一章 騎士団での新生活②
レネの部屋の扉を開けると、ふんわりと優しい香りがした。ラベンダーのサシェが、窓際に吊るされているのが見える。
棚の引き出しを開けて、着替えを取り出していると、どこかで「カサッ」と何かが動く小さな音がした。
(……ん?)
気配を感じて戸口の近くを見やると、小さな影が床の隅を走り抜けた。
「わ……!」
突然のことに思わず声が出たが、そこにいたのはネズミでも虫でもなく、小さな白い猫だった。ふわふわとした長毛で、ぱっちりとした青い大きな瞳が、シェリンの姿をしっかりと映していた。
「……あなた、どこから入ってきたの?」
しゃがんで優しく子猫を抱き上げると、部屋の中を見渡す。
子猫が入れるほどの穴でも空いていたのかと心配になったが、机の上を見た瞬間、その懸念は消えた。
丁寧に置かれたピンク色のかわいらしいタオルの中心は、上に何かが居たかのようにくっきりと形ができており、そのそばには水の入ったコップが置かれている。
『今日はシェリンお姉ちゃんの部屋でねる!』
いつもはレネの部屋で一緒に寝ていたのに、昨日の夜はそう言って譲らなかった理由に納得した。
おそらく、レネはどこかで子猫を拾ってきたのだろう。そして周囲の目を盗んで自分の部屋へと連れ帰り、昨日からここで世話をしていたようだ。
(どうするかなぁ、これ……)
子猫の頭をゆっくりと撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
噛まないし、引っ掻きもしない、賢い子だ。
昨日からここに居たのならお腹は空いているだろうし、飼い猫ではなさそうなため、一度洗ってやらなければならないだろう。
しかし、レネが隠れて子猫を連れてきたという以上、以前にもこんなことがあったのかもしれない。
ひとまず、ハンスに飼ってもいいのか確認を取るまではどうにもできないと判断し、レネの着替えを手に取る。
「あなたも一緒に来てくれる?」
そう問いかけると、子猫は尻尾をふわりと揺らして小さく「にゃあ」と鳴いた。
***
医務室の扉を開けると、ちょうどハンスがレネを追いかけているところだった。レネはタオルで頭をくしゃくしゃにされながら、くすぐったそうに笑っている。
「おかえり、あら……その子は?」
「その……レネさんの部屋に、いたんですけど……」
「あー! ねこちゃん!」
レネの弾けるような声に、白猫は一瞬ピクリと耳を動かしたかと思うと、前足をバタつかせるようにして駆け寄ってきたレネの胸元へもぐりこんだ。
レネは子猫の背を撫でながらくすぐったそうに笑っている。子猫はお返しとばかりに、レネの頬に鼻先を押し付けていた。
とても微笑ましい光景には違いないのだが、タオルを手にしたまま困ったように眉を下げているハンスを見て、シェリンはなんとなく事態を悟った。
「うん、そっかぁ、連れてきちゃったか……猫ってかわいいもんね……」
「外に放してきた方が良かったですか?」
「あ、シェリン、誰もいないしそのまま入ってきてくれて大丈夫だよ。毛が落ちてもあとで掃除しておくから気にしないで」
そう言ってくれたハンスに甘えて、子猫を抱いたままのレネと医務室の中へ入る。
嗅ぎ慣れた薬品の臭いが、鼻の奥をツンと刺激した。
「その猫は最近騎士団の施設内で見つけた子でね。レネと散歩してたときに。わりと元気だったから、しばらくしたら出ていくのかなって思って放っておいたんだけど、レネはこっそり会いに行ってたのかな?」
穏やかな風がふと吹き抜け、ハンスの白茶の髪が優しく揺れた。
リンダはレネの服を受け取りながら、「おとなしくしてたかと思えば、ほんと油断も隙もないわね」と少し呆れたようにため息をつく。
「レネ一人じゃ育てるのは難しいから飼えないってこの間伝えたでしょ?」
「レネ一人でも大丈夫だもん!」
「ほんとに? その子のご飯とかどうするの。レネ一人じゃ作れないでしょ?」
「作れるもん!!」
リンダは諭すように言葉を重ねたが、レネはまったく納得がいかなそうに唇を尖らせている。
「レネの気持ちが分からないわけじゃない。本当は許可を出してあげたいけど、僕らも仕事があって常に見てあげることはできないんだ。せめて、リンダさんがいるときだったら……」
ハンスはそっと目を伏せる。
レネの腕にギュッと力が入り、子猫は苦しそうにバタバタと動き回る。ピョンとレネの腕から飛び降りると、シェリンの足元にすりすりと頬を擦り付けた。
見た目よりもずっと軽く、柔らかいその体をそっと抱き上げる。
それを見たレネは、何かに気づいたようにハッと顔を上げ、二人の方を振り返った。
「……おねえちゃんは!? シェリンおねえちゃんと一緒でもだめ?」
「…………」
レネの突然の言葉に、シェリンは思わず口をつぐんだ。
確かに、リンダの後任としてこの場にいる自分なら、ハンスの条件は満たしている。けれど――
(私、動物の世話なんてしたことない……)
森で暮らしていた頃は、むしろ野生の動物とは距離を取ることが多かったくらいだ。
孤児院にいたときだって、姉たちが小さなうさぎを抱いているのを遠巻きに見ていた記憶しかない。今抱いているこの子だって、見よう見まねでなんとかしているだけ。実際の世話というのがどれだけ大変かなんて、想像もつかない。
しかし、レネは今にも泣きそうな目でこちらを見上げていた。
その視線に気づいたリンダが、ふっと口元をゆるめる。
「たしかに、シェリンにもすごく懐いてるみたいだし……シェリンがいいって言ってくれるなら、心強いと思いません? ハンス先生」
「それは、そうだけど……」
「本当に大丈夫? 無理してない?」とでも言いたげなハンスの視線に、思わず苦笑してしまう。
大きな瞳をうるうるさせて必死にお願いしてくるこのかわいらしい少女を、誰が無下にできるというのだろうか。
「私は大丈夫ですよ。この猫ちゃん、とっても賢い子でかわいいですね」
ゆっくりと子猫をレネの腕に戻してやると、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
太陽のように明るい笑顔に、自然と口角が上がる。
「ハンスせんせい、シェリンおねえちゃんいいって!」
「うん、そうだね。ちゃんとお礼を言って、レネもその子のために一緒に勉強しようね」
「うん! シェリンおねえちゃんありがとう! だいすき!」
ありがとう、とハンスが小さく呟いたのに、シェリンは微笑みで応えた。
「とりあえず、団長には伝えとかないとね」
「団長……?」
「ああ、シェリンはまだ会ったことなかったっけ」
盗賊の件の報告で王都に行っていたから、と彼は笑う。
「もう帰ってきてるはずだから、後で紹介するよ」
「団長ってすっごくかっこいいのよ! 全然話さないし笑ってもくれないけど、それがまたクールでかっこいいっていうか……!」
思わずのけ反りそうになるほどの勢いで、目をキラキラと輝かせたリンダが早口でまくしたてる。
シェリンの頭の中では、リンダの言う騎士の特徴と、先ほど廊下で出会った騎士の特徴とが、ぴったり重なりあっていた。
「黒髪の騎士さんですか?」
「そう! フュラー団長に会ったの!? かっこよかったでしょう?」
「そうですね、すごく強そうな方でした」
――あの騎士が第三騎士団長だったとは。
近寄りがたい雰囲気があるのも納得だ。
「静かであんまり表情が変わらないから、ちょっと怖く見えるけど、すごく優しい人だから仲良くしてあげて」
そう言って、ハンスは少しだけ懐かしむように目を細めた。
「じゃあ、ねこちゃんのことも、いいって言ってくれる?」
「どうかな。でも、レネがちゃんとお世話できるなら、きっと大丈夫だと思うよ」
「ちゃんとする!」
ふんすと鼻息を荒くするレネに、シェリンは猫を見下ろして小さく頷く。
「レネさん、最初のお仕事です。まずは猫ちゃんの体を洗って綺麗にしてあげましょう」
騎士団で飼うならば、外の汚れが付いたままではよくない。そして何より、病気を持ち込まれてレネに移ってはいけない。
「えいえいおー!」と拳を突きあげるレネを見て、リンダと思わず目を合わせて微笑んだ。
カーテンの隙間から、穏やかな昼の光が一筋差しこんでいる。
「……着替えは後ね、どうせまた濡れるでしょうから」
リンダの小さなため息が、淡く薬の香りに溶けて消えた。




