37:凍てつく晩餐と、包囲された毒蛇
ゼクス・ガレリアの滞在三週目。学園での「演習事故」という名の工作が失敗に終わった後、王宮の小晩餐会が開かれた。それは親善を謳いながらも、王国側がゼクスに対して「もはや貴殿の正体は露見している」と無言の圧力をかける、審判の場であった。
豪奢なクリスタルのシャンデリアが、冷たい輝きを放つ大広間。長方形の晩餐卓を囲む人々の配置は、シエル・フォン・アスラニア王太子の強い意志と、両国の儀礼官による神経を削る交渉の結果であった。
国王陛下と宰相、それに魔術師団長のアルバレート公爵は、あえてこの席を外されていた。それは、先日の『不祥事』に対する王国側の冷ややかな回答であり、実務的な断罪をシエルとティアリアたちに一任するという、絶対的な信頼の証でもあった。
その不在が、かえってこの晩餐会の異様さを際立たせていた。テーブルの中央、ホスト席に座るのは王国王太子シエル。そしてその右隣、最も名誉ある上座には、アスラニアの未来の王妃としてリルセリアが座る。シエルの左隣には、宮廷魔導師としての地位を持つティアリアが控え、さらにリルの隣には、魔術師団長補佐であり公爵家嫡男のレオンハルトが陣取っていた。
対する正面の賓客席。中央にはゼクス・ガレリアが座り、その左右を固めるのは、帝国から同行した老練な全権大使と、神経質そうな面持ちの一等書記官であった。彼らは表向きには穏やかな微笑を浮かべているが、その瞳は王国の綻びを逃さぬよう、常にテーブルのあちこちを這い回っている。
家族的な強固な絆で結ばれた王国側と、冷徹な外交官たちに守られた帝国側。卓上には、贅を尽くした料理が並んでいるが、立ち上る湯気さえも凍りつくような沈黙が支配していた。背後には、リルセリアを護衛するカサンドラと、レオンハルトの影として控えるベネディクトが、彫像のように不動の構えで立っている。
「――ゼクス殿下、ならびに大使閣下。先日の演習では、我が国のゴーレムに不備があったようで、大変失礼した。大切なお客様を危険に晒すところだった」
シエルが静かに口を開く。その言葉は形式上の謝罪であったが、金色のカトラリーが皿に触れる音すら許さないほどの魔圧が、ゼクスを正面から押し潰そうとしていた。シエルはテーブルの下で、リルセリアの左手を固く握りしめている。それは、どれほど外交上の美辞麗句を並べられようとも、彼女という「至宝」だけは決して渡さないという、男としての宣戦布告でもあった。
「いいえ、シエル殿下。あれほど見事な宮廷魔導師殿の采配を拝見できたのです。帝国にとっても、有意義な『見世物』でしたよ」
ゼクスは余裕を崩さず、深紅のワインを口に含んだ。隣の大使が「事故は遺憾ですが、宮廷魔導師殿の迅速な対応には敬意を表します」と、立て板に水のごとく外交的なフォローを差し挟む。だが、その背後に立つカサンドラとベネディクトの視線は、ゼクスだけでなく、この外交官たちの手元までをも厳しく監視していた。
「……『見世物』、ですか。それは重畳ですわ、ゼクス殿下」
ティアリアが、優雅にナプキンで口元を拭い、正面の三人組を射抜くように見つめた。
「ならば皆様。本日のこの席でも、もう一つ『見世物』を楽しんでいただこうと思いまして。……お兄様、例のものを」
ティアリアの合図を受け、レオンハルトが事務的な手つきで、一つの小さな魔導水晶をテーブルの中央に置いた。
背後に控えていたベネディクトが、まるで見計らっていたかのような完璧な動作で、壁際の魔導灯の光量をわずかに落とす。影が伸び、晩餐卓の上に鮮やかな魔力のホログラムが浮き上がった。
「これは……?」
一等書記官の眼鏡の奥で、瞳が鋭く光る。
「先日のゴーレムから抽出した、残留魔力の再現映像ですわ。……おや、不思議ですわね。暴走した術式の結節点から、なぜかガレリア帝国特有の『呪詛コード』が検出されましたの。……それも、殿下が善意で持参された、あの『海神の涙』と全く同じ周波数のものが」
ティアリアの冷ややかな指摘。水晶が映し出すのは、美しくも禍々しい帝国の禁忌術式だった。ゼクスの斜め向かいに座るレオンハルトとティアリア、そして背後に立つカサンドラ。三方向からの「事実」という名の刃が、ゼクスとその隣の外交官たちの喉元に突きつけられる。
「……なるほど。王国は、この私を工作員だと断じるわけだ」
「断じるのではなく、事実を確認しているだけですわ。殿下。貴方方は『親善』のために来られましたが、我が国は貴方方の持ち込んだ毒を、すべて特定し、無力化する準備を整えました」
ティアリアは微笑んだ。それは、毒蛇の牙を一本ずつ抜き取った者が浮かべる、最高に美しく残酷な勝利の笑みだった。隣の大使が何か反論を口にしようとしたが、レオンハルトがそれを冷たく遮る。
「大使閣下。これは外交問題だ。……お帰りまでの残り二週間、殿下には『より厳重な保護』がつくことになります。……シエル殿下の名の下に、聖騎士カサンドラ殿と協力し、殿下の一挙一動を二十四時間体制で我々が監視させていただく。……ベネディクト、殿下の身の回りのお世話も、我が家の侍従が不眠不休でお手伝いするよう手配しておけ」
「承知いたしました。……殿下、ならびに使節団の皆様。精一杯の『真心』でお仕えさせていただきます」
ベネディクトが慇懃無礼に一礼する。その言葉の裏には、「一秒のプライバシーも与えない」という冷酷な宣言が隠されていた。
ゼクスは、自身の「贈り物」と「工作」が、ティアリアの知略とレオンハルトの事務能力、そしてベネディクトの裏工作によって完璧に裏目に出たことを悟った。彼はワインを飲み干すと、初めて本物の、獲物を前にした獣のようなギラついた瞳をティアリアに向けた。
「……あと数週間の滞在。どうやら思っていた以上に、退屈せずに済みそうだ」
冷え切った晩餐会の席上で、毒蛇は初めて本気で、この国を「潰す」のではなく「奪い取る」ための牙を研ぎ始めた。




