二章 医師見習いの少年①
朝から空は優しい曇りに包まれていて、強い日差しが苦手な薬草たちにとっては過ごしやすい一日になりそうだった。
森の中は日陰が多いので少し肌寒かっただろうが、街では心地のよい天気で、思わず眠気を誘われてしまうほどだった。
いつものように洗濯を終えたシェリンは、医務室で薬草と薬の整理をしていた。
ハンスが街へ往診に出かけてしまったため、今日の日中は医務室の留守番だ。より専門的な知識が必要な患者がいるということで、街の医師の元へ行ってしまったのである。
本当はシェリンよりも少し年上の、ハンスに教えを受けた少年がいるそうなのだが、その少年もどこかへ出かけてしまっていて、今は連絡が取れないのだという。
そこで、薬草の知識があるシェリンが代わりに、レネと医務室で過ごすことになったのだった。
レネは、遊び疲れてスヤスヤと眠るミアの隣に、お気に入りの猫のぬいぐるみを置いて、真剣にその絵を描いている。
(そろそろお絵描きも終わるだろうし、レネさんが退屈しない遊びを考えないとな……)
今日はリンダとハンスもいない。
シェリン一人でレネとミアの相手をしなければならないのだ。
ハンスが帰ってくるまでは気軽に散歩に行くこともできないし、どうしたものだろうか。
(私は、小さいとき……)
何をして遊んでもらっていただろうかと思い出す。
『毒薬ってね、意外と作るの簡単なんだよ〜! 教えてあげるね! 変なヤツ来たらそれぶっかけるんだよ?』
『まず、足元を狙う。体勢を崩し、そのまま首筋を――という動きだ。まだ難しいかな』
――駄目だ。
シェリンの育ての親たちは、遊びと称してさまざまなことを教えてくれたが、どれも危険なものばかり。
レネにそんなことはさせられない。自衛のためだとしても、もう少し大きくなってからでないと、自分の命を危険にさらすことになる。
内心、頭を抱えながら悩んでいると、トントンと医務室の扉が控えめに叩かれた。
返事をすると、静かに開いた扉の隙間からひょっこりと顔が出てくる。
「……ヒューさん?」
「あれ、シェリン……と、レネ? なんでここにいるんすか?」
「ハンスさんが往診に行っていて。今は私とレネさんでお留守番をしています」
「え、ハンス先生いないのか」
「おいおいマジかよ」と困ったように眉を下げる表情は、どこかカミルに似ていた。
さすがは彼に教えを受けた人だ、と苦笑する。
「どうかしましたか?」
「ちょっと調子乗って跳んだら、ひねったんすよ。ハンス先生にこっそり薬もらおうと思って。……カミル隊長には黙っててくれません? 見つかったらまた説教だ」
右足首を指しながら冗談めかした調子で言う彼に、シェリンはふっと笑ってしまった。
「リシャールも外?」
「リシャール、さん……?」
「俺と同い年の医師見習い。でもその感じだと、今日はいないっぽいすね。……ま、レネがいる時点で一緒にはいないか」
何か含みのある言い方に、おそらくハンスが言っていた医師見習いの少年――リシャールを、要注意人物として頭の中に記憶しておく。
どうやらレネとリシャールはあまり仲がよくないようだ。
「ハンス先生っていつ帰ってきます? そのときにまた来ますわ」
「捻挫くらいでしたら診ますよ。私でよければ薬を作ります」
「え? シェリンって医師見習いだったんっすか!?」
「見習いというほどではありませんが……育ての親が薬師だったので、小さいころから薬の知識は叩きこまれてきました。軽い怪我は自分で治療することの方が多かったです」
別に放置しておいてもそのうち治るので気にしていなかったのだが、擦り傷や切り傷を見つけると、口うるさく叱られたものだ。
そのたびに目の前で薬を作らされ、薬をきちんと使うまで解放されなかったことを思い出し、力ない笑いがこぼれた。
だがその彼のおかげで、騎士団という申し分ない顧客に育てた薬草や薬を売ることができ、森で暮らしていても生活費には困らなかったのだ。
「じゃあ、頼んでも?」
「はい、もちろんです」
椅子に座ったヒューのズボンを丁寧にまくり上げると、じんわりと赤みを帯びた足首が現れた。じっとしているだけでも、熱と痛みを帯びているだろうことが分かる。
いったい訓練で何をすればこんなことになるのだろうか。
「顔、顔! ちょっと高いところから飛び降りたときに着地失敗したんですって」
「ヒューさんって騎士見習いですよね? 見習いもそんなことを? 騎士って大変なんですね……」
「……んー、まぁこれはその……ちょっと遊んでたっていうか、その……だからカミル隊長には言ってほしくねぇっていうか……」
カミルに隠したがる理由を知って、納得がいった。
「捻挫ですね。冷やしましょう」
シェリンは戸棚から薬草と道具を取り出した。
レネは絵を描き終えたのか、興味深そうにこちらの手元を覗きこんでいる。
「ねぇ、シェリンおねえちゃん。今何してるの?」
「ヒューさんが怪我をしてしまったそうなので、その治療をしようと思って……そうだ、レネさん。お医者さんごっこをしましょうか?」
くるりと顔を向けて笑いかけると、レネの瞳がぱっと輝いた。
「やる!」
その返事に、ヒューは「お、今日はレネが先生すか?」と笑った。
「では、レネ先生。まずはこの薬草を細かくちぎってください。このくらいの大きさに」
レネに小さな器を渡し、隣で自分も準備を進める。
薬草と混ぜるための水、包帯など、それぞれを素早く並べながら、必要な分量を測っていく。
「すげぇな……医者にはなんねぇの?」
「あんまり考えたことなかったです。それも、いいかもしれませんね」
当たり障りのない返事をして、レネに薬草のすり潰し方を教える。おそらく初めてのことだろうに、とても上手に薬を作っていた。
「お、レネもありがと。一生懸命作ってくれて、こりゃ効きそうな薬だ」
レネは褒められて照れくさそうにうつむいた。
その小さな手が、慎重にすり潰した薬草の汁で緑色に染まっていて、ふっと笑ってしまう。
ほどなくして薬が完成し、ヒューの足首に薬液に浸した布を当て、包帯でしっかりと巻き留めた。
「レネ先生、『しばらく安静にしてください』って患者さんに伝えてもらってもいいですか?」
小声で伝えると、レネは「あんせーにしてください!」とそのまま伝えてくれた。意味はまったく分かっていなさそうな顔で。
とても頼もしいお医者さんだ。
「はーい、先生。ありがとな」
そう言ってレネの頭を優しく撫でたヒューは、ふと何かを思い出したように、開いたままの扉へちらりと視線をやる。
シェリンも気配を感じて扉の方を見ると、ほんの一瞬、誰かのローブがひらりと風になびいて消えた。
「……どなたでしょう?」
「ん? ああ、今のは多分リシャールっすね」
ヒューは軽く首を回しながら、何気ない口調で続けた。
「さっき言った医師見習い。あいつ、騎士団の中でもちょっと浮いてるんすよね。いつもフードかぶって、なんか訳アリっぽい感じ? ほとんど誰とも関わらずに過ごしてて、懐いてるのはハンス先生くらいじゃね? 俺も詳しくは知らねぇすけど」
「レネ、リシャールおにいちゃん嫌い。こわいから」
ベーと苦いものを食べたときのように顔を歪めたレネの、薬草でベトベトになった手を拭いてやる。
「せっかく仲良くしようと思ったのに、レネのこと『いや』って言ったの! だからきらい!」
「そんなことがあったんですね……」
人懐っこいレネが、これほど他人のことを嫌だと言うのは、ここへ来て初めて見たかもしれない。それほどのことがあったならば、無理に近づけない方がよさそうだ。
(それにしても、騎士団でそんなふうに言われてるなんて、どんな人なんだろう?)
ヒューは「訳アリっぽい」と溢していた。
シェリンと同じように、隠したいことがある人間ということだろうか。
シェリンは廊下を見つめたまま、小さく息を吐いた。
さっきの視線――レネを、というより、シェリン自身を明らかに意識していたものだった。それも、憎しみのような感情まで感じるほど、強い視線。
シェリンの自意識過剰か、それとも――。
穏やかな午前は、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと過ぎていく。
けれど、胸の奥に残った違和感だけは、消えてくれなかった。