3:不協和音と秘密の契約
リルセリアのためのアザレアのブローチを収めた小箱をクローゼットの奥にしまい、ティアはベッドに横になっていた。早く魔法を鍛え、あの日の悲劇を回避するための計画を頭の中で何度もなぞる。
(まずは、お姉様の日記に書かれていた黒幕、ヴァルド・エインズワースの動きを封じなきゃ……)
その時。
父に褒められた純粋な魔力に、異物が混ざり込んだ。
それは、澄み切った湖に、誰かが泥を混ぜ、さらに不快な油を流し込むような感覚。頭の奥で、ひどい不協和音が鳴り響く。
「……っ、う!」
ティアは思わず耳を塞いだ。小さな身体には耐え難い不快感だった。
この「揺らぎ」の正体を、前世の記憶が訴える。
(これだ……!前世で、お姉様の日記を読んでから、ずっと感じていた、あの気持ち悪い魔力の残り香……!)
そして、その魔力がどこから来たのかも直感的に理解した。
(さっきの子……ナターシャからだ……!
あの子が感じていた恐怖が、この魔力を引き寄せたの!?)
ナターシャがヴァルドの禁術の影に巻き込まれつつある。その確信が、ティアの幼い心に重くのしかかった。
◇◇◇◇◇
夜も更けた時刻。アルバレート公爵家は静まり返っていたが、長男レオンハルトの部屋のランプだけはまだ灯っていた。彼は公爵家次期当主として、分厚い魔術の専門書を読み込んでいた。
コンコン。
控えめなノック音に、レオンは怪訝そうに顔を上げた。この時間に訪ねてくるのは使用人ではない。
「……ティアか?」
レオンが扉を開けると、パジャマ姿のティアが小さな身体で立っていた。その紺碧の瞳は、昼間よりもずっと真剣で、どこか焦っているように見える。
「おにーちゃま……あのね、おはなし、あるの」
「どうした、こんな時間に。何か怖い夢でも見たのか?」
レオンは優しく尋ね、ティアを抱き上げて室内に入れた。
「ちがうの。でも、こわいおはなし、なの」
ティアは真面目な顔で、レオンの膝の上で小さく座った。
「今日、お買い物でぶつかったあの子のことよ」
レオンは昨日の出来事を思い出した。怯えていた、幼い少女。
「確かに酷く怯えていたが、何かあったのか?」
「あのね、ティア、あのこにへんなまぢゅつがついてたの!」
ティアは言葉に力を込めた。舌がもつれそうで、もどかしい。
「へんなまぢゅつは、こわい、こわいって、さけんでるのよ。あの子がふあんになると、そのまぢゅつがおーきくなって、あの子をたべてしまいそうなの!」
レオンハルトは一瞬、言葉を失った。
まだ4歳の妹の、たどたどしい言葉。普通なら夢物語だと一笑に付すところだ。
しかし、ティアの瞳は真剣だった。そして何より、レオン自身の胸に抱えていた「理由のない違和感」が、ティアの言葉に鋭く反応した。
(妙だ……。幼いティアの言葉だが、その魔力
の質の描写は、師団で扱っている精神系の魔術に似ている……。いや、待て。精神系の魔術は、ごく一部の禁術しか存在しないはずだ)
レオンが「王太子と宮廷魔導師長ヴァルドへの違和感」を感じ始めたのは、つい最近のことだ。しかし、ティアは、その違和感の正体を、具体的な「魔力」として感知している。
「ティア……、その『へんなまじゅつ』は、本当に怖いだけなのか?どんな風に見える?」
「ぬるいあぶらみたい。それと、おねえちゃまと、おとーしゃまが持ってるきれいなまりょくと、ぜんぜんちがうの。わるいひとのあじ……」
「……悪い人の、味、か」
レオンの表情から笑顔が消えた。
彼自身が、最近の皇太子の言動に「悪い人に操られているような」不自然さを感じていたからだ。
「ティア、お前が感じたことは、お兄ちゃんにはとても大事なことに聞こえる。もしかすると、僕がずっと感じていた『違和感』の正体は、それなのかもしれない」
レオンはティアの小さな手を両手で包み込んだ。
「約束してほしい。お前がこの『へんな魔力』のことを、誰にも話さないことを」
「え?で、でも、おとーしゃまにいわなきゃ!」
「ダメだ」
レオンは珍しく低い声を出した。
「特に、ヴァルド宮廷魔導師長には、絶対にだ」
ティアの紫色の瞳が見開かれる。
(ヴァルド……!お兄様は、あの男を最初から警戒している……!)
「父様は国のトップ魔術師の一人だが、忙しすぎる。そして、この話はあまりに『禁術』に近い。父様は魔術師団長として、ヴァルド宮廷魔導師長を信用する立場にある。軽々しく話せば、ティアが危ない子だと見なされるか、あるいは、ヴァルド自身にこの話が筒抜けになる可能性が高い」
レオンの判断は冷静で的確だった。
公爵家の跡取りとしての責任感と、妹を守りたいという強い意志が溢れている。
「僕が調べる。お兄ちゃんが、ティアの『違和感』の正体を、きちんと突き止める。だからティアは、僕の秘密の協力者になって、その『へんな魔力』を感知したら、僕にだけこっそり教えてくれないか?」
ティアはレオンの真剣な顔を見上げた。そして、頷いた。
「わかった……!おにーちゃまと、ひみつのけいやくね!」
ティアは笑った。
前世の悲劇に立ち向かうための、最初の一歩。たった一人で背負っていた重荷を、頼れる兄と分かち合うことができた喜びが溢れていた。
「ああ。秘密の契約だ」
「そしてね、おにーちゃま。このひみつのけいやくに、もうひとつだいじなことがあるの」
ティアは声を潜め、レオンハルトに抱き着いたまま、彼の耳元に、涙をこらえたような小さな声で囁いた。
「その、へんなまぢゅつはね、いつかおねえちゃまを……しにおいやるの。そのまぢゅつにかかったおうたいしでんかは、おねえちゃまをわるものにして、ひどいおんなのひととけっこんしてしまうの。だから、おねえちゃまのうんめいを、ティアたちがかえなきゃだめなの」
レオンハルトの全身が硬直した。彼はティアの言葉に、恐怖と、それが事実であるという確信が入り混じった戦慄を覚えた。
「……死に追いやる、だと?そんな、馬鹿な……」
「ほんとよ。だから、まず、あの子をとめなきゃ。あの子は、あわれなどうぐ。ティアたちがたすけてあげなきゃ、おねえちゃまも、あの子も、どちらもどおぐにされてしまうわ」
ティアの言葉はたどたどしいながらも、その中に含まれる情報量が、レオンハルトの理性を揺さぶった。彼は公爵家跡取りとしての鋭い直感で、ティアの予言が現実になる可能性を否定できなかった。
「……分かった。この話は、誰にも口外するな。お前を信じる。僕も全力で動く。この秘密の契約は、リルセリアを守るための命がけの契約だ」
レオンはティアの頭を優しく撫でた。そして、暗闇に閉ざされた窓の外に、鋭い視線を投げた。
(ヴァルド・エインズワース……。お前のせいで、僕の可愛い妹たちが怯えるのなら、容赦はしない)
その時、レオンハルトの心の中で、公爵家次期当主としての「違和感」は、はっきりとした「敵意」へと姿を変えたのだった。




