35:研究室の安らぎと、苦労人の絆
学園の中庭や訓練場が、権力闘争や騎士の矜持で張り詰めていた頃。校舎の最果てに位置するオルセン教授の研究室だけは、もはや別の法則が支配する異界のような熱狂に包まれていた。
「――っ、素晴らしい! 見たまえティアリア君! この帝国の暗号化回路、第十四階梯の術式をあえて『反転』させることで、解読を試みた瞬間に精神を汚染するトラップが仕掛けられている! なんと卑劣で、なんと知的な組み方だろうか!」
オルセン教授が、空中に投影された巨大な術式を杖で叩きながら、興奮のあまり絶叫していた。白髪を振り乱し、鼻息を荒くするその姿は、高名な教授というよりは、新しい玩具を手に入れた子供のそれだ。
「先生、感動されているところを申し訳ありませんが、そのトラップを解除しないと解析が進みませんわ。……ナターシャ、そこの抽出装置の魔力圧を三下げて。帝国の暗号化アルゴリズム、あと少しで心臓部の全貌が見えるはずよ」
ティアリア・アルバレートは、瞳に冷徹な知性の光を宿し、幾重にも重なる魔法陣の海に没頭していた。彼女の指先からは、微細な銀色の魔力が糸のように伸び、複雑に絡み合う帝国の術式を一本ずつ丁寧に、かつ大胆に解きほぐしていく。
「はい、ティアリア様! 抽出装置の出力を調整します……。三、二、一、定着。……見えました! ティアリア様、二層目の奥に隠しファイルがあります!」
助手のナターシャもまた、主人の期待に応えるべく、凄まじい速度で記録水晶にデータを流し込んでいた。学園の授業などとうの昔に終わっているが、この研究室に籠もる彼女たちにとって、時間はただの数字に過ぎなかった。
そんな殺伐とした、けれど純粋な魔道探求の場に、不意に控えめな、しかし確固たる意志を感じさせるノックの音が響いた。
「失礼いたします。ティアリア様、レオンハルト様より、皆様への差し入れを預かって参りました」
入ってきたのは、レオンハルトの長年の侍従であり、公爵家の事務をも一手に引き受ける青年、ベネディクトだった。彼は、研究室の混沌とした光景に眉一つ動かさず、銀のトレイに載せた特製のカツサンドと、温かいハーブティーを机の隙間に手際よく並べていく。
「あら、ベネディクト。お兄様から?」
「はい。皆様、昼食はおろか、夕食すら摂らずに没頭されているとお聞きしまして。……ナターシャ殿、お疲れではありませんか? こちら、以前貴女が好きだとおっしゃっていた、喉を潤すミントの飴です」
ベネディクトがそっと差し出した小さな紙袋。それを受け取ったナターシャの頬が、ポッと林檎のように赤らんだ。彼女にとって、いつも主人の無茶振りに振り回されながらも、完璧な執事服を崩さずに仕事をこなすベネディクトは、ある種の「戦友」であり、密かな憧れの対象でもあった。
「……あ、ありがとうございます、ベネディクトさん。いつも、その、私のことまで気にかけてくださって……。貴方のほうこそ、レオンハルト様のお世話で大変でしょうに。昨夜もお屋敷の明かりが、かなり遅くまでついていたと聞きました」
「いえ。主の仕事量は、確かに常軌を逸しております。ですが……こうして貴女が、ティアリア様を支えて必死に頑張っておられる姿を見ていると、私も不思議と励まされるのです。お互い、天才すぎる主を持つと苦労が絶えませんね」
ベネディクトが微かに浮かべた苦笑。それは、超人たちの背中を追い続ける「凡人」ゆえの絆の証だった。二人の間に流れる、穏やかで甘い空気。研究室を支配する鋭利な魔力とは対照的な、どこか初々しい交流が、そこにはあった。
「……ちょっと、ナターシャ。飴を見つめていないで、資料の抽出を急いで。ゼクス王子の滞在は、あと二十五日しかないのよ?」
ティアリアの冷ややかな、けれどどこか温かみを含んだツッコミに、ナターシャは「ひゃいっ!」と飛び上がって作業に戻った。
「ベネディクト、お兄様によろしく伝えておいて。この解析が終われば、ゼクスが隠し持っている『本命』の正体がわかるはずだって」
「承知いたしました。では、私は主の元へ戻ります。皆様、根詰めすぎぬよう、ご自愛ください」
ベネディクトが優雅に一礼して去った後、研究室は再び数式と魔力の喧騒に包まれた。
学園の中庭で繰り広げられる「美しき男たちの権力闘争」や、訓練場での「騎士の矜持」。それらすべてを支える土台は、この窓の灯りと、苦労人たちの献身によって築かれている。
ティアリアは、ナターシャが幸せそうに口に含んだミントの香りを嗅ぎながら、不敵な笑みを深くした。
一ヶ月という猶予。その間に、自分を支えてくれる者たちの想いを背負い、彼女は必ず「毒蛇」の首を落とすと、心に誓ったのである。




