虚空の同盟
※第6章の続きです。
魔族との遭遇は戦闘から始まり、共鳴を経て同盟へと至った。
健人は“ゼル=イグナシア”として、虚空と闇の合意を得る。
次に必要なのは、理屈ではない“結果”。
王国が撒き散らす「光の加護」の根を断ち、
世界に――虚空の署名を刻む。
黒曜の塔の天蓋は、夜より黒く、夜より静かだった。
玉座の下、円卓を挟んで俺とマアラ、それに数名の将が並ぶ。
ヴァル=レグナは席に着かず、窓のない壁の前で腕を組んでいる。壁の向こうに、世界のざわめきがあるかのように。
「作戦の骨子だ」
俺は卓上の古地図に指を置いた。魔族の地“ヴェルアイン”から王国境へ伸びる細い線――そこに、光の塔が記されている。
「王国は“加護供給塔”を要に、祈りと加護を都市へ循環させてる。塔は魔法通信のハブでもある。一本でも折れば、祈りの網が穴だらけになる」
「折る、か」
マアラが静かに笑う。「我らの得意は叩き折ることだが、王国は必ず報復する。民が焼かれる」
「折るのは物理じゃない」
俺は指先で塔の印を弾いた。古地図のインクがわずかに青く反転する。《虚空因子》が“構造”に触れた合図だ。
「《虚写》で内部構造を写す。《虚空因子》で、核の制御式を書き換える。外形はそのまま、役割だけ変える」
将の一人が眉をひそめる。「塔の内に入らずに、塔を壊すと?」
「壊すんじゃない。間違いを正す」
口にして、自分でも苦笑した。正す――神の言葉みたいだ、と思ったからだ。
(違う。俺の“正しさ”で書き換える。それだけだ)
ヴァル=レグナが振り返る。煤色の瞳が、試すように細められた。
「失敗すれば?」
「塔は一時的に暴走して爆ぜる。王国の巡視兵が走ってくる」
俺はあっさり言った。
「だが成功すれば、塔は“光”ではなく“虚空波”を吐く。祈りの網は自壊し、王国の通信は聾になる。被害は最小限――いや、“祈りに縛られた街”ほど救われる」
短い沈黙。
マアラが頷いて、卓を拳で軽く叩いた。
「行こう。ゼルのやり方を見たい」
◇
加護塔は、王国境の霧の谷を見下ろす断崖の上に立っていた。
白い石柱、渦巻く模様、塔頂に組まれた環の輪――昼でなくても淡く光っている。祈りの音が、塔の内部で風鈴のように鳴っていた。
「巡視、四組。交代は二刻ごと」
マアラが短剣で地面に線を引く。
「外周に魔除け。術式は古いが、量が多い」
「触らないほうがいい」
俺は塔へ視線を上げる。
《虚空視》を深く沈め、光ではなく線を見る。
塔の表皮が剝がれ、中の“式”が立ち上がる――螺旋、交差、祈りのルート、供物の残響。
(…残ってるな。供物の位相。吐き気がする)
「ゼル?」
マアラの声が手前で止まる。
俺は軽く手を上げ、音を宙で遮った。虚空が空気を整列させ、音が塔へ届かない。
(写す)
《虚写》が、塔の式を計算として展開する。
視界に走る記号は、文字ではなく骨格だ。
祈りは上へ、加護は下へ、供物は中央の環で変換される。
俺は“変換”の矢印を指でつまんで、向きを変えた。
(戻す)
《虚空因子》が、矢印に逆位相の波形を流し込む。
祈りは祈った者に戻り、加護は塔内に滞留し、供物の残響は虚無へ逃がす。
塔は壊れない。役割だけが空白へ滑る。
「――いま、何をした」
マアラが囁く。
「何もしてない。元に戻しただけだ」
自分の声がやけに遠く聞こえた。虚空が世界のノイズを吸っている。
塔が微かに唸り、塔頂の環が目に見えない角度で軋んだ。
白い光が一瞬だけ色を失い、世界の音が半拍だけ止まる。
(来る)
空が――反転した。
色でも、光でも、影でもない。
“見えている側”と“見られている側”が、一瞬だけ入れ替わる。
塔の周囲の草がざわりと逆流し、祈りの音が無に吸い込まれた。
次いで、静寂。
風が戻る。色が戻る。塔は――立っていた。
ただ、もう「光」は吐いていない。
塔頂から降り注ぐのは、薄い“揺らぎ”だけ。
地面に手を当てると、祈りの流路が途切れているのが分かる。
「……成功、だな」
マアラの声は、安堵でも歓喜でもない。確認の声。戦場で生きてきた者の声。
俺は頷いた。
「王都の神殿はざわつく。祈りは届かない。通信は落ちる。すぐには動けない」
「報復は?」
「来る。だが、少し遅れる」
その時だ。
胸の奥、別の層が小さく軋んだ。
(……誰だ)
《虚空因子》が、どこかからの微弱な“観測”を拾う。
目ではない。音でもない。
網のような、冷たい探針が世界の表面をなぞった。
マアラが空を見上げる。
「ゼル。いま、空が――」
「“息をした”な」
俺は短く言う。
「気にするな。まだ顔はない」
塔の足元、祈りの路が枯れ川のように黙っていた。
遠く、王国の街では誰かが膝をつき、鐘が一つ――鳴らぬまま、倒れた。
◇
ヴェルアインに戻る道すがら、反対派の若い将が俺を睨んだ。
「神の怒りを買ったら、誰が責任を取る。人間か。虚空の勇者か」
「怒りじゃない。動揺だ」
俺は歩を止めずに答える。
「何かが、“こちらを見返した”。姿はない。だが次は、形になる」
若い将は舌を打ったが、それ以上は言わなかった。
マアラが横で、低く問う。
「ゼル。お前はどこまで書き換える。塔だけか、王都か、世界か」
「世界」
間を置かずに言えた自分に、少しだけ驚いた。
「ただし、全部は一度にやらない。世界は脆い。折り目を探し、一本ずつ、静かに曲げる」
マアラは空を見た。黒い空に、縫い目のような淡い線が走っている。
「……なら、次も一緒に曲げよう」
◇
黒曜の塔。円卓。報告は簡潔に済んだ。
ヴァル=レグナは短く頷き、窓のない壁へ視線を返す。
「王国は混乱している。祈りが戻ってこない。声が届かない」
マアラが言う。
「しかし、敵は必ず道を学ぶ。我らが虚空を使うと知れば、虚空を殺すための術を探す」
「探せばいい」
俺は椅子の背に片肘をかけた。
「見つけたところで、それが“本当に虚空か”は、試すしかない」
ヴァル=レグナが、僅かに笑った。
「選択は続く、というわけだ」
その時――
黒曜の塔全体が、針で突かれたように震えた。
一瞬。ほんの一瞬。
見えない“観測の網”が塔の上を通過し、消える。
誰も声を上げなかった。
ただ、感じた。
世界が、こちらを測ったことを。
マアラが、俺だけに聞こえる声で囁く。
「ゼル。……いまのは?」
「ただの呼吸だ」
俺は小さく笑った。
「まだ、顔はない」
彼女の唇も、同じようにわずかに上がった。
(よし。勢いは落ちてない。
――次を、行く)
黒い天蓋の向こうで、見えない何かが身じろぎした。
それが“天界”と呼ばれるものかどうか、まだ誰も知らない。
けれど世界は、確かに一度、息をした。
――虚空の同盟、始動。
加護塔の構造を改変し、祈りの循環を断ち切った。
光は沈み、塔は虚空波を吐く――その瞬間、世界は一度だけ“息”をした。
その余波で、健人は新たな異常に気づく。
《虚空因子》が内部で変質し、触れた存在を“情報化”して虚空に沈める。
《虚空収納》――存在を時の外に封じる、神にも干渉不能な空間。
世界が静まり返る中、遠くで祈りが崩れ、
王国はその沈黙を「虚空の呪い」と呼んだ。
神の名を叫ぶ声と共に、聖騎士団の召集が始まる。
「……光は、また戦を望むか」
ゼル=イグナシアは黒い空を見上げた。
その目には、神にも写せぬ“余白”が宿っていた。
次章、第8章──虚空と光の戦場。
光の騎士たちが進軍する。だが彼らの前に立つのは――
神の理を写し、書き換える存在。




