一章 騎士団での新生活③
重厚な扉の前で、レネは白猫――ミアを胸に抱きながら、ひそかに肩を震わせていた。
シェリンがそっとその背に手を添えると、レネはこくんと小さく頷く。
「大丈夫です。レネさんなら、きっと伝えられます」
そう声をかけると、レネは顔をあげて扉を見つめた。
ノックの音が廊下に響くと、中から静かな声が返る。
「入れ」
ハンスが扉を押し開け、三人は中へと足を踏み入れた。
執務室の中は整然としていて、無駄なものが一切ない。木の机と棚が並ぶその奥に、黒髪の男が一人、書類に目を通していた。
第三騎士団長――フュラー・ロンペルディア。
廊下で会ったときと同様に、どこか冷たさの感じる空気をまとっていた。
レネはその姿を見た途端、思わず背筋をぴんと伸ばす。
「急に押しかけてごめんね。ちょっと相談があって」
そう言うハンスの隣で、レネがぐっと猫を抱き直す。
フュラーが書類から顔を上げ、こちらを見た。
鋭い眼差しに、レネは一歩後ずさりかける。
大丈夫、と優しく手を背中に添えると、決意したようにぴたりと動きが止まった。
「……あの……この子……ミアを……飼いたくて……っ」
声は小さく震えていたが、レネの腕にはしっかりと力がこもっていた。
ミアもそれを感じ取ったのか、じっと静かに彼女の腕の中で丸くなっている。
フュラーは何も言わず、その様子をじっと見つめた。
やがて、静かに椅子から立ち上がり、歩を進める。
レネが思わず身をこわばらせる。
シェリンも息をひそめながら、その動きを見守った。
そのままフュラーは猫の前にしゃがみ、無言のまま、その額にそっと指を触れた。
「……まだ幼いな。外で拾ったのか」
「うん……」
「…………」
フュラーはしばらく猫の体をなぞるように手を添え、ひと息、静かに吐いた。
「騎士団で生き物を飼うなら、責任を持て。世話ができないなら、手放す判断も必要だ」
その声は決して厳しくはなかった。
ただ、真っ直ぐで、誤魔化しのきかない重みがあった。
「わ、わたし……一人じゃできないけど……シェリンおねえちゃんと一緒なら……絶対、ちゃんとするから……!」
その言葉に、フュラーの視線がシェリンへと移る。
そのまなざしは、まるで問いかけているようだった。
「はい。私も手伝います。それに、この子も、いい子です」
シェリンがそう答えると、フュラーはほんのわずかに瞼を伏せた。
「……ならば、異論はない」
レネがぱっと顔を上げる。
次の瞬間、目にいっぱい涙を溜めながら、にっこりと笑った。
「ありがとうっ、団長さん!」
その声に、フュラーの口元が――ごくわずかに、動いた気がした。それは笑みとも呼べないほど、かすかな表情だった。
それを見逃さなかったのか、ハンスが小さく笑って肩をすくめる。
「それと、もうひとつ。この子がシェリン。前に話したことがあったでしょ? 薬草や薬を卸してくれている子がいるって」
「……ああ」
フュラーはもう一度シェリンを見た。
その目は、まるで彼女の内側を覗き込むかのような深さを湛えていた。
シェリンはその視線を、まっすぐ受け止める。
「……よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
それだけ言って、フュラーは再び席へと戻った。
背を向けたままでも、存在の重さが残る、そんな静かな人だった。
「よかったですね、レネさん」
執務室を出たあと、シェリンが微笑みながら言うと、レネはこくこくと頷き、ミアの頭をそっと撫でた。
「うん……がんばるよ、ちゃんと……!」
「早くお勉強しよう!」とハンスに呟く姿は、やる気に満ちあふれている。
そんなレネに応えるかのようにミアが「にゃあ」と鳴き、三人の笑い声が廊下にこだました。
***
夕食の支度を一緒に進めていたハンスから、香草を摘んできてほしいと頼まれたのは、日が傾き始めたころだった。
ミアのこともあって、今日の昼はとても忙しかったので、シェリンもすっかり忘れていた。料理を始めて、ようやく気づいたのだ。
「シェリン、ごめんね。ありがとう。暗くなってきてるし、足元に気をつけて」
そう言われてカゴを受け取り、シェリンは一人、騎士団寮の中庭にある小さな畑へと向かった。
畑の周囲には背の高い木が並び、風に揺れる葉の音と、遠くで鳥の鳴く声が心地よい静けさを作っている。足元には薬草やハーブが整然と並び、夕日を浴びてきらきらと輝いていた。
(バジル、タイム……ミントと、ローズマリーもあるといいかな)
しゃがみこんでひと枝ずつ丁寧に摘んでいく。
香草のいい香りと、湿った土の匂いが混じり合って、森での暮らしを思い出させた。
しかし、その穏やかな空気は、唐突に破られることになる。
――カサ、カサ。
何かが動く音が聞こえた。
似たようなことが今朝もあったなと思いながら、音のした方を振り返った。
「あれ……」
畑の隅に、小さな人影が見える。
――レネだ。
彼女はなぜか両手に何かの草をたくさん握りしめていた。
「レネさん? どうしてここに……? カミルさんはどうしたんですか?」
声をかけると、レネはピクリと体を震わせ、そっと視線をそらした。
帰宅したリンダや、夕食の支度をしているシェリンたちの代わりに、カミルがレネを見てくれていたはずなのだが、この様子だと、勝手に外に出てきたようだ。
「カミルが、行ってらっしゃいーって言ってた!」
「言ってないと思います……」
シェリンが言葉を失っている間に、レネは満面の笑みで手にしていた草を振り回した。
「これ、ミアのごはん! ハンスせんせいに本でおしえてもらった! ミア、喜ぶかな?」
「あ、走ったら危ないですよ――」
止める間もなく、レネは不安定な足元でぐらりとバランスを崩し、そのままシェリンの腕に抱きつく形で倒れこんだ。
「ちょっ……!」
泥がはねる。カゴが倒れる。香草があたりに散らばる。
二人して、グシャリと地面に転がっていた。
「おねえちゃん、だいじょうぶ……?」
「大丈夫ですけど……レネさんは泥だらけですね」
服だけでなく、顔や腕も土で真っ黒になっている。
(これは戻ったら水浴びしてもらわなきゃ)
もう今日何度目の着替えだろうか、と苦笑する。
地面に散らばった香草を拾いながらカゴに入れなおしていると、少し離れた場所から大きな声が届いた。
「おいレネ! 勝手に俺を置いて出ていくな!」
振り返ると、シャツ姿のカミルが畑の入り口に立っていた。レネとシェリンを見て、目を丸くする。
「……なんだその格好。畑で戦でもあったのかよ?」
「ミアのご飯さがしてた! ハンスせんせいと勉強した成果!」
「ハンスぅ……」
ふっと遠い目をしてため息をついたカミルと、シェリンもおそらく同じような気持ちだった。
シェリンは仕事をしていたので詳細は分からないが、きっと猫の餌について、ハンスはレネにとても細かく教えたのだろう。
少なくともシェリンの脳内のハンスは、「この草は騎士団の畑にも生えてるんだよ。今度一緒に見に行ってみようね」と告げている。
レネはそれをしっかり覚えていて、こっそり取りに来たに違いない。
「レネ、お前さっきリンダに風呂に入れてもらったばっかりだろうが! こんなに泥だらけになりやがって……まったく……こりゃ帰ったら二人まとめて風呂だな」
ポリポリと頭をかきながら呆れたように笑うカミルに、シェリンは小さくため息をつきつつ、レネの頭の上から草を取ってやった。
「本当に、目が離せないんですから……」
「うふふ、でも楽しかったね!」
その無邪気な声に、シェリンは肩の力を抜き、カゴを抱えて立ち上がる。
「急にいなくなるとみんなびっくりしちゃいますから。ちゃんとカミルさんの言うことを聞かなきゃ駄目ですよ、レネさん?」
「はーい!」
泥のついた草を持った手を高く上げるレネの返事は、軽いものだ。
きっとまた、明日も似たようなことが起こるのだろうと、シェリンは心のどこかで既に覚悟していた。