49:深紅の執着と、隠された亀裂
放課後のオルセン教授の研究室。
高い天井まで届く書棚に囲まれ、埃っぽい古書の匂いが漂うその空間で、ティアリアはルイスフォルテ・モンフォールと向き合っていた。
二人の間には、複雑な魔導回路がいくつも浮かび上がり、夕闇の中で青白く発光している。
「……ルイスフォルテ様。今、左手の指先が僅かに震えましたわ。並列演算の負荷に耐えきれていない証拠です。深呼吸をなさい」
ティアリアの指摘に、ルイスフォルテは「ひ、ひゃいっ」と短い悲鳴を上げて、慌てて背筋を伸ばそうとした。だが、その猫背はすぐにもとに戻ってしまう。
「ご、ごめんなさい、ティアリアさん……。僕、まだ……君の速度に、追いつけなくて……」
おどおどとしながらも、彼の視線は机上の計算式を必死に追っている。
ティアリアは、前髪の隙間から覗くその金色の瞳が、魔導の美しさに心酔しているのを確かに捉えていた。この天才的な頭脳が、前世では誰にも知られず、自らの魔力に焼かれて失われた。その事実は、ティアリアの胸の奥で、定義しきれない苛立ちを呼び起こす。
「謝る必要はありません。ただ、貴方が自分を蔑ろにするのは許可しませんわ。……さあ、今日の分の魔力循環訓練はこれでおしまいです。お姉様のところへ寄ってから帰りますので、貴方もモンフォール邸へお戻りなさい」
「……あ、うん。……ティアリアさん、今日も……ありがとう」
ルイスフォルテが顔を赤らめて去っていく。
その背中を見送りながら、ティアリアは手元のメモ帳を閉じた。彼女の心は、ルイスフォルテの成長への満足感で満たされていた――はずだった。
◇◇◇◇◇
その頃。
学園の中庭へ続く回廊の影で、もう一つの「絆」が無惨に踏みにじられていた。
「あら。そんなところに隠れて、何をしていらっしゃるの? アルバレート公爵令嬢」
冷ややかな、けれど鈴の音のように美しい声。
リルセリアがビクリと肩を揺らして振り返ると、そこには艶やかな黒髪を夜風に揺らした少女、フェリシア・モンフォールが立っていた。彼女の深紅の瞳は、まるで獲物を追い詰めた猛獣のように、不気味な悦びに満ちてギラついている。
「……フェリシア様。わたくし、ただ、中庭で少し本を読んでいただけですわ」
リルセリアは、腕に抱えた一冊のノートを隠すように力を込めた。だが、フェリシアの取り巻きたちが、それを逃すはずもなかった。二人の令嬢がリルの左右を固め、強引にそのノートを奪い取る。
「やめて……! 返してください!」
「あら、ごめんなさい。あまりにみすぼらしいノートだったから、ゴミを拾って差し上げようと思っただけですの。……まあ、何これ。お料理のレシピ? ……ふふ、シエル殿下の胃袋を掴んで、このまま王妃の座に居座るつもりかしら。浅ましいこと」
フェリシアは、奪い取ったノートをパラパラと捲り、わざとらしく溜息をついた。
そして次の瞬間。彼女は右手をノートにかざすと、呪文すら唱えずに「紅蓮の炎」を指先から放った。
じゅ、と嫌な音がして、リルの手書きのノートが焦げ、端から黒い炭へと変わっていく。
「ああっ……! 酷いですわ……!」
「酷いのは、貴女の方ではありませんか? ……代々我がモンフォール家はシエル殿下を支えるために、その一生を捧げてきました。私だって、殿下の隣に立つために、どれほどの血を吐くような努力をしてきたか……貴女のような、妹の魔導具で着飾っただけの『空っぽの女』には分からないでしょうね」
フェリシアがリルの至近距離まで歩み寄る。黒髪の間から覗く赤い瞳には、剥き出しの嫉妬と、狂気にも似たプライドが渦巻いていた。
「シエル殿下は、貴女が『可哀想』だから慈悲をかけているだけ。……その指に光る指輪も、本来はモンフォール家の女に贈られるべきはずの至宝。……泥棒猫に、いつまでも陽光の光が当たるとは思わないことですわ」
フェリシアがリルの左手、あのシンプルなプラチナの指輪を強く握りしめた。
魔石が拒絶反応を起こし、僅かに熱を放つ。けれど、リルセリアは悲鳴を上げる代わりに、唇をぎゅっと噛んで耐えた。
「……っ……」
「いい? このことは、絶対に殿下や妹さんには言わないこと。もし言えば……次はお兄様を使って、アルバレート家の立場を悪くしてあげますわよ」
笑い声と共に、焦げたノートを地面に捨ててフェリシアたちは去っていった。
静まり返った回廊で、リルセリアは膝をつき、バラバラになった灰の塊を拾い集めた。
(……ティアが守ってくれた今の生活を、壊したくない。……わたくしが我慢すれば、あの子はまた、魔導の研究に打ち込める……お父様たちも、悲しまなくて済む)
リルセリアは震える手で灰を払い、涙を堪えて立ち上がった。
彼女の指で、陽光の魔石が、持ち主の悲痛な叫びに同調するように、弱々しく、けれど鋭く明滅していた。
彼女はまだ知らない。
その指輪が、実は「シエルの執着」そのものであり、誰かが彼女を傷つけた瞬間に、全てが破滅へと向かう「引き金」であることを。




