しなければ、私の貴重な研究時間が削られるだけですわ。それに、お姉様の心をこれ以上騒がせるのは、妹として看過できません」
「左様か、左様か。……じゃが、気をつけなさい。今の学園には、君たちの輝きを疎む影が、一つや二つではないようじゃからな。……その影は、君の大事なお姉さんにじわじわと絡みつこうとしておる」
教授の、予言めいた含みのある言葉に、ティアリアは僅かに眉を寄せた。
実際、学園内の空気は確実に澱み始めていた。リルセリアが「王家の至宝を私物化し、独占している」という悪質な噂が、フェリシアの取り巻きを中心に、毒霧のように広がっていたのだ。
その日の帰り際、ティアリアは学園の正門前で、迎えに来ていた兄のレオンハルトと合流した。
戦うための魔術を極め、若くして王国魔術師団長補佐という重職にある彼は、たまに公務の合間を縫って妹たちの様子を見に来ていた。レオンハルトは、瞳を鋭く細め、妹の顔を覗き込む。
「……ティア。少し顔色が悪いな。あまり研究室に詰めすぎるなと、父上も心配されていたぞ。お前は一度集中すると、食事すら忘れるからね」
「……お父様が? 相変わらず過保護ですわね。私は見ての通り、至って健常ですわ、レオンハルトお兄様」
「そうか。……ならいい。だけど、リルの方はどうだ? 最近、邸に帰ってきてもどこか上の空に見える。……何か悩み事があるならすぐに私に言え。私たちの目の届かないところで、妹が傷つくのは二度と御免だからな」
レオンハルトの低い声には、最前線で魔術を振るう者特有の威圧感が含まれていた。彼は、リルセリアが何かを隠していることに薄々気づいている。だが、それを問い詰めて妹を更に悩ませるのを躊躇っているようだった。
「お兄様が本気で動けば、それこそ大事になってしまいますわ……大丈夫です、私がついていますから」
「……そうか、ティアにそう言われると、余計に心配になるけどな。行こう」
一方、学園のテラスでは。
リルセリアは一人、赤く燃えるような夕暮れの空を見上げていた。
その指に嵌められた『陽光の魔石』が、彼女の不安を吸い上げるように、冷たく蒼く脈打っている。ノートを焼かれ、罵声を浴びせられても、彼女はまだ誰にも助けを求めていなかった。
「……わたくし、大丈夫よ。カサンドラ」
「……リルセリア様。……貴女のその強さが、時として私には危うく見えます。……どうか、私を頼ることを忘れないでください。放課後以外でも、護衛することはできるのですから」
背後に控える聖騎士カサンドラの静かな忠告に、リルセリアはただ寂しげに微笑んだ。
家族に心配をかけたくないという優しさが、彼女を孤独な戦いへと追いやっていく。
その微笑みが、やがて来る嵐を前にした、束の間の静寂であることを、まだ誰も知らない。




