三章 癒えることのない傷①
七月の中旬、第三騎士団はいつになく静かな緊張感に包まれていた。
陽の熱さを帯びた風が、旗を重たく揺らす。普段なら笑い声が飛び交う朝の中庭も、この日ばかりはどこか、息を潜めているようだった。
――王立研究所襲撃事件。
三年前の、あの日を悼む追悼式が、今年も行われる。
遠方から訪れる遺族や関係者のために、客室の清掃が進められ、花を活け、寝具を整え、用意された名簿に沿って案内の段取りが組まれていく。
淡々とした準備作業のはずなのに、空気は妙に重たかった。
シェリンの仕事は、普段していることと変わらなかった。
枕の向きを直し、シーツの皺を伸ばし、花瓶の水を取り替える。
もう二週間も継続していれば、何を考えるまでもなく、体が勝手に動いてくれるので、テキパキと仕事が進んでいく。
しかし、どこかどんよりとした重い空気が心に沈んでいるような気がした。
(もう、三年か……)
思い出すたびに、喉の奥がざらつく。
あの日、自分が何を見て、何をしたのか。
誰にも話せないことを、胸の奥に押しこんだまま、こうして「関係のない顔」で動いている。
花瓶にいけた白い花が、わずかに揺れた。
ただの風だと分かっているのに、何かに見透かされたような気がして、目を逸らした。
騎士団の団員たちは、式に向けてそれぞれ静かに準備を進めている。白い騎士団の正装を身にまとった彼らの表情は、いつにも増して真剣だった。
三年前の事件を決して忘れまいという覚悟が、ひしひしと伝わってくる。
(……そう思うと、けっこう危ない橋かも)
あの日を唯一知る者として、この場にいること。
知らないふりをして、花を並べ、微笑みを貼り付けること。
身元保障という利益があるとはいえ、すべてを偽ってまで騎士団にいる自分が、滑稽に思えてきた。
(ひとまず、追悼式では何もせず静かに過ごそう)
そう決めて、静かに踵を返す。
自分の部屋で身支度を整えたら、レネの部屋へと向かおう。
今日のこの空気の重さを、彼女が感じ取っていないはずがない。
せめて、レネの前ではいつも通りの顔でいられるようにしなくては、とシェリンは静かに息を吐いた。
***
会場は、王立研究所のあった森の中。今は石畳と慰霊碑、第三騎士団の駐在所として小さな建物だけが残され、空を見渡すばかりの広場となっている。
「レネさん、そろそろ行きましょうか? 今日は遅れちゃ駄目ですからね。脱げない靴、履きましたか?」
「うん……でも、なんか、こわい」
支度を手伝いながら、シェリンはレネの不安そうな声に、ほんの少し胸が痛くなった。
礼服に着替えた騎士団員たちは、次々と厩舎へ向かい、馬を整え、行列の形を作り始めている。
空は晴れ渡っているのに、誰も「いい天気だね」などと口にはしなかった。
しばらくして、馬車に揺られながら、式場となる森へと向かう。
レネが手をぎゅっと握ってくるのを、シェリンはそっと握り返した。
白い幕が風にはためき、いくつもの椅子がきちんと並べられた追悼式の会場では、すでに他の騎士団や、王都からの貴族たちも到着し始めていた。
「……来てるな、第一も。しかも王太子殿下直々って……今年も大変な式になりそうだな」
小声でぼやくカミルの視線の先には、光沢のある礼服に身を包んだ一団。その中心には、陽を受けてキラキラと輝く金髪の青年が、静かに佇んでいた。
(……王太子殿下まで来るんだ)
シェリンはこの三年間、一度もこの追悼式には参加したことがない。いろいろ理由をつけて、参加を断ってきた。
だからこそ、これほど大きな式だとは思ってもみなかった。
やがて全ての参列者が到着し、しんと張り詰めた空気の中、白い正装を着た騎士たちの列が左右に割れた。
中央の階段を上がり、慰霊碑の前に姿を見せたのは、参列者の代表を務める王太子――リヒト・ブルーデルだ。
気品をまとう長身の男は、一歩一歩、足音を響かせず歩を進め、静かに壇上へ立つ。
その場にいた誰もが、自然と背筋を伸ばした。
リヒトは広場をゆっくりと見渡す。
その眼差しは冷静で、どこか寂しげな光を宿しているように見えた。
そして、しっかりと正面を見据えると、朗々とした声が空気を裂いた。
「三年前のこの日。王立研究所は、突如として理不尽な暴力に晒された」
言葉は明瞭に、だが押しつけがましさのない静けさをもって響いた。風がわずかに衣の裾を揺らし、白い制服に陰影をつける。
「この地に刻まれた傷は、今なお癒えてはいない。多くのものが未来を奪われ、多くの者が、癒えぬ問いを胸に生きている」
遺族の列に、鼻をすする音がひとつ混じる。
シェリンは隣のレネの手をそっと握った。
冷たくこわばった指先が、小さく震えている。
「だが、我々は目を逸らしてはならない。悲しみと憤りを風化させることなく、この地で、何があったのかを追い続けることこそ、未来への責務だ」
その一言に、シェリンの心臓が跳ねた。
(……そう。追い続ける。きっと、それが正しい)
肩越しに視線を感じた気がして、思わず首筋をすくめる。何も見返さず、ただ目の前の王太子を見つめ続けた。
リヒトは、続ける。
「真実は、いまだ全てが明らかにはなっていない。だが、我らが真摯に、そして誠実に向き合い続ける限り、必ずたどり着けるはずだ。失われたものを無にしないために――」
彼の声が、ぐっと静まった。
「……亡き者たちの名を、ここに刻み、記憶し、語り継ごう。いつか再び、ここで生まれた成果が希望であると胸を張って言える未来が来るように」
リヒトは厳かに頭を下げ、全体へと深く礼を送る。
その瞬間、誰ともなく、広場中の者が一斉に頭を垂れた。
鎧の鳴る音が静かに重なる。
シェリンも、レネの隣で静かに頭を下げる。
その場を静寂が支配し、風だけが、慰霊碑の白い布を優しく撫でていた。