29:執務室の灯と、鉄の女の疑念
カサンドラがアルバレート公爵邸に駐在して、最初の夜のことだった。
深夜、屋敷の警備体制の確認を終えた彼女は、西翼の最上階にある一室から漏れ出す明かりに気づき、足を止めた。
(……あそこは確か、あの補佐官の執務室か)
昼間のレオンハルトの、隈の浮いた冴えない顔を思い出す。カサンドラにとって、騎士とは常に心身を律し、隙を見せないものであるべきだった。だからこそ、父親に振り回されて疲弊しているように見えたレオンハルトを「身の丈に合わぬ役職を、公爵家のコネで宛がわれただけの男」と見なしていた。
どうせ中では、温かい酒でも飲みながら、部下に丸投げした書類の進捗を眺めて悦に浸っているのだろう。
カサンドラはそう断じると、無礼を承知で、音もなくドアを開けた。油断している「温室育ちの貴族」の鼻を明かしてやるつもりだった。
だが、目に飛び込んできた光景は、彼女の予想を無残に裏切るものだった。
「――っ」
室内を支配していたのは、重苦しいほどの集中力と、猛烈な勢いで刻まれる羽ペンの音だけだった。
机の上には、王宮魔導院から回されたであろう難解な魔法陣の演算シートが幾層にも重なり、傍らでは隣国境の物資輸送ログが山をなしている。
その中心で、レオンハルトは眼鏡を指で押し上げ、三本もの羽ペンを使い分けるようにして、驚異的な速度で決裁を下していた。昼間の気だるげな様子は微塵もなく、その瞳は獲物を射抜く直前の鷹のように鋭く、冷徹なまでに研ぎ澄まされている。
「――聖女守護騎士副団長。入室の際はノックを頼むと言ったはずだが」
レオンハルトは視線すら上げずに告げた。その声には、カサンドラを一歩後退させるほどの重厚な威圧感が宿っていた。
「……失礼した。あまりに遅くまで灯りがついていたのでな。貴殿、一体いつからそこにいる」
「夕食後からずっとだ。宮廷魔導師側が投げ出していった魔導結界の再構築案が十二件、騎士団の配置転換に伴う予算申請が二十件。これらすべてに目を通し、不備を修正せねば明日が回らん」
カサンドラは言葉を失い、机の端に置かれた書類を盗み見た。そこに並ぶ数字と術式は、熟練の補佐官が数人がかりで数日かけて行うレベルの分量だ。それを彼は、たった一晩で、しかも独力で完璧に捌き切ろうとしている。
「……何故だ。貴殿ほどの血筋と地位があれば、強引にでも部下に任せれば済む話だろう。何故、そこまでして自ら泥を被るような真似をする」
カサンドラの問いに、レオンハルトはようやくペンを置いた。彼は眼鏡を外し、疲れた瞼を指先で押さえながら、背もたれに深く体を預けた。
「……簡単な理由だ。私がここで一秒でも早く仕事を終わらせ、体制を整えれば……それだけ屋敷の守りは盤石になる。そうすれば、ティアは自分の研究に没頭できるし、何より、リルを……妹を安心して眠らせてやれる」
窓の外を見やるレオンハルトの表情は、騎士のそれではなく、ただの「兄」のものだった。
「……父上の放蕩に付き合うのは癪だが、妹たちの安らかな寝顔を守るためなら、これくらいの激務、安いものだよ」
彼はそう言うと、机の隅に置かれた小さな籠に手を伸ばした。そこには、ナターシャが差し入れたであろう、素朴なナッツのクッキーが入っていた。それを一口齧り、ふっと口角を緩める。
カサンドラは、胸の奥を鋭い剣で貫かれたような衝撃を覚えていた。
自分が「軟弱」だと蔑んでいた男は、誰よりも泥臭く、誰よりも静かに、この「至宝」と家族を守るための、最も強固な礎となっていたのだ。
「……カサンドラ殿? 急に黙り込んでどうした。顔が赤いぞ、まさか風邪か?」
「――っ、余計なお世話だ! 貴殿が倒れては、警護の引き継ぎに支障が出る。貴殿の健康管理も『警護対象の家族』としての義務に含まれていることを忘れるな!……さっさとそのクッキーを食べて、一刻も早く就寝しろ!」
カサンドラは、自分の心臓が耳の奥でうるさく跳ねているのを悟られまいと、逃げるように部屋を去った。
夜の冷たい廊下に出ても、執務室で見たあの「兄」の横顔が、網膜に焼き付いて離れなかった。




