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二章 医師見習いの少年③

 騎士団の食堂は夜の鐘が鳴ると同時に、活気と騒がしさで満たされた。


 大皿に盛られた肉と芋、たっぷりのパンにトマトのスープ。

 大変な一日を終えて帰ってきた騎士たちは、腹が空いて仕方がないのか、次々と列に並び、あっという間に机が埋まっていく。


 シェリンはレネやハンスと同じテーブルでスープをすくいながら、ちらりと食堂の入り口に視線を向けた。


(……リシャールさん、今日も、遅れてる)


 リシャールは、いつも混雑を避けて時間をずらしてやってくる。彼の姿が見えるのは、だいたいみんなが食べ終わり、皿を片付け始めるころだった。


「おいしいー!」

「……レネさん、口の周りがトマトで真っ赤です」


 隣でパンをかじるレネが大きな声を上げる。

「こっち向いて」とレネの口元を拭いてやりながらも、昼のことがあってシェリンはどこか気がそぞろだった。



 案の定、周囲の騎士たちが食器の片付けを始めたころ、食堂の扉が静かに開いた。


 ――リシャールだ。


 いつものようにフードを深くかぶり、壁際の空いた席へと無言で歩いていく。

 誰とも目を合わせず、声をかけられても一瞥することさえない。ただ黙々と席へ向かい、食事を始めた。


「……あれ、リシャールおにいちゃん?」


 レネがその後ろ姿を見て、眉をひそめた。


「フード、あつくないのかな?」

「どうなんでしょう。レネさんだったらきっと暑くてすぐ脱いじゃいそうですね。……レネさん、おかわりは?」


 空っぽになった器を見て、声をかける。

 レネはスプーンをペロペロと口にしながら、スープのおかわりを要求した。

 彼女に「ちょっと待っててくださいね」と伝え、調理場まで向かう。


 レネ用のかわいらしい器にスープを入れていると、食堂からレネの大きな声が聞こえてきた。

 心配になってカウンターから覗いてみると、いつのまにかレネは席を立っていて、その後ろからハンスが慌てて追いかけている。


 レネの視線の先には、食事中のリシャール。


(……まずい)


 シェリンも慌ててレネの元へ戻ろうとしたが、もう間に合わなかった。


「あついのに、ぬがないの?」


 無邪気に笑いながら、レネの手がフードへと伸びる。

 その指先が、布にほんの少し触れた――その瞬間だった。


「触るなッ!!」


 低く鋭い声が、食堂に響いた。


 その瞬間、時間が止まったかのようにざわめきが静まる。


 リシャールは後ろを振り返り、レネの手首をがっしりと掴んでいた。

 突然の出来事に驚いたのか、レネは目を丸くしたまま固まっている。

 その姿を見たリシャールが、少し動揺したように体を震わせ、手を振り払う。


「……二度と、僕に触るな」


 フードの奥から聞こえる声は、怒りというよりも、何かに怯えるような――切実な拒絶の色を帯びていた。


 レネが声も出せず立ち尽くす中、リシャールはギュッと手を握りしめて、そのまま食堂を出ていった。


 シェリンが駆け寄ると、レネの瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。

 自分が何を間違えたのか分からず、ただ怖くて、悲しい――そんな気持ちが、縋りついてくるレネからは感じられた。


 レネの大きな泣き声が食堂に響き渡り、廊下にいた騎士たちも何事だとわらわら集まってくる。

 事情を知っている騎士から話を聞くたびに、集まってきた騎士たちは困ったようにヘニャリと眉を下げていた。


「……とりあえず、医務室に戻ろうか」


 こちらに優しく微笑みかけたハンスだったが、その目の奥には、拭えない複雑な色が浮かんでいた。



 ***



 夜の医務室は、食堂の喧騒とはうって変わって、しんと静まり返っていた。


 蝋燭の明かりがぽうっと灯る中、レネはシェリンの腕にギュッとしがみついて、診察台の上にちょこんと座っている。


「いたいの、ここ……」


 真っ赤になった手首を、レネが涙交じりに突き出す。

 それを見たハンスが優しく頷いて、そっと薬草で作った軟膏を塗りながら、ゆっくりと声をかけた。


「痛かったね。こんなに強く握るなんて、リシャールもやりすぎだ。……でもね、レネ。誰にだって、触られたくないものや、触れてほしくない場所があるんだよ」

「でも……リシャールおにいちゃん、なんにも言ってくれなかったもん……」


 レネはふくれっ面のまま、涙をポロリと一粒こぼした。


「ぼうし、暑そうだったのに、ぬがないから……! ぬがせてあげようと思っただけだもん……!」


 再び泣きそうになりながら、レネはシェリンの胸元に顔をうずめた。


 シェリンは、レネの小さな背中をそっと撫でながら、胸の奥で複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。


 リシャールの気持ちが分からないわけではない。

 シェリンもきっと、同じことをされれば、相手がレネであったとしても冷たい視線を投げかけていたと思う。


 けれど、あのとき、レネがどれだけの勇気を出して手を伸ばしたかも、よく分かっていた。

 怖い人で嫌いだけど、仲良くもなりたい。そんな思いで伸ばした手を、強い言葉とともに振り払われてしまっては、レネがこうして怒るのも仕方がないのかもしれない。


「レネ」


 ハンスが穏やかな声で呼びかける。


「たとえばね、レネだって、おねしょしたことを勝手にいろんな人に話されたりしたら、嫌な気持ちになると思わない?」

「……なる」

「うん。だからね、人のものにも、人の心にも、ちゃんと『触れてもいいですか?』って聞いてから触るようにしよう」


 レネは静かに頷いてから、ふとシェリンの顔を見上げた。


「シェリンおねえちゃんも……秘密にしたいこと、あるの?」


 不意の問いに、シェリンは一瞬まばたきをしたあと、そっと目を伏せて、小さくうなずいた。


 レネはそれ以上なにも聞かなかった。

 ただまた、ぎゅっとシェリンに抱きつく。


 ――そのとき、医務室の扉が音を立てて開いた。


「ほら、お前、ちゃんと謝れ!」


 カミルが、押し問答の末にリシャールの腕を引いてやってきた。

 不機嫌そうなリシャールはフードを目深に被ったまま、カミルの手を強く振り払った。


「嫌だって言ったのに無理やり連れてきたんだから、カミルも謝ってよね」

「わかったわかった」


 ぴしゃりと吐き捨てたリシャールは、しばらく無言のまま立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりとレネに向き直った。


 レネも、少しだけシェリンの腕の中から顔を出す。


 互いに、言葉を探して、口を開くのをためらって――


「……ごめんなさい」


 先に声を出したのはレネだった。

 泣きそうな顔のまま、でもきゅっと唇を引き結んで、はっきりと頭を下げる。


「わたし、さわっちゃいけないのに、さわっちゃった……」


 その言葉に、リシャールの右手がぴくりと動いた。

 しばらく沈黙のあと、彼は小さな声で返した。


「……僕も……言いすぎた……ごめん」


 それだけ言って、また視線を逸らす。


 それでもレネは、それを「仲直り」と受け取ったらしく、くしゃくしゃの顔で小さく笑った。


「おにいちゃん、さわっていい?」


 レネは静かに問いかける。

 その声は、怯えと、それでも仲良くなりたいという気持ちが混ざった、かすかな願いのようだった。

 おそらく駄目だろう、と予想しつつも、彼のまとう雰囲気が食堂のときように冷たいものではなくなったことに、シェリンは少し驚いた。


「……駄目だ。呪われるから」


 どこか自分自身に言い聞かせるような響きだった。


「呪われる……?」


 思わず聞き返してしまったシェリンの言葉に、彼は小さく舌打ちをこぼしながら続けた。


「謝ったんだしもういいでしょ? 帰る」

「おい、リシャール!」


 そう吐き捨てて、彼は足早に医務室を飛び出していく。その後ろを、再びカミルが追いかけていった。


「レネさん、ちゃんと謝れて偉かったです」


 頭を優しく撫でてやると、レネは目を細めてはにかんだ。


「リシャールも、悪い子じゃないんだけどね。僕からよく言い聞かせておくよ。……レネ、眠そうだね。誰もいないし、今日はここで寝る?」


 複雑そうな表情で笑ったハンスに、小さく頷く。


 泣き疲れたのか、うとうとし始めたレネの背中を優しく叩きながらも、シェリンは「呪い」という言葉が頭から離れなかった。

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